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「……ねえ、日登美ちゃん」
翌日。祖父母の墓のある寺で葬儀を終えたあと、帰りのタクシーの中で、伯母のタカ子が言った。
松山で旅館業を営んでいる伯母は、忙しい身体らしく、葬儀が終わり次第、飛行機で松山に帰ることになっていた。
伯母を空港まで見送るために、春菜を近所の人に預けて一足先に帰って貰《もら》い、日登美は伯母と一緒のタクシーに乗ったのである。
「これからどうするつもり?」
タカ子は心配そうに姪《めい》の顔をのぞき込んだ。
「どうするつもりと言われても……」
日登美は口の中でそうつぶやき、困ったような顔で窓の外を見ていた。
先のことなど何も考えていなかった。というか考えられなかった。
今、考えることができるのは、この先、まだ幼い春菜を守って、一人で生きていくしかないということだけだった。
「あんた一人では『くらはし』は続けていけないだろうし……」
伯母は独り言のように言った。
「店は売りに出すつもりです」
日登美はようやくそれだけ答えた。伯母の言うとおり、父や秀男がいなくては店は続けていけない。
蕎麦《そば》を打てる職人を雇うという手もあったが、そこまでして、店を続ける気力は今の日登美にはなかった。それに、祖父と父が作り上げた「くらはし」の味がなくては店の暖簾《のれん》を守り続ける意味もない。
経済的なことは、徹三や秀男の生命保険金がおりれば、しばらくはそれでなんとかなるだろう。
「とりあえず、アパートかマンションを借ります。あのうちにはこれ以上住んでいたくないし……」
日登美は伯母に言った。
「そう。もし、あなたさえよかったら、うちに来て貰ってもいいんだけれど……?」
伯母はそう言ってくれたが、日登美には、日ごろからあまり行き来のない伯母の世話になるつもりはなかった。
「ありがとうございます。でも、しばらくこちらでやってみます。何か仕事を探します。それに、新庄さんが力になると言ってくれているので……」
矢部稔のことでは新庄貴明もかなり責任を感じているらしく、今後、日登美と春菜の生活が成り立っていけるよう、出来る限りの面倒は見ると言ってくれていた。
そんな新庄の好意に甘えて、店を売却する件も、就職口のことも、すべて彼に任せることにしたのだ。
やがて、タクシーが浜松町駅に着くと、伯母は、フライトの時刻までまだ時間があるから、どこかでお茶でも飲もうと言い出した。二人は駅近くの喫茶店に入った。
「……緋佐子さんのお身内はやっぱり誰も来ていなかったわね」
注文した紅茶をしばらく黙ってすすっていた伯母が、ふと思い出したように、カップを皿に戻しながら言った。
緋佐子というのは、日登美の母親の名前だった。
「伯母さん……」
日登美は、母の名前が出たことで、このさい、思い切って母のことを伯母に聞いてみようかという気になった。
日登美が生まれたときには、既に、この伯母は松山に嫁いでおり、その後も、法事か何かで集まるときくらいしか顔を合わせることもなかった。
あまり、親しく口をきいたこともなかったのだが、父の姉なのだから、昔のことや母のことも何か知っているのではないかと思ったからだ。
「わたしのお母さんってどんな人だったんですか」
そう聞くと、伯母の顔にやや当惑めいた表情が浮かんだ。
「徹三から何も聞いてないの?」
伯母はそう問い返した。
「何も……。わたしを生んですぐになくなってしまったとしか。母のことを聞いても、父は話したくないみたいだったし……」
「わたしもあまり緋佐子さんのことは知らないのよ。会ったこともないしね。わたしが松山に嫁いだあとに来た人だから。あとでちょっと徹三に聞いただけで……」
伯母は曖昧《あいまい》な口調でそう言った。本当に知らないのかもしれないが、その妙に歯切れの悪い口ぶりには、何かを隠しているような素振りも感じられた。
「父は母とは正式に結婚してなかったんですよね?」
さらにそう訊ねると、伯母は相変わらず当惑したような顔つきのまま、
「そう……みたいね」とだけ言った。
「何か結婚できない事情でもあったんですか」
「さあ」
伯母は首をかしげる。
「ただ、わたしが知っているのは、緋佐子さんが長野の人で、徹三が若い頃、良い蕎麦粉を求めて蕎麦どころを旅して歩いていたときに知り合ったらしいということだけなのよ……」
「長野?」
これははじめて聞くことだった。
「なんでも、長野のヒノモト村とかいう小さな村の出身だとか……」
伯母は思い出すように言った。
「ヒノモト村……」
日登美はその名前を頭に刻み付けるように繰り返した。
「ひょっとしたら、緋佐子さんには……」
伯母がふいに言った。
「徹三と出会ったとき、既に夫がいたのかもしれない」
伯母の突然の言葉に、日登美はえっと目を見張った。
「それって……」
「駆け落ちでもしてきたのかもしれないわ。そう考えれば、徹三と正式に結婚できなかった理由も分かるでしょ? それに」
伯母は何か言いかけ、思い直したように黙った。
「それに、何ですか」
日登美は伯母の沈黙が気になって先を促した。
「……実は、徹三から口どめされていたんだけれど」
しばらく黙りこんでいた伯母が、何かを決心したような顔で、じっと姪《めい》の顔を見ながらそう言った。
日登美は嫌な胸騒ぎがした。
聞かない方がいいかもしれない。
日登美の本能がそう告げていた。
「こんなことにならなければ、わたしも話すつもりはなかったんだけれど……」
伯母はまだためらっていた。
「でも、わたし以外にあのことをあんたに話してあげられる人はいないわけだし……。わたしだって、この先、いつどうなるか知れたもんじゃないし……」
伯母は自分に言い聞かせるようにぶつぶつと独り言を言った。
「あのことって……」
日登美の胸は急に早鐘のように鳴り出した。
「……あんた、確か、血液型はAB型だったわよね?」
しかし、伯母は日登美の質問をはぐらかすように、突然、全く関係のないことを聞いた。
「え? ええ、そうですけど、それが……?」
「片方の親がO型の場合、もう片方の親がどんな型であろうとも、AB型の子供は生まれないってこと知ってた?」
「…………」
日登美はただ伯母の顔を見つめていた。そんな話を昔聞いたことがあった。あれは、中学の理科の時間だっただろうか。それとも保健体育の時間だったか……。そんなことを薄ぼんやりと思い出しながら。
「片方の親がO型だった場合、生まれてくる子供は絶対にAB型にはならないそうなのよ」
伯母は改めてそう言い切った。
「……それが、どうしたんですか?」
日登美はおそるおそる尋ねた。伯母の返事を聞かなくても、ある疑惑が日登美の胸の中に生まれていた。
まさか、わたしは……。
「徹三はね」
伯母のタカ子は言った。
「O型だったのよ」