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三月一日──中東大戦が勃発して、ちょうど百日が経過した。
この日のA紙は「中東大戦百日目の世界と日本」という特集を組んだ。新聞は夕刊が廃止され、朝刊も見開き一枚の四頁建てという薄っぺらなものになっていたが、今朝のA紙は、わざわざこの特集のためにペラ一枚を挟み込んで六頁建てにしており、人びとの目を引いた。新聞広告が激減したいまとなっては、たった二頁の特集といえども新聞社にとっては大英断であったからだ。実際、A紙をも含めて、日本の新聞社はみな、経営にひどく苦しんでいた。
特集の表面は、海外事情の報告に当てられていた。減頁と夕刊廃止でこうした情報は、ほとんど流されていなかったからだ。
「国内油田増産と節約で乗り切る米国」
「節減にも平静、国民性を示す欧州」
「経済開発十年の後退──発展途上国」
各地の海外特派員報告を中心としたその特集記事には、こんな見出しが並んでいた。
もともと、石油を完全自給してきたソ連は、東欧諸国分までを含めた石油供給を確保していたばかりか、いくらかの石油を発展途上国などに回して援助し、その政治的影響力を拡大しつつあった。
自給率八五%のアメリカも、国内油田が一斉に増産体勢に入り、前年比一〇%増の生産を達成し、個人用自動車と家庭用暖房の節約で一割内外消費を削減したことで、十分乗り切れる体制にあったので、中東のみならず南米などからの石油輸入もかなり減少させていた。
[#1字下げ]「中西部のある町では、石油・天然ガスの不足のため工場が操業を短縮しようとしたのに対し、町の人びとが『家庭用暖房を減らすから工場の操業は縮めないでくれ』という運動を行い、その主張を通した。工場操短は失業者の増加を招くからだ」
そんなエピソードをシカゴ特派員は書いていた。
西欧諸国は、EC(欧州共同体)の共通政策として、工場・商店などが一斉に週休三日制を実施しているほか、各国それぞれ特色ある対策を採っているのが注目された。
フランスは、昨年十二月はじめ、早ばやと石油消費節減法(一九七四年制定)を発動し、自動車使用と家庭用暖房をきびしく制限した。官僚と警察の力が強いこの国では、しばしば個人家屋への立ち入り検査さえ行われ、週休三日制と相まって、石油消費量は前年に比べ二七%も減少した。しかもアルジェリアに安定した石油供給源を持つうえ、膨大な石油備蓄と一九七四年以来急ピッチで増設した原子力発電のお陰で、この体制を一年以上続けられる、と豪語していた。
西ドイツは、伝統的な自由市場経済のメカニズムに頼った。政府がやったのは、石油製品への高額の課徴金付加と石油節約のPRだけだったが、けちで団結力の強いドイツ人には、効果があった。石油製品や電力料金の値上がりで、引きあわないとみた工場は自主的に操短し、商店は照明・暖房を抑制した。一般市民も自動車をやめ、暖房を抑えた。そして多くの工場や家庭が、燃料を石炭に切り換えた。年間六千万トン以上の産炭量を維持するこの国では、石炭の流通機構も健在だったし、それを利用する施設や用具も比較的簡単に手に入った。都市ガスもほとんど石炭から製造されていたので、あまり問題はなかった。こうした事情からさほどの騒ぎもなく石油消費量は前年比三一%も減少した。
一九七三年末の石油危機の際、石炭労働者の長期ストと重なり、工場も商店も一般家庭も、週七日のうち四日まで停電するという苦境に立ったイギリスも、今回は余裕があった。西ドイツ以上の産炭量を持ち、都市ガスばかりか電力もほとんど石炭で賄われているので、自動車使用を制限するだけで十分だった。そのうえ、長年の努力が実り、北海から相当量の石油が掘り出されていたから、供給面でも平常の七割以上を確保した。EC共通の週休三日制さえ、隔週にするほどの余裕があり、しかもこの体制なら半恒久的に続けうる、といわれていた。
石油産出の乏しい発展途上国はかなり苦しかった。輸送機関の麻痺と工業生産の停滞が著しく、とくに大都市の生活は圧迫された。失業と食糧難が広がり、農村への人口分散が図られた。
それでも、もともと農村の自給体制が色濃く残っている発展途上国では、大部分の地域が石油危機の直接的打撃から免れた。薪柴は普段から使われていたし、馬車や牛車による輸送もかなり利用できた。そして人びとの物資不足に対する耐久力が強かった。
世界で最も苦境にあったのは、疑いもなく日本だった。この百日間に、日本の被った被害はきわめて大きかった。この特集の裏面には、全国の支局からの報告や産業別情報をまとめた日本の状況が記されていた。
二月中旬において、全国で五万以上の工場が完全にストップし、その他の工場も一部停止か大幅操短を行っている。また、ほとんどすべての建設工事が止まっている。二月の鉱工業生産指数は、前年同期に比べて四二%減、石油危機直前の昨年十一月に比べれば四七%のマイナスと推定されていた。
第三次産業の打撃も大きい。観光地は客がなく、半分以上の観光ホテル・旅館が完全休業状況に陥っている。ボーリング場、興行場、遊園地などの類は七割が閉鎖または休業、バー・キャバレー、料亭なども同じだった。一般商店や大衆飲食店も、休業するところが続出していた。運輸業は、船舶・鉄道が三分の二、航空便が四分の一、そしてタクシー業はガソリン車に切り換えた五分の一の台数が、一台当たり走行距離を平常の半分にして、ようやく走っている。
国民総生産は、昨年十月のピークに比べ、二月下旬には三〇ないし三五%下落していると推定された。そして二月末現在、全国に六百万人の完全失業者とそれ以上の企業内失業者が発生している、と見られた。
貿易も甚だしい打撃を受けた。一月後半以後、日本の輸出はほとんどゼロとなり、二月中の輸出成約高はわずか一億三千万ドルだった。これは前年同期の二十分の一以下の数字だ。これに対し輸入は、工業用原材料の激減にもかかわらず、食料品や原油の輸入で二十億ドルをかなり上回った。輸入価格が著しく高騰していたからで、問題の石油すら、平均価格が二倍以上になったため、数量が平常の三割以下に減少したのに、これに支払われる外貨は、さほど変わらないのだ。
このような貿易収支の著しい不均衡に加え短期資金が大量に流出したため、昨年夏、二百億ドルに達していた日本の外貨保有は、百億ドルを割ってしまっていた。
だが、経済指標よりも、目に映る現実は、もっと悲惨だ。
二月に凍死者を出した北海道では、農山村を捨てた人びとが、町の公共施設や旅館に避難した。東北や北陸では、ボンベガスの配給と日用品の供給が絶え、日々の生活に困窮する家庭が続出し、餓死した老人の例も伝えられた。東海地方や中国地方では、温室農業が全滅し、港に漁船が大量にたまった。九州や四国では、生活必需品の届かぬ村落が多く、住民の生活は終戦直後よりひどい状態になった。沖縄では、船舶・航空便の欠航のため、本土からの食料・日用品が届かず、住民のデモが公共施設に乱入するという事件が起こった。
各地からの報告は、いずれも自分たちの地域が最も苦しいと信じ、ヒステリックに政府の不手際と石油配分の不公平をなじっていた。
大都市の地下道や公園には�家なき人�の群れが現れた。失業したタクシーの臨時運転手もいたし、倒産した企業の寮から追われた労働者もいた。飲食店の住み込みウエートレスやホステスなどもいた。火事で焼け出された家族連れも珍しくなかったし、生活難からいづらくなった家庭を飛び出して来た不幸な少年たちも少なくなかった。故郷を捨てた農山村の青年たちもまたこれに加わった。
政府と地方自治体は、これらの人びとのために、無料給食所を開いたり、テント村を造ったりしたが、増大する群衆を救済するにはほど遠かった。また、故郷に帰るようにと説得することも効果はなかった。日本の社会には、もはや戦前のような大家族制による相互扶助の制度はなくなっているのだ。
A紙記者の本村英人は、この日の午前中、本社編集局の机の前で、この特集記事を眺めていた。そして、これが「最悪の事態」ではないことを、思った。それは、彼自身も執筆した石油事情の記事にもよく現れていた。
二月下旬における日本の石油消費は、原油換算で一日平均五十七万キロリットル前後あった。これは従来の年平均消費量に比べれば、約三五%減、そして前年同期比では四〇%以上の減少だが、肝心の石油輸入量に比べるとはるかに多過ぎた。輸入量は、国際石油資本の中東以外の原油の再配分や東南アジア諸国の増産などが進んで、一月下旬からかなり回復したとはいえ、なお一日平均二十万キロリットル程度だったからだ。
石油備蓄は、一日三十万キロリットル内外のテンポで減少し続け、いまや底を突きかけていた。二千八百六十万キロリットル、約三十三、四日分という量は現在の消費水準においても円滑な精製・流通を保つぎりぎりの線だ。消費節減のやりにくい家庭用消費が中心のLPガスや灯油などは、すでに年平均消費量の三十日分をさえ下回っていた。
実際、もうかなり前からLPガスや灯油の全くない「完欠地区」が多発している。二月末には、バス・トラック燃料の軽油も、「完欠地区」が現れ、バス交通と物資輸送が憂慮されている。
比較的余裕のあるB・C重油やガソリンにも、こうした事態の生じるのは、ごく短い時間の問題になっていた。
もう何日かのうちに、日本は喰いつぶしうる石油備蓄を持たなくなるのだ。日々輸入される量の範囲内でしか石油は供給できなくなる日も近い。そしてその量は、これほど大きな被害を生み出しているいまの消費量の半分以下なのだ。
そうなった時、日本がどうなるか、日本人がどうすればよいのか。もはや、大規模な国際的石油救援を期待するしかないだろう。
だが、本村は、日本のような巨大な石油消費国を救うほどの国際的救援が行われるはずのないことを、十分知っていた。