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四月に入り、陽は明るく風は温くなった。
だが、世の中はますます暗く、人の心はいよいよ冷たかった。自然の気候とは逆に、日本の社会にはこれから本当の「冬」が来ようとしていた。
実際、この一ヵ月の変化は著しかった。大都市では公園や路上にたむろする人びとの数が著しく増加していたし、閉鎖された商店や飲食店も急増していた。三月前半の一連の事件から、全日本に食糧難と治安の乱れが目立ってきたのである。
それに伴って被害も大きく、また深刻になってきた。それは何よりも死者の増加で示された。東京の上野や新宿、大阪の天王寺や梅田あたりの地下道からは、毎朝警察のトラックが何百かの死体を運び出していた。一般の住宅街や団地でも、死者は珍しくなくなっていた。栄養不良による衰弱がちょっとした病も死に至らしめたからである。
その数がどれほどになっているのか、政府も地方自治体も公表はしなかった。あまりにも国民を動揺させることを恐れたのである。だが、それが相当な数に上っていることを、エネルギー庁の小宮幸治は推測できた。三月末から、警察が「死体運搬および焼却のための燃料追加割当」を再三要求して来ていたからだ。その申請書には、
「死体の腐敗による病疫を防止するため」
という、胸くその悪くなる理由が、無造作に書き込まれていた。
〈やはり、十日間の政治的空白は大きかった……〉
と、小宮は思った。
三月十一日の深夜、前内閣が突然総辞職したあと、約十日間は内閣不在であった。だが、その間、事態はどんどん進んだ。そして多くの混乱を呼び起こした。
その典型は電力危機であった。
三月上旬、日本の電力需要は、産業用需要が半分以下に削減されていたが、家庭用などの民生需要が平常以上に伸びていたため、平常の七五%程度を保っていた。そして、石油輸入が平常の三割以下になったいまとなっては、これを維持することもむずかしかった。日本の発電総量の四分の三以上が石油火力だからだ。
エネルギー庁や電力会社は、気温の上昇による電力需要の減少と雪解け水による水力発電量の増加を、祈るような気持で待った。だが、それより早く、発電用重油の備蓄が底を突いてしまった。
エネルギー庁と電力会社は、産業用の一層の削減と共に、一般家庭などの民生用も、週二回の昼間停電と毎日二時間程度の夜間(午後五時から十二時までの間で)停電に踏み切ったのだ。
この一般停電の影響は予想以上に大きかった。仕掛けた電気釜の中の御飯を夕方の停電でグチャグチャにしてしまう主婦も多かった。せっかく買い集めた食料品を冷蔵庫の中で腐らせた者も多かったし、それを食べて食中毒を起こした者も決して少なくはなかった。
それ以上の被害を受けたのは商業・サービス業だった。夜間停電が起こると、どこの商店でも万引が急増した。中には、それをねらってやって来るグループさえあった。そしてこういう連中に限って、それが発覚すると、政府の施策を攻撃するアジ演説をぶったりして、自己の行為を正当化した。こんな場合でさえも、人びとの怒りは万引グループよりも政府に向けられることが多かったのだ。このため、商店の休業・閉店は急増し、特に午後六時以降店を開いている所はほとんどなくなった。
生鮮食料品店や飲食店の受けた被害はもっと決定的だった。肉屋や魚屋では冷蔵庫の停止で、商品の腐敗が生じたし、コールドチェーン組織は全面的に崩壊した。寿司屋も材料保持ができず休業したし、焼肉屋、洋食レストランの類もほぼ同様だった。
このことは一般市民の生活を著しく圧迫した。特に小宮幸治のような独身の外食常用者は、飲食店の閉店で困り果てた。このことはまた、全体の食糧事情を決定的に悪くしていた。
同時に、大量の商店・飲食店の閉店・休業は、膨大な数の失業者を生んだ。特に気の毒なのは、これらの店の住込従業員たちだ。彼らの相当数が住み込んでいた店や寮を追われ、地下道や公園をさまようことになった。この一ヵ月間に、流浪人口が爆発的に増加したのはこのためでもあった。
停電に対する人びとの怒りは大きかった。それは特に、停電の地域的不公平によって拡大された。
政府は停電に当たって、水道ポンプ場とか救急病院とか、どうしても停電させられない「特定重要施設」は停電から除外する処置をとった。このこと自体には誰も異存はなかった。だが、一つの「特定重要施設」を除外するためには、それに対する送電系列全部を除外しなければならない。このため、重要施設そのものとは何の関係もないように見える場所が、しばしば停電をまぬがれることになるのだ。
「あの辺には電力会社の重役が住んでるからだ」
「こっちには通産省の偉いさんがいるからだ」
人びとはそんなあらぬうわさに惑わされ、怒りを燃やした。
特に人びとを憤慨させたのは、大企業の本社の集中する都心部が停電をまぬがれていたことだ。ここには政府の中枢機関や警察・消防のセンター、金融機関のコンピュータなど、社会の中枢管理機能が集まっており、到底長時間停電させられるものではなかったが、一般大衆の目につくのは、大企業や役所のオフィスばかりだ。このため人びとは、都心部の除外を電力会社と大企業の癒着のせいとして、不満に思った。
こうした混乱の中で、内閣を失った政府は、思い切った手を何一つ打てなかった。そしてそれが、事態をますます悪化させ、人びとの国家に対する信頼を失わせたのである。
だが、こうした数々の混乱を招いた政治的空白を政治家の責任に帰することはできないだろう。日本の政治家はむしろ、一般に予想されていたよりもはるかに賢明に行動したといえるからだ。
前内閣が総辞職した当時、後継首班候補と目されたのは、与党内の四人の実力者であった。与党の国会議員団は、この非常の際に当たり、我欲を捨てて一切を副総裁と幹事長、それに元首相の長老の「三賢人」に一任した。それでもなお、新聞は、首班人選には相当時間がかかる、と報じていた。だから、三月十九日の夜、前内閣総辞職後わずか九日で、後継首班の氏名を発表した時には、世間は驚いた。そしてそれ以上に世人を仰天させたのは、選ばれたのが、四人の実力者の一人ではなく、海津前経済企画庁長官であったことである。
海津氏が選ばれたのは、野党にも受け入れられやすい中道的な政見の持ち主とみられていたことと、訪中石油使節団長としての活躍などで急速に国民的人気を得ていたためらしい。事実、この人選は、世間からも、野党からも好評であった。
二十一日、国会で正式に総理大臣に指名された海津は、即日党人事と組閣を完了し、翌二十二日未明、認証式を終えて、新内閣を発足させた。
海津新総理は、当面の重要問題をかかえる大蔵、農林、運輸、自治(国家公安委員長兼任)、防衛の各大臣を留任させ、行政上の空白を最小限に喰いとめた。ただ、山本通産大臣だけは更迭し、新たに若手の尾村衆院議員をそのあとに据えた。そして、自らの後任に当たる経済企画庁長官には、エネルギー学者として有名な石塚和雄博士を民間から加えた。
この電光石火の組閣とその人事もなかなか評判はよかったのである。