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日期:2019-03-22 23:02  点击:280
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 海津総理は、週三回もテレビ記者会見を行い、�生産より生活を、企業より人間を�のスローガンを繰り返し、なお、いくつかの新政策を行った。
 その一つは、四月はじめに行われた失職者給付金の引き上げである。それには、昨年末以来の物価の急騰に対応するという一見もっともな理由はあったが、日本全体の生産力が著しく低下している現状では、やたらと過剰流動性を作り、物価をさらに激しくつり上げるだけだった。もっと悪いことに、それは労働争議と企業倒産と失業者を激増させた。失職者給付金引き上げの結果、一部には失職者給付金より賃金の方が安い、という事態が現れたからだ。
 各地に労働争議が起こり、一部の労働者は会社の資材や施設を売って、遅配の賃金に当てた。管理職者はこれに対抗するほどの気力を失っていた。警察も街の警備に追われて手が回らなかった。相当部分の勤労者は、失職者給付金の受給者となった。企業組織の崩壊は全面的になってきていたのである。
 海津内閣の�目玉対策�ともいうべき、無料給食所の拡大も、深刻な副作用を生んだ。最初の給食所政策がトラブルの続出で挫折したあと、海津総理は、自衛隊員による国直営の給食所を、京浜地区、関西地区に五、六百ヵ所設けることを決定した。これは比較的巧くいった。一ヵ所平均三十五名の隊員と車両一台が配置された結果、材料運搬の面でも人手確保の面でも良好だった。
 だが、こうした無料給食制度の拡充は、まず給食所用の食糧確保を優先したために、一般に販売される食糧は一段と不足した。
 また、人びとは勤労意欲と自助の精神を失った。働いているより失職者給付金をもらって無料給食所に行列する方が得だ、という考えが広まった。家庭からの離散者も急激に増加した。無料給食を受けながら、公園や地下道で日を送る青少年の姿が、街に目立った。彼らは、閉鎖中の映画館や休業している喫茶店などにも遠慮なく侵入して、占拠した。そのうえ給食制度の充実した大都市に、地方から大量の人口が流入し、一層流浪者の群れを膨れ上がらせた。
 給食を求める者の数が増え、東京の上野や大阪の天王寺などには、毎日、大群衆がたむろし、街全体が異常な雰囲気と臭気に包まれた。
 こうしたことから、海津内閣に対する批判が強まりだした。海津内閣は、備蓄石油の最後の部分を放出して、なんとか体制を建て直そうと焦った。だがそれがまた、新たな事件を生み出した。
 四月十三日、日本南西部の石油基地で、地元住民が「石油搬出反対」の実力行使に出るという事件が起こったのである。
 この地方は、もともと米の収穫が乏しく、観光収入と砂糖きびの栽培、それに大都市への出稼ぎを主な所得源としていた。それだけに、こうした所得が途絶えたいま、住民の生活は極度に苦しかった。特に食糧不安は深刻だった。他の地方から米穀輸送が途切れがちになったからだ。
「ここから石油を運び出すのなら、十分なお米を供給してくれ」
 という要求が、地元の知事や住民団体から再三出されていた。
 そこへ、いよいよ最後の石油が持ち出される、という情報が伝わると、あの石油がなくなれば中央政府からお米を引き出す術がなくなる、という声が広まった。
 十三日朝、一部の住民は、ボートや漁船を連ねて、石油搬出に来たタンカーを取り囲み、シーバースに海上ピケを張った。住民の行動には、地元の知事や市町村長も同情的であったし、警察官もそうだった。
 エネルギー庁の西松石油部長や農林省の役人らを従えた尾村通産大臣は、大型ジェット機の特別便で現地へ飛んだ。たった数人のために、大型ジェット機を仕立てたのには、理由があった。座席にもトランクルームにも米袋が積んであった。通産大臣はこの十五トンのお米の手みやげで、地元の納得を得ようと考えていたのだ。
 この作戦は、効果があった。大臣は、今後の確実な主食配給を約束して、地元側にタンカー阻止のピケを解かせることに成功したのである。だが、この解決は、地元民の実力行使に対する屈服、という印象を与えずにはおかなかった。そしてそれが、より広範な「反乱」を呼ぶことになった。
 この時期、農村の苦しさは都会に劣らず深刻であった。自家生産の米穀・野菜などのほかは、肉、魚、調味料、紙、石鹸の類や燃料など、これらのすべてが欠乏し、値上がりもひどかった。
 この年は、冬期の出稼ぎ収入がなかったし、無料給食や失職者給付金などの恩恵もここにはほとんど及んではいなかった。
 農民たちが残念がったのは、昨秋の収穫米の大部分を、昨年夏に定められた、いまからみるとタダ同然の値段で、政府に売り渡してしまっていたことだった。特にそれが、まだ村々の農業組合の倉庫に収められている場合にはそうだった。
 三月中頃からは、都会に出ている息子や兄弟たちにせがまれて、一旦政府に売り渡したお米を、地元の農業組合の倉庫から借り出した者も現れた。最初は、すぐ返すから一時貸してくれ、といった形で行われていたこの借り出しは、徐々に拡大し、四月中頃になると、政府が買い入れたはずのお米の量と、実際に農業組合の倉庫に積まれているそれとの間に、かなりの差が生じたところも珍しくなくなった。このことは、農業組合の役員や職員にとっても、また借り出した農民たちの間でも、重苦しい�秘密�であった。日がたつにしたがって、借り出したお米を、返す当てがないことが明白になってきたからである。
 こうした状況の中で起こった石油搬出阻止事件は、非常な刺激を与えた。
 米田豊作というおめでたい名の、東北の一寒村の農業組合長が、この農民の感情を率直に表現した。
「われわれ農民も、お米を搬出するんなら、プロパンガスや日用品を安く配給してくれ、と要求する権利がある。お米はわれわれが汗水たらして作ったものなんだ」
 たちまち同じ主張を行う農業組合が全国に何十と現れた。
 これには米田豊作自身驚いた。実のところ、彼は、政府買い付け米の一部を、自分の農業組合倉庫から横流ししていたために、その発覚を恐れて、こんな言動に出た小心な老人に過ぎなかった。
 だが、いまさら引き下がるわけにはいかなかった。
「政府が、燃料や日用品を安く十分に配給してくれないのなら、われわれ農民も、自分たちの作った米を高く売らねばならない。高い燃料、高い魚、高い日用品を買わねばならないからだ。したがって、政府売り渡し米の取り戻しは、農民の権利である」
 数日後には、米田豊作の主張はここまでエスカレートしていた。
 米田豊作の周囲に、過激な農民運動家や学生運動家、騒動好きの評論家といった連中が集まって来た。彼らに取り巻かれた老組合長は、やがて、
「政府売り渡し米の搬出を実力で阻止しよう」
 と、叫んだ。
 
 供出米取り戻し運動を爆発的に拡大させたのは、四月後半から急速に広まった新しい不安であった。
 それは、大凶作の予想であった。
 現在の日本の農業は�石油に浮かぶ産業�の一つである。日本の田畑の九五%は石油燃料で動く耕運機で耕され、日本の農作物のすべては石油から造られる農薬と化学肥料で育てられている。
 いま、急に石油燃料がなくなり、耕運機が動かなくなれば、人間が鋤《すき》を持ち、鍬《くわ》を振うしかない。
 昭和三十年代のはじめまでは、主に牛馬が田畑を鋤《す》いていたが、いまはそんな役畜はほとんどいないのだ。一人の人間が、人力だけで耕せる水田は、せいぜい四百五十坪、一反半(約十五アール)程度に過ぎない。
 また、石油が止まり、化学肥料や農薬がなくなれば、日本の農業生産は大幅に減少する。専門家の推計では、最良の天候に恵まれたとしても、化学肥料なしで得られる米の収穫は、平年作の三分の一以下、せいぜい一反当たり三百キロから三百五十キロだろう、といわれる。つまり、一人の人間が精一杯働いて耕せるのは一反半であれば、それから得られる米は、最大限五百キロ内外である。
 一方、人間は他に副食物が普通程度にあったとしても、主食として年間百六、七十キロ程度の米は必要である。したがって、一人の熱心な農耕者が養いうる人口は、ようやく三人である。女性や高年齢者の存在を考えて、平均的にみれば、一農耕者の扶養可能人数は二・五人を超えることはあるまい。つまり、一億一千万人の日本人にただお米だけを供給するために、四千四百万人もの農耕者が必要なのだ。この人数は、平時における日本の全就業者数の九割に当たる。
 日本に無限の農耕適地と利用可能の用水があったとしても、石油なしでは、全就業者の九割が農耕に専念してようやく最低限の主食にありつけるに過ぎない。それは最も原始的な地域の人間の生活に等しいものだ。
 だが実際には、日本にそれほどの農耕適地があるわけでもなければ、無限の農業用水が流れているわけでもない。
 結論は明白であった。それは大凶作であり、恐るべき飢餓である。
 田植えの時期は、もう目前に迫っていた。農民たちは、苗代作りの段階で、いやでも石油不足と化学肥料の欠乏に直面していたのである。
 だが差し当たりの問題は、秋の収穫よりも当面の政府買い上げ米の搬出の方だ。四月末、閣議は連日その対策を議論した。
 日用必需品を農民に特配して、米と物々交換してはどうか、という意見が出た。だがそれは、政府が自ら貨幣経済を否定することになり、経済の全破壊につながる。現実問題としても、交換に提供するモノを集めることも管理することも、いまの政府機関の能力では無理だった。
 警察に売り渡し米を徴収させるより仕方がない、という強硬意見もあったが、これは一層非現実的だった。何百万人もの農民に対して強権を発動することなど、考えてみるのも無駄なことであった。
 結論は、きわめて常識的なものだった。今後の石油配分においては、農業用耕運機用および化学肥料製造用を最優先にすることによって、本年度の米作を極力維持する、というものである。
 政府は、各農家に、それぞれの農耕面積などに合わせた「軽油配給券」や「肥料配給券」を配布し、それと引き換えに政府買い上げ米の供出を求めた。
 この「配給券」が、現実に軽油なり肥料なりと交換できるかどうか、通産省も自信はなかったが、とにかくこれは、ある程度の効果は上げた。だがこのことは、もはや日本政府は、こうした利益誘導でしか、その秩序を保ちえないことを示すものでもあった。

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