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日期:2019-03-22 22:57  点击:273
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 石油節減強化の閣議決定から十日経っても、その具体的な事務折衝は完了してはいなかった。わずかに看板用照明の全廃や街路灯の節減、新聞の夕刊休止、テレビ放映時間の短縮が実施されただけだった。
 エネルギー庁が担当する石油の精製・流通機構の整理・縮小さえも、まだ目標の半分も進んでいなかった。どの精油所を停め、どこの精油所を稼働させるかは、いたってむずかしい問題だ。石油製品を全国に効率よくかつ公平に配分するためには、精油所の立地場所に着目する必要があったが、同時に、石油化学製品などの需給の最適形態を保つためには、各精油所に繋るコンビナートの生産物の構成を重視しなければならない。そのうえ、各精油所の所属企業とその親会社の色分けも重要だった。これを無視すると、国際石油資本や商社などの、日本に対する石油輸出意欲を失わせ、日本の石油事情を一層悪くする恐れがあったからだ。
 次の日曜日の十時頃、小宮幸治は役所へ出た。彼は、一月十五日の「成人の日」以来、一日も休んでいなかった。
 この頃では小宮ばかりでなく、エネルギー庁の職員の半分以上は、日曜も休日もなかった。黒沢長官も、寺木課長も、国会に呼ばれたり、陳情団に追い回されたりしなくてすむ日曜日こそ、本当の仕事ができた。だが、この時間ではエネルギー庁はまだ、どの部屋も静かで虚《うつ》ろだった。小宮は、ゆっくりと、石油第一課の部屋を眺め回した。
 部屋の中央には、煤けた鉄箱がある。それは、深夜の残業の時に、暖房の切れた寒さに耐えかねて、古新聞や木片を燃す素人造りのストーブであった。そこから飛び散った灰が、本棚にも窓枠にも花のない花びんの上にも厚く積もった。机の上にうず高く積み上げられた書類の上にも灰はこびりついた。それは、それらの書類の多くが、ここ二ヵ月間開かれたことも動かされたこともないことを示していた。石油危機の前に作った長期計画、流れてしまった予算要求の説明書、公害問題の想定問答集、そしてわずか三%か五%の価格変動の詳細を極めた解説文書、そういった類の紙の山なのだ。
 小宮は、たった二ヵ月間に起きた石油第一課の事務室の変化に、いまさらのように驚いた。それは、現在の日本社会全体の荒廃を象徴しているように思った。
 彼は、必要書類をかかえて、エネルギー庁長官室へ入った。日曜や夜遅くの仕事に、小宮はよくそこを使った。その部屋にだけは、小さな石油ストーブがあったからだ。意外にもそこには先住者がいた。公益事業部の安永博だ。
「君、もう来てたのか」
「もうといわずに、まだというべきだよ」
 安永はいつもの陽気な微笑を浮かべたが、その色白の顔に、深い疲労の影があった。
「またしても泊り込みだ」
「君の家は遠いから……」
 小宮は、この同期の親友に、同情した。
 安永博の住まいは、電車とバスを乗り継いで二時間近くもかかる新開住宅地にあった。彼は昨年四月、結婚と同時にそこのアパートに引越した。公務員宿舎に入れるまでの七、八ヵ月間のつなぎのつもりだったのだが、昨年末以来の石油危機のために、通産省の人事異動は延び延びになり、宿舎は空かなかった。おまけに、バスはひどく不便になり、電車は殺人的な混雑ぶりとなった。
 このため、安永はしばしば役所に泊り込まねばならなかった。
〈身重の新妻を残して、役所泊りはつらいことだろうなあ……〉
 と、小宮は想像した。安永の妻はいま、妊娠七ヵ月なのだ。
「そんなことより……」
 安永は深刻な表情になった。
「これは大変なことになるぞ」
「電力がピンチなのかい」
 安永は机の上の下書きの表を小宮に手渡しながら、いった。
「その前にガスだ」
 
 日本の家庭用ガスの普及率は世界最高の水準にある。パイプで送られる都市ガスや簡易ガスを使用する家庭が約一千三百万世帯、ボンベ入りの石油液化ガス(LPガス)、いわゆるプロパンガスを使用するのが約一千七百万世帯もある。合計三千万世帯という数は、自宅で炊飯しているほとんど全家庭に当る数字だ。そのガスの大部分が石油から作られているのだから、石油危機がガス不足を招くのも当然だった。とくに深刻だったのは日本の全家庭の六割が使っているボンベガス、簡易ガスだった。LPガスが足りなかったのである。
 日本のLPガス需給量は、平常年間千五百万トン弱、一日平均約四万トンである。このうち約二万三千トンが石油精製過程で発生するものであり、残り約一万七千トンはLPガスの形で輸入されている。一月はじめから、この輸入がほとんどゼロになった。世界的に石油精製量が減ったからだ。
 国内生産の方も、二月に入ると平常の七割に減少し、いまや一日の供給量は平常の四割、一万六千トン程度になっている。
 日本のLPガスの需要は、通常、工業用燃料や化学工業原料が全体の約三五%、タクシーなどの運輸燃料が一七%強、都市ガス・簡易ガスの原料になるのが三%から四%、残り四四、五%がボンベガスとして家庭用燃料に販売されている。
 エネルギー庁はまず、工業用燃料と化学工業原料に使われているLPガスをきびしく抑え、これを家庭用ガスに回した。このため、LPガスの無公害性に着目してこれを燃料にしていた工場や、アンモニア、メタノールを製造する化学工場のほとんどが操業停止を余儀なくされた。
 LPガスの家庭ガス用需要は、年間平均、一日一万九千トン内外だが、冬場の需要期には一日三万トン近くにまで拡大する。ところがこの冬には例年以上の需要があった。とくに一月下旬以降、一日三万三、四千トンにもなった。灯油などの入手難で、ガス暖房を使う家庭が増加していたのだ。
 それだけではない。石油精製から生産されるLPガスはプロパンガスとブタンガスがほぼ半々ずつだが、家庭用ボンベガスに使われるのは専らプロパンである。ブタンガスは常圧の液化温度が氷点下五、六度のため、寒冷地ではガスボンベ内で液化して出なくなるおそれがある。ところが、一日三万三、四千トンも使われる家庭用ガスとしてのLPガス需要のうち、三万トン以上がボンベガスなのだからプロパンガスの不足はとくにひどかった。工業用のLPガス使用を抑制しても浮くのは、主にブタンガスの方だったからだ。
 このアンバランスを調整するため、エネルギー庁は、ブタンガスを一五%程度混入した「Bガス」の販売を、南関東以西の太平洋側に限って許可した。これらの地域では、外気温が氷点下五、六度になることは滅多にないから、危険はない、とみたのである。だが、それでも、LPガスの不足はどうしようもなく大きく、日々一万五、六千トンもの備蓄減少が続いていたのである。
 都市ガスもピンチだった。現在日本では年間約九百億キロカロリーの都市ガスが、二百五十余のガス会社によって、供給されている。このうち約四分の一が、鉄鋼業や石油化学工業などで発生する石炭ガス・石油ガスを購入して賄われる。ところが、第二次石油節減実施で、鉄鋼、石油化学などの操業が低下したため、購入ガスの量は半減した。工場からの購入ガスに大きく依存していた地方のガス会社のなかには、ガス供給地域を縮小し、代わりにボンベガスを販売して、当座をしのぐところも現れた。
 全国の都市ガス販売量の七割余を占める東京・大阪の二大ガス会社は、その供給装置をフル稼働して、購入ガスの減少をなんとかカバーできたが、それでも冬場の需要ピーク期に当たっていたうえ、灯油不足による需要増が加わって、一部の地区ではガスの出が悪くなるという事態に追い込まれた。
 それに追い打ちをかけたのが、一月下旬からの天然ガス輸入の大幅減少であった。中東からの天然ガス輸入が停止しただけでなく、アメリカなどからの輸入も半減した。石油、LPガスの不足で天然ガスの需給が、アメリカでも逼迫したのである。
 その日の午後から、ボンベガスの割当配給制・都市ガスの時限供給制についての会議がたて続けに開かれた。
 まず、公益事業部内で、安永博が徹夜で作り上げた資料をもとに検討し、翌月曜日、エネルギー庁幹部会に上げられた。火曜日には、通産省の臨時省議にこれがかけられた。
 最大の問題は、配給されたボンベガスを期間以前に使い切った者に対する扱い方と、都市ガスの時限供給制に伴うガス中毒の危険だった。
 前者については、通産省の生活産業局や経済企画庁の国民生活局が強く指摘した。
 通産省原案ではLPガスの配給量は一日一人当たり〇・一キロと一世帯当たり〇・一キロだった。つまり二人の世帯は一日〇・三キロ、四人家庭で一日〇・五キロというわけだ。これは現在の平均消費量の半分から六割ぐらいだが、計算上は日々の炊飯と多少の雑用、それに週一回か十日に一度の風呂焚きまでできる量だ。しかしこれだと、四人家庭の世帯なら二十キロボンベ一本で四十日暮らさねばならないのだから楽ではない。ガスを計画的に毎日四十分の一ずつ使うというような芸当は、誰にもできることではなかろう。当然四十日分のボンベを三十日目か三十五日目に空にしてしまう家も出るだろう。そんな場合、あとの五日か十日をどうして暮らすのか。
 今日の日本の家庭では、薪や木炭を使うところはほとんどない。カマドはもちろん、七輪一つない所も多い。全くガスがなくなってしまうと、炊飯も湯をわかすこともできない家庭もあるわけだ。
 これに対してエネルギー庁は、配給前貸し制度を用意した。ガスを使い切った者には、必要最小限のガス、配給量の三分の二程度を前貸しし、次の配給分から差し引く、というものだ。
 これにも難点があった。前貸しとはいっても結局ボンベ一本を配るほかないから、これを目当てにどんどん前借りするものが現れたらどうするか、それが闇に流れはしないか、そしてその結果LPガスの需給が崩れ、配給体制が破壊するという事態になりはしないか、等々である。だが、これに代わる適切な方法を提言してくれる者は誰もいなかった。
 一方、都市ガスの時限供給制には、安全性の点から警察や消防庁が反対した。都市ガスの供給時間が切れるとガス器具の火は消える。そしてそのままにしておくと次の供給が始まった時に不燃焼ガスが吹き出し、たちまちガス中毒を起こす危険があるからである。
 もちろん、エネルギー庁でもそれぐらいのことはよくわかっていた。だが、それを覚悟で踏み切るより仕方がなかった。時限供給を行わず、自然にガス不足で火が消えるような事態が生ずれば、時限供給の何十倍もの被害の出ることが確実だったからだ。そして時限供給のPRについて、警察や消防にも最大の協力を依頼した。
 これをうけて、木曜日の各省事務次官会議は、長時間の激論の末、通産省が提案した「非常ガス供給制限措置」を了承した。それは次の三点からなっていた。
 ㈰タクシー用LPガスの供給を来週限りで中止する。ただし現在営業中の個人タクシー業者のうち、ガソリン車による営業を希望する者には、所定の手続きによりそれを許可する
 ㈪都市ガスの時限供給制を、来週木曜日より実施する。供給時間は全国一率に午前六時より午後一時までの七時間と、午後五時より同八時までの三時間、合計十時間とする
 ㈫ボンベガスの配給制を、二月二十五日の販売分より実施する。販売量は当面、一世帯当たり一日〇・五キロとするが、配給体制の整備をまって、さらに家族数、地域性などを勘案してきめ細かく定めるものとする
「とうとうやったね」
 小宮は安永の肩をたたいた。
 ここ数日間、安永の奮闘ぶりは目を見張るものがあった。安永こそこの決定を最も喜んで聞ける人物だ、と小宮は思っていた。
 だが安永の顔は、苦し気に歪んでいた。
「これで、俺は何万人もの生命を奪う計画の加担者になったわけだ」
「いや、君は何十万人もの生命を救う仕事をしたんだよ」
「それはそうだ。だけど救われた者と死ぬ者とは別人だ。十人を救うといって罪もない別の一人を殺したとしたら……」
 安永は少し声をつまらせた。
「君は疲れているんだ。今日は奥さんのところへ帰れよ、まだ電車に間に合うから」
 ちょうど、十一時二十分だった。
 政府は金曜日朝の閣議決定を待って、「非常ガス供給制限措置」の準備に入った。何よりも急がねばならなかったのは、都市ガス時限供給制についての広報であった。
 土曜日から毎日、すべてのテレビ・ラジオが一時間ごとに都市ガス時限供給制の実施とその危険防止の警告をスポット放送し、新聞も各頁の中央にそれを黒々と刷り込んだ。全地方自治体と警察・消防は、可能な限りの自動車を動員して、街中をマイクで連呼して回った。
 政府の各省庁は、所管の部門に協力を要請し、ポスターを掲示させた。運輸省は、国鉄、私鉄、地下鉄などの全駅にポスターを貼らせ、郵政省は全郵便局に、大蔵省は銀行や信用金庫に同じことをさせた。通産省は百貨店、スーパーマーケット、商店街に要請した。ポスターの印刷・送付が間に合わなかったので、貼り出されたのはほとんどが古ポスターの裏面に手書きした壁新聞だった。
「口コミ作戦」も使われた。文部省は学校で教師たちが生徒に訴えるよう要請し、通産省は各企業に管理職から職員に呼びかけるよう求めた。また全国二百五十余の都市ガス会社は職員をフル動員して、需要者の家庭を一戸ずつ訪問して警告する方法をとり、月曜日から木曜日の午前中までに合計六百万戸を回っていた。
 これは、日本では空前絶後の大広報作戦であった。このため、たった一週間のうちに、都市ガス時限供給制の知名度は九九・八%以上にまで達した。そして実際にガス供給が停止および再開される時には、全国の市町村でサイレンが鳴らされ、テレビ・ラジオがそれを報じた。
 しかし、それにもかかわらず木曜日、都市ガス時限供給制が実施された最初の日の被害は、いかなる弁解の余地もないほどに大きかった。�知っている�ということと�完全に実施する�ということとの間には、大きな差があったのだ。
 うっかり、ガス・ストーブやガスコンロの栓を締め忘れた者も多かったが、ガスの吐出個所すべてに気づかなかった家庭が少なくなかった。ガスコンロとガスストーブの栓を締めて安心した主婦も、瞬間湯沸器の種火は残していたりした。また、ガス冷蔵庫の止め忘れも珍しくはなかった。そうしたわずかな不注意が、すべて死に繋がった。
 最初の一日(木曜日から翌金曜日の朝)に起こったガス事故は五千三百十四件、犠牲者八千百六十二人に上った。このうち三百七件は、ガスの引火・爆発を伴い、火災を招いた。幸い金曜日は、全国的に無風曇天で、関西地方は小雨模様だったので、火災はたいてい最小の被害で鎮火したが、それでも五百戸近い家屋が焼失し、中毒死者のほかに七十八人が焼死した。
 しかし、ガス時限供給制を中止するわけにはいかなかった。翌土曜日、ガス事故件数は前日の五分の一になった。六百二十八件、犠牲者数千九十四人だった。これが、翌日曜日には五百六件、九百七十八人となり、月曜日以後は、ほぼ三百件余り、五百人弱という水準へ落ちた。
 だが、それ以降はこの水準から減らなかった。これは平常時における交通事故の死者数にほぼ匹敵するものだった。そして、最初の一ヵ月に二万ないし二万八千人が死亡する、という鬼登沙和子の予測は、不幸にも的中したのである。

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