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大阪東部の住宅街で、お米を買いに来る客は、いつもより多くなっていた。自動車燃料が乏しいため、大口の食堂などのほかは、お米も配達はせず、店頭売りになっているのだ。
モラトリアムの実施は、通貨に対する信頼性を根底からくつがえし、人びとを一層激しい買い溜めに走らせた。すでに昨年末からの騒ぎで、現金は十分に出回っていたが、買うべき商品の方は、何もかもが足りなかった。このため、一部の人びとは�お米でも買って置こうか�という気になった。お米は政府があり余るほど持っているという安心感もようやくぐらつき出していたのである。そして、三月五日、モラトリアム実施二日目の午後、この地区の一軒の米屋で、お米が売り切れた。
この米屋ではすでに前日、店の在庫が少なくなっていたので、朝方から問屋に配送を依頼していたのだが、いつもは数時間で届くお米が、なかなか来なかった。問屋の方でもトラック燃料を節約するため、一回の配送ルートで、何軒かの小売店をカバーしようと考えたのである。
午後三時頃、この米屋は何の気なしに�お米売り切れ�の貼紙を出した。
だが、古いポスターの裏にマジック・インクで気安く書いたこのビラが、マルチン・ルッターがウッテンベルグの教会堂に掲示したカトリック教会弾劾文以来最大の社会的反響を呼ぶことになった。
一時間後、この地区の何軒かの米屋に行列が出来た。それを見て不安にかられたより多くの人びとが、行列の後尾に加わった。人びとは、できる限り多くを買った。乳母車や自転車を持ち出して来た主婦もいたし、夫や息子たちを運搬用に連れて来る者もあった。
この地区の米屋は次々と売り切れになった。買えなかった客は他の店へ走り、そこもまた売り切れに追い込まれた。
�お米売り切れ�のうわさが伝わったのははやかった。慌てた東大阪の主婦たちは、親類や知人にこの事態を知らせ、「そっちで買えたら買うといて」と電話をかけた。
午後五時にはもう、大阪とその周辺都市の全域で、米屋の前に長い行列が出来た。うわさには尾ひれがついた。�問屋にもないそうだ�とか、�政府もあまり持っていない�とかいう話が流れた。それには�農民が諸物価に比べて安いから政府に売らなくなったからだ�とか、�石油不足で脱穀ができなかったのだ�とか、さらには�燃料不足で乾燥不良になったから大量のお米が腐ったんだ�という、もっともらしい理屈さえついていた。
異変が大阪食糧事務所に伝えられたのは遅く、午後四時半頃だった。しかもそれは、東大阪の一部で二、三の米屋が売り切れた、というだけのものだったので、食糧事務所でも関係の問屋に、なるべく早く届けるようにと、指令した程度だった。事務所の職員が帰り仕度を始めた五時半頃から、情勢の緊迫を知らせるニュースが入りだしたが、食糧事務所はまだ楽観していた。小売店へお米を届けるのは、まず問屋のやる仕事だから、問屋が動けば済むと考えたからだ。役人たちは、この時間から食糧倉庫を開くなどということは全く考えなかった。時間外に倉庫を開くのは手続上も、労務関係からも面倒な問題が多いのだ。それに、もうすぐ米屋の閉店時間になるから、買い溜めも収まると考えた。だが、米屋の前の行列は、夜に入ってますます長くなった。お客たちは、売り切れになるまでは閉店を許さなかった。
大阪の「米騒動」がテレビやラジオで報じられた三月五日の夜、全国の大都市の人びとは、恐怖にとりつかれた。マスコミは、農林大臣や食糧庁長官の「お米は十分にある」という談話を伝えた。とくに翌朝の新聞は、政府の保有米だけでも、今年の秋の収穫期までの消費量に匹敵する量があることを、詳しい数字で報じた。
しかし、人びとは安心しなかった。これまでも何度か、�モノはある�という報道のあとで、本当にモノがなくなった経験があったからだ。翌六日、大阪をはじめ全国の大都市で、米屋の前に行列が出来、正午頃には、東京でも名古屋でも、札幌や北九州でも、売り切れる米屋が続出し、問屋の配送だけでは到底追いつかなくなった。
農林省は、食糧庁長官通達を出し、各地の食糧事務所に倉庫を開かせ、各問屋にお米の急送を命じた。だが、食糧事務所でも問屋でも、この激しい米買いに対応するほどの米を配送するに十分なトラックを集められなかった。
政府の食糧倉庫からの出荷こそ、普段の三、四倍になったが、問屋から小売店への配送は普段の二倍程度しか進まなかった。しかもそれさえかなり時間がかかり、多くの地区では午後の遅い時間になってから到着した。大阪はもちろん、東京や横浜や神戸などでも、午前中に売り切れた米屋の前で、長時間待たねばならない人びとが多数出た。やっと到着したお米も、瞬く間に売り切れた。一部の地区では、この日、全くお米が届かない店さえあった。こうした行き違いがお米はほんとうに足りないのだ、という確信を人びとに植えつけていた。
翌七日、前日以上の行列が出来た。
この日は、政府の側でも前日よりはるかに多くの輸送力を動員できた。問屋を経由せず、食糧倉庫から小売店に直送する方法も採られた。
この日の政府の出荷量は、普段の日の八倍に達した。また、多くの地区では午前中にかなりの量のお米が小売店に届いた。だがそれでも需要のすべてを満たすわけにはいかなかった。不慣れな直送をしたため、一部の地区には大量に届き、他の地区はごくわずかしか来なかった。また他の一部は全く忘れられてしまったりもした。半日間も走って届け先がわからずに引き返して来たトラックもあった。
�お米は足りない�という危機感は、不幸なことに、ある意味で正しかった。
政府は大量のお米を保有していたが、そのほとんどが東北や北陸などの米産地の倉庫にあった。ここから大都市の消費地へ、この猛烈な米買いに間に合うほどのスピードでお米を輸送することは、困難だった。
軽油欠乏のため、米産地から東京や関西の大消費地まで、大量にトラックで運ぶことは全く不可能だ。通常利用されている船舶では一週間以上もかかる。鉄道貨車も、ディーゼル燃料の不足で思うにまかせぬうえ、貨車の動員と積み込み要員の確保などでかなり時間がかかりそうだった。
翌三月八日の夕刻、神戸食糧事務所が、倉庫の米が全くなくなったと、急報して来た。「米騒動」はついに本物の食糧不足を招いたのだ。