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正月休み明けの、東京の街は静かだった。デモもなければ買い溜め騒ぎもなかった。
百貨店やスーパーマーケットにいくらか品物が増えた。通産省や農林省が、正月早々、メーカーや問屋を督促して、できるだけ多くの商品を街へ送り出させたためである。消費者も、群集心理に駆られた年末の数日間のような真似はしなかった。一部の食料品や日用品は入荷と同時に売り切れたが、他の商品にはそんなことはなかった。
だが、そんなことで喜んでいるわけにはいかない。肝心の生産は急速に低下しはじめていたからだ。
石油製品の販売量は、十一月末から十二月にかけては一日平均百万キロリットルを大きく上回り、とくに十二月後半には百三十万キロリットル内外の日が続いたが、一月にはいると、六十万ないし七十万キロリットルぐらいに減った。消費者に買い溜め余力がなくなったという見方もあったが、ようやく消費節約の態勢が整ったという見方が有力だった。だが、石油輸入の方はそれ以上に落ち込んだ。
十二月中頃までの石油輸入量は、一日平均八十五、六万キロリットルという平常ペースを保ったが、二十日頃から六十万キロリットル余りに低下、新年一月にはいると五十万キロリットルを割った。
[#1字下げ]「昨夕、Q海運所属の承天丸が原油八万一千キロリットルを積んで、大阪府泉北石油バースに入港。同船が中東原油を積んだ最後のタンカーである」
一月九日の昼前、石油連盟からエネルギー庁にこんな報告があった。そしてその翌日からホルムス海峡封鎖の影響が、日本の石油輸入にもろに現れることになった。
十日以降、石油輸入量は急減し、一日平均十六、七万キロリットルとなった。それに伴って、毎日五十万キロリットル前後も、石油備蓄量が減りだした。
このことは、とっくの前から予想されてはいたが、実際にそれが始まると反響は大きかった。
だが、政府は五〇%の石油消費節減に踏み切れずにいた。
第二次節減までは、全分野にわたり石油需要を少しずつ削る、�相似的縮小�をねらったものだが、第三次節減は、国家経済と国民生活の最低限の維持に不可欠な分野にのみ、石油を重点的に配分し、その他の分野は思い切って削るという�不均衡重点配分�の性格を持っていた。こうした不平等な配分を行うことは、戦後の日本人の発想とは全く相入れぬものであった。
エネルギー庁は第三次節減の早急な実施を正式に提唱した。山本通産大臣も、十四日になってそれを了承し、次の閣議に提案すると約束した。だが、それはすぐ取り消された。「成人の日」の休み明けから実施した第二次石油消費節減が、予想外の混乱を生んだからである。
一月十六日、まず各地で交通機関の混雑が発生した。マイカー通勤者が電車・バスに乗り換えたためだ。
政府では、マイカー通勤者は全体の三%以下だから、乗り換えの影響をそれほど心配していなかった。だが、事務室の暖房抑制で真冬の着ぶくれが例年以上にひどかったことと、荷物持ち客などの急増で計算以上の混乱を招いたのだ。
東京・大阪の国電や地下鉄は多数の積み残しを出し、怪我人も出た。
バスだけが頼りの、郊外などはもっとひどい混乱となった。最近開けた団地や新興住宅地から最寄の駅までのバスは、はじめの停留所で満員となり、途中からの客は見捨てられた。工場地帯では駅から工場までのバスがあふれ何時間も遅刻する者も少なくなかった。
バスの本数が少ない地方の過疎地帯では、もっとひどかった。ここでは一台バスを見送ると三十分ぐらい待たねばならない。しかもその次のバスもまた超満員という状況だったから、出社をあきらめる人が続出した。ある地方では、最終便に積み残された乗客がバス会社の事務所に乱入する事件も起こったし、家に帰れなくなった、と警察に泣き込んで来る女性もあった。だが、バスの会社の方は容易に臨時増便を出すわけにはいかなかった。路線バスも「前年同期以下」という燃料制限があったからだ。
このままでは、地方の経済と生活は崩壊する、と地方自治体や農山村選出の国会議員たちは騒ぎだした。現在では、農村でも地方都市の役所や工場に通勤している者が非常に多いのである。
第二次石油消費節減に対する世間の反発を強めたもう一つの要素は、その対策措置が円滑を欠いたことだった。
政府は昨年末に編成した補正予算で、数多くの救済措置を決め、これが国会を通過するまでの間も予備費の運用などで万全を期す予定であった。だが、現実にそれを施行する行政事務が、末端で混乱し遅滞した。
たとえば、中小・零細企業に救済のための緊急融資を行うことにしていたが、その内容と手続きが、あまりにも細かく複雑だった。緊急融資には「節電操業対策融資」、「原燃料不足対策融資」、「連鎖倒産防止融資」、「小規模企業特別融資」など七種類もの区別があり、そのそれぞれについて複雑な手続きと多数の添付書類が要求された。しかも、これを担当した政府金融機関や都道府県の職員は、このわずらわしい手続きを厳格に守った。彼らは、百の便宜よりも一つの不当を恐れるように訓練されているのだ。一挙に普段の数倍にもなった融資申請の処理は進まず、危機に追い込まれていた企業を苛立たせた。このため、せっかくの救済を待ち切れずに不渡手形を出してしまう中小企業や、高利貸に走る零細商店主も珍しくなかった。
失業対策もそうだった。政府はこの面にはとくに力を注ぎ、失業保険の延長のほか、臨時的な雇用で所得を得ていた人びとに、従来の日給の九〇%を特別給付金として給付することにしたが、これがまたきわめて厄介な問題となった。第二次石油消費節減の実施によって、タクシーの臨時運転手や建設労務者などの失職者数は、この段階ですでに百五十万人に達していた。しかし、これらの人びとの認定と従来所得の確認は著しくむずかしかった。
各地の職業安定所は、大群衆に取り囲まれた。そして職業安定所の職員たちは、この煩雑な事務を決しておろそかにはしなかった。二重給付や失業を偽っている者の受給を防ぐことが、何よりも大切だ、と考えたからだ。
第二次節減開始後一週間を経て、特別給付金受領のための手帳を交付されたのは、申請者の一割にも満たなかったし、書類の不備で申請を受け付けてもらえない者が何十万人もいた。
日本の行政機構は、精緻さと正確さにおいては世界第一級の能力を持っていたが、非常事態に際して拙速で事を処理する訓練は全く受けていなかった。いまや、日本の行政機構全体が、砂塵の中にほうり出された精密機械のように、きしみ声を上げていたのである。