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蛇神1-4-1
日期:2019-03-24 22:14  点击:329
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「……ここからは参道なので歩きましょう」
 聖二がふいに言った。
 蛇神の話に聞き入っていた日登美は、はっと我にかえった。
 窓から外を見ると、山また山ばかりだった景色は、いつの間にか鄙《ひな》びた村落のある風景に変わっていた。
 前方に古色蒼然《こしよくそうぜん》とした両部鳥居が見えてきた。その向こうには、うっそうとした杉林が続いている。
 村長は車を鳥居の少し手前で停めた。
「春菜。起きなさい」
 日登美は、自分の膝《ひざ》に頭をのせて眠ってしまっていた春菜を揺すぶって起こした。目を覚ました春菜は、寝ぼけたような顔であたりを見回していた。
 車から降りた村長は、後部トランクに入れておいた日登美のスーツケースを出してくると、それを手渡しながら言った。
「いやあ、ここも年々過疎化が進んでましてな、若い衆はみんな都会へ出て行ってしまうんですが、それでも、祭りのときには必ず帰ってくるんですわ。それが、今年は耀子《ようこ》様があんなことになって、祭りは中止になるやもしれんと聞いて、みんながっかりしてましたんじゃ。わしの倅《せがれ》なども……」
 さらに何か言いかけた村長を、聖二が、「太田さん。話なら明日の夜にでもゆっくり」と遮るように言った。
「ほい、そうじゃった。では、明日、あらためてお伺い致しますので」
 太田村長は禿《は》げあがった額をぴしゃりと叩《たた》き、日登美と聖二に向かって深々と頭をさげると、そそくさと車に乗り込んだ。
 やがて、村長のぽんこつ車は砂煙をたてて遠ざかって行った。
「明日の夜、村のおもだった人だけを招いて、あなたたちの歓迎会をうちで開くことになっているんです」
 聖二はそう言うと、春菜を抱き上げた。
 春菜は抱かれてもむずかるようなことはせず、安心しきった顔で親指をしゃぶっていた。行きの列車の中で、ずっと遊び相手になってくれたせいか、聖二にすっかりなついてしまったようだ。
 まだ独身のようだが、そのわりには、小さな子供の扱いに慣れている様子だった。聞くと、幼い弟が七歳を頭に四人もいるのだという。一番下の弟は二歳になったばかりだとも言っていた。
「……本当に蛇みたいだわ」
 日登美は鳥居の前までくると、それを見上げてふと呟《つぶや》いた。
「日の本神社」と書かれた額をいただく鳥居の貫木《ぬきぎ》には太いしめ縄が張られていたのだが、そのしめ縄は、明らかに頭にあたる部分と尾にあたる部分とに分かれており、まるで生きた大蛇が貫木に巻き付いているような生々しさがあった。
 車の中で、この神社に祀《まつ》られているのが大蛇の神であると聞かされたせいか、日登美は微《かす》かに身震いした。
 聖二には申し訳ないが、やはり、蛇は好きになれなかった。
「しめ縄というのは、ふつう、右を本、つまり頭として、左を末、つまり尾として張り巡らすのですが、ここでは逆になっているのですよ……」
 聖二がそんなことを言った。
 なるほど、見ると、頭と思われる部分が左側に来ていた。
「どうして、逆になっているのですか」
 そう聞くと、聖二は、「さあ」というように首をかしげたが、
「よくは知りません。しめ縄というものが神域を示すものとして使われるようになった由来は記紀にも詳しく書かれているのですが……」
 その故事によると、須佐之男命の乱暴な行いに怒った天照大神が天の岩戸に閉じこもってしまったとき、困った八百万《やおよろず》の神々は策略をもちいて、天照大神を岩戸から出そうとしたのだという。
 やがて、神々の策略が功を奏して、天照大神は岩戸を開けて少し出てきた。このとき、一柱の神が、天照大神の手を取って外に引っ張り出し、もう一柱の神が、すかさず、尻久米縄《しりくめなわ》というものを、天照大神の後方、すなわち出てきた岩戸の入り口に張り巡らして、「この中へ還《かえ》ってはいけません」と言った。
 これがしめ縄の由来だというのである。
「……しめ縄には、出入り禁止の意があるのですよ。ふつう、神社の鳥居や拝殿などに張られているしめ縄は、参拝客などに対して、ここからは神域であるからむやみに入ってはいけないという意が込められていると思うのですが、それが、本末逆に張られているということは、ひょっとしたら、祀られている神に対して、ここより外に出てはいけないという意が込められているのかもしれません。
 つまり、それは、祀られている神が祟《たた》り神であることを暗に示しているとも考えられます……」
「祟り神?」
 日登美はぎょっとしたように聞き返した。
「ええ。昔は、疫病や災害などが起こると、それが神の祟りであると考えられていたのですよ。さきほど話した三輪山の神もやはり、祟り神として恐れられていたのです。ちなみに、この神を祀る大神神社のしめ縄も、このように逆に張られているのです。そして、あの出雲大社でも……」
 蛇神と聞いただけでも何やら薄気味悪いのに、その上、祟り神とまで聞かされて、日登美はいっそう気味悪くなった。思わず鳥肌のたった裸の腕をさすりながらあたりを見回した。
 今、立っている場所は、空をも覆い隠すような背の高い杉が両脇《りようわき》に立ち並ぶ、昼なお暗い参道である。
 蝉の声が降るように聞こえてくるだけで、あとはしんと静まりかえって物音ひとつしない。
 空気も晩夏とは思えないほどひんやりとしていて、まさに信州の山奥の神域という厳《おごそ》かな雰囲気があった。
 まっすぐ続いた参道をしばらく歩いて行くと、白衣に浅葱色《あさぎいろ》の袴《はかま》を着けた青年が参道を竹箒《たけぼうき》で掃き清めていた。
 日登美たちの姿を見ると、箒を動かす手をとめて、深々とお辞儀をした。
「弟の雅彦です」
 聖二は、その青年をそう紹介した。
 間近で見ると、年の頃は二十二、三歳のその青年は、どことなく聖二に似た顔立ちの美青年だった。
 白衣と袴の浅葱色が清潔なりりしさを醸し出している。
「日登美様。春菜様。お帰りなさいませ」
 大学生くらいの年頃だろうが、今時の若者とは思えないような丁重な物腰で、青年はそう挨拶《あいさつ》した。
 日登美は慌てて頭をさげた。
 長野駅で太田村長に「様」付けで呼ばれたときも、その大仰さにいささかうろたえたものだが、従弟《いとこ》にあたる若者にまで同じような挨拶をされて、日登美はすっかり面食らっていた。
「聖兄さん。さっき武彦から電話があって、明日の夜までには帰ると言ってましたよ」
 雅彦は、聖二の方を向きながら、こちらはいかにも身内に話すという気軽な口調でそう言った。
「光彦は? もう帰っているのか」
 聖二も、日登美と話すときとは別人のようなぞんざいな口調で、弟に聞いた。
「光彦なら帰ってます」
 雅彦はそう答えた。
「あの……」
 日登美に一礼して、また参道を掃きはじめた雅彦を尻目にさっさと歩いて行く聖二に、日登美は声をかけた。
「何ですか?」
 聖二は振り向いた。
「ずいぶん……ご兄弟が多いんですね」
 確か、前に聞いた話では、聖二には姉と妹がおり、しかも列車の中では、四人の幼い弟がいるとも言っていた。そのうえ、今の短い会話から察するところ、雅彦以外にもあと二人弟がいるようだった。
「え?」
 聖二は一瞬きょとんとしたが、すぐに口元に笑みを浮かべて、
「ああ、そうなんですよ。うちは十一人兄弟ですから」
 と、こともなげに言い放った。
「十一人……」
 さすがに呆《あき》れたように日登美は呟《つぶや》いた。
「九男二女なんですよ。あの雅彦は僕のすぐ下の弟で、去年東京の大学を出て帰ってきたんです。あと、あれの下に、武彦と光彦という弟がいます。武彦の方は今年大学を出て、長野市内の会社に勤めています。光彦はまだ大学生なんです。あともう一人、兄がいるのですが……」
 聖二は歩きながら言った。
「本来なら長男である兄が父の跡を継ぐべきなのでしょうが、兄は神職を嫌って、今は東京で、サラリーマンをしているんです。しかたがないので、次男である僕が父の跡を継ぐことになったんですよ。田舎の神主なんて本当はあまり気がすすまなかったんですがね……」
 聖二はそう言って苦笑した。
 村には小学校と中学校があるが、あまり教育水準の高いものとはいえないので、神家の男の子供は、中学から上の教育はすべて東京に出て受けてくるのだという。
 彼自身も、中学生のときから東京で暮らし、ある私立大学の経済を出たあと、国学院大学に編入して神道学を二年学び、郷里に帰ってきたのだと言った。
 やがて、参道は三つ叉《また》に分かれていた。
 前方には二の鳥居が見えた。
 聖二は、まっすぐ行けばお社、左手に曲がれば宮司宅、右手に曲がれば天照《あまてらす》大権現《だいごんげん》を祀《まつ》る日の本寺があると言った。
「お寺もあるんですか」
 日登美は右手の方角を何げなく見ながら聞いた。
「平安時代あたりに神仏の習合が行われた名残りです。まあ、神道だ仏教だと争っていたのは遠い昔の話ですからね。それに、寺といっても、代々、神家の血筋の者が住職を務める神宮寺ですし、天照大権現というのも、天照大神の仏教的な呼び名にすぎません。村には旅館といえるものが一軒しかないので、ふらりと訪ねてきた観光客などを泊める旅館代わりにもなっています。あそこの住職が蕎麦打《そばう》ちの名人なのですよ……」
 聖二の話を聞きながら、日登美はふと思った。もしかしたら、昔、ここを訪ねてきた父も、その寺に泊まったのかもしれない……。
 すたすたと左手の道を行く聖二のあとに付き従いながら、なんとなく後ろ髪を引かれる思いで、日登美はその寺があるという方角を振り返った。

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