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「昨日は国会の先生方、不機嫌でしたよ」
翌朝、アメリカ出発前のあわただしさのなかで、留守中の事務打ち合わせを行っている時、寺木が黒沢にそういって、笑った。
「大臣も急用で政務次官が代理でしょ。そこへ長官の代わりに僕ですからね。長官と課長じゃ随分違いますからね」
「そらすまんことをしたな」
昨日の午後、黒沢には娘の葬式があったのだ。どう装おうと、その顔には疲労と悲しみが残っていた。
「いえ、もちろんわかって下さいましたがね」
寺木は慌てて手をふった。
「吉崎公造先生は、今日再質問されるそうですよ。吉崎先生は、長官の好敵手ですからね」
寺木は少しおどけた口調でいった。
「吉崎公造先生か……」
黒沢は遠い昔を思い出すようにつぶやいた。かつては「公害告発議員」として活躍した吉崎議員は、持ち前の闘志と石油に関する豊富な情報ルートで、石油政策問題で鋭い追及を行って、いまも花形議員としての名声を保持しているのだ。
「君、もう行かんと飛行機に遅れるよ」
しばらく、事務打ち合わせを続けたあとで黒沢がいった。
通産大臣を長とする訪米石油使節団の出発する十二時三十分まで、あと二時間もなかった。寺木は随行するのだが、自動車が使えないので、羽田空港まで一時間以上見ておく必要があった。
今日の訪米使節団は、昨日の訪中団とは逆に地味なものだった。団長は山本通産大臣だったが、メンバーはわずか七名、しかも石油会社と商社の社長、専務の加わっているほかは、通産、外務、大蔵の役人と大臣秘書官という構成だ。
「私も見送りに行くよ。国会の始まる二時までには十分時間があるから」
と、黒沢は立ち上がった。
彼は、残っている事務打ち合わせや今日の国会質問の話を、空港までの道中で聞くつもりだった。
黒沢は出がけに石油第一課に立ち寄り、
「必ず一時半までには戻るから、国会答弁の資料を頼むよ」
と、小宮幸治に念を押すと、寺木を促して雨雲の下へ出て行った。
だが、黒沢修二は、午後一時半に戻って来なかった。一時四十分になっても、五十分になっても、戻って来なかった。小宮は、黒沢長官が羽田から直接国会へ行ったかも知れぬ、と思った。
小宮は資料だけを持って、国会へ行ってみた。西松部長も寺木課長も外国出張中で、ピンチヒッターに立つ者もいなかったのだ。
小宮が衆議院の商工委員会室に着いた時、吉崎議員の質問は始まろうとしており、黒沢長官の欠席に政府側は困り果てていた。小宮は資料包みを開いて政務次官に見せたが、内容は専門的であり、さすがの次官も一見してすぐ答弁できるものではなかった。細かな説明をしている暇などもちろんなかった。止むを得ず政務次官は、エネルギー庁長官の欠席を陳謝し、明日再答弁したい旨述べるほかなかった。
しかし、吉崎議員は収まらなかった。
「突然の質問ならともかく、昨日の委員会で、今日再質問すると予告しておいた事項について答えられないとは何事か。しかも答弁責任者たるエネルギー庁長官が無断欠席するに至っては国会軽視も甚だしい」
吉崎議員は、そういって政府側の責任を激しく追及した。
小宮幸治が、国会を出たのは午後三時頃だった。昼頃から激しく降り出した雨はまだ続いていたので小宮は地下鉄駅に入った。国会議事堂前から霞が関までの一駅を地下鉄に乗ろうとしたのだ。そこではじめて停電を知った。停電はもう二時間近く前から続いていたのだが、通産省にも小型の自家発電機があり、停電と同時に作動して最小限の灯火とコンピュータなどの電源は確保していた。そして、節電中の役所では、この�最小限の灯火�が、普段の照明量とさほど変わらなかったため、小宮は停電に気付かなかったのだ。もちろん、国会議事堂にも自家発電機が作動していたので、全くわからなかったのである。
この日の停電は、東京二十三区の大半、約百二十万世帯と多数のビル・工場を含む地域を、一時八分から八時十四分まで、七時間と六分の間完全に麻痺させた。
全国の火力発電所はいま、四割以上が停止しているが、工業用電力の使用減によって、朝夕の家庭用電力使用のピーク時に、水力発電をフル操業すれば、それで十分だった。ところがこの日は昼頃から激しく雨が降り出し、急に暗く寒くなったため、家庭用電力使用が、いつになく昼間から多かった。とくに午後一時、都市ガス供給が停止すると、暖房や炊飯用に電熱が使用されだしたためか、住宅地での電力使用量が急増し、昼休みの終わった工場などの電力使用再開と相まって、異例の使用量急増を見た。このため、電力の需給が一時的に不均衡になり、電圧の異常低下を招き、その結果、過負荷装置が働いて広範囲の送電を停止することになった。
過負荷装置は、電力需給の一時的アンバランスによって生じる重大な事故を防止するためのもので、一定以上の需給不均衡が生じると自動的に作動するようになっている。通常なら、こうした事態が生じても三十分ぐらいで回復するのだが、電力事故が多発している今日では、電力会社側の態勢が急に整いかねたことと、停電範囲のあまりの広さのために、かなりの長時間停電となってしまったのだ。しかし、それでも、全く同じような原因で起こった、一九六九年のニューヨーク大停電に比べれば、ずっと回復は早かった。ニューヨークの場合、全市約三百万世帯と膨大な数のビル群が、正確に二十四時間停電したのである。
だが、この停電による東京の混乱は、ニューヨーク大停電に劣らなかった。いまの東京には自動車交通がほとんどなくなっていたからだ。
東京都内の交通機関はほとんどすべて停止し、二百万人以上の人びとが、勤め先や買物に出かけた場所で釘付けになった。途中の駅で立往生した者も多かった。電車に乗っていた人びとは一時間以上も罐詰にされたあげく、雨の降る線路を最寄の駅まで歩かされた。エレベーターに閉じ込められた何千人かの人びとは、係員が手動装置で扉を開き、救出してくれるまで暗闇と息苦しさの中で立ちつくさねばならなかった。それは、場所によっては四時間以上も続いた。
黒沢修二エネルギー庁長官の乗り合わせたモノレールは、もっと不運だった。この最新式の交通機関では、全く脱出の方法がなかったからである。
モノレールは、地上十五メートルもの高さのところを、幅七十センチほどの、ただ一本のコンクリート・レールにまたがっているため、降りることができない。車体の前後から出て、コンクリート・レールの上を歩くことはできそうに思えたが、手すりのないコンクリート・レールの上を何百メートルも歩くことは素人には不可能だ。しかも、たとえそれができて駅の所まで辿り着いたとしても、レールとプラットホームの間は三メートル近くも開いており、しかもホームの方がかなり高いから、ホームに跳び移ることは不可能なのだ。
黒沢エネルギー庁長官は、国会のことを気遣いつつ、なす術もなく、ただひたすら停電が一秒でも早く回復することを祈るほかなかった。
車両の中は寒く、窓の外には夕暮が迫っていた。光を失った東京の街は、黒い凹凸の陰となって不気味にうずくまっていた。黒沢には、このモノレールの中の何百人かの乗客が、日本国民のサンプルのように思えた。彼らはみな、疲労と寒さと暗闇とに、怒り苛立ち怯えていた。淡い非常灯だけの車内で、どの顔も暗く憂鬱だった。車内のあちこちで、座席の権利とか、子供の流した小便とかが原因となって不快な口論も生じた。運転台の方からは運転士を怒鳴りつける乗客たちの怒声が伝わってきた。不運な運転士はただひたすらに謝っているようだった。その姿が国会や陳情団にひたすら謝りつづけている自分自身に似ているように、黒沢は思った。
彼は、いまこの瞬間、自分が集団の一員でありながら全くの傍観者でいられることの幸せを感じた。そして、ほとんどすべての財産と娘の一人とを失った自分が、かえってこれまでにない解放感に浸っているのに気づいた。
「失うことは解放されることだ」
黒沢はつぶやいた。そして、これはセネカの文句だったかな、と考え、暗がりのなかで苦笑した。昨日、文天祥を気取った自分が、いまセネカを思っていることが、おかしかった。