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蛇神1-4-4
日期:2019-03-24 22:15  点击:315
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 あたりには、既に夕暮れの気配が漂いはじめていた。
 白衣に濃紫の袴《はかま》に着替えた日登美は、聖二の後について、社に続く二の鳥居をくぐった。
 袴など着けるのは、短大の卒業式以来だった。しかし、不思議なことに、こんな着慣れないものを身に着けても、それほど違和感はなかった。違和感どころか、むしろ、本来の自分に生まれ変わったような清々《すがすが》しささえ感じていた。
 そういえば、成人式も短大の卒業式も、振り袖を選ぶ級友たちが多いなかで、日登美は迷わず袴の方を選んだ。誰にいわれたわけでもないのに、そうするのが当然だと思ったのだ。
 今から思えば、もの心ついたときから髪を伸ばしてきたのも、式典などに出席するとき、振り袖ではなく袴を選んだのも、いつか聖二に言われたように、自分の血の中に眠っていた日女《ひるめ》の血がそうさせたものだったのかもしれない。ふとそんな気さえした。
 二の鳥居をくぐって、またしばらく参道を歩いて行くと、やがて、古びた拝殿が見えてきた。聖二の話では、日の本神社には本殿はなく、社の背後に聳《そび》える山が御神体なのだということだった。
 山は鏡山といい、現在では鏡という字を当ててはいるが、古くは、蛇身と書き、その美しいピラミッド型の形状が、ちょうど三重にとぐろを巻いた巨大な蛇の姿に似ていることから、この名がついたのだという。
 聖二がまず拝殿に参拝した。まず一礼し、四度|柏手《かしわで》を打ち、さらに一礼する。冴《さ》えた柏手の音が静まり返った境内に響いた。日登美もそれを真似て同じことをした。
「……それでは、大日女《おおひるめ》様にご挨拶《あいさつ》に行きましょう」
 拝殿への挨拶を終えてそのまま帰るのかと思ったら、聖二はそう言い、社の右手にある小道の方にすたすたと歩いて行った。
 この小道を行った先に、大日女と若日女たちが棲《す》む住居があるのだという。大日女に直接お目通りがかなうのは、神家の神職につく者だけだと聖二は言った。村人たちが大日女の姿を見ることができるのは、年に一度の祭りのときだけなのだという。
 杉木立の中にぽつんと家屋があった。その家屋に近づいて行くと、玄関から一人の少女が出てきた。やはり白衣に紫色の袴を着けている。長い黒髪を後ろで一つに束ねた美しい少女だった。
 ただ、その抜けるように白い、あどけなさの残る顔には、まるで泣いたあとのような腫《は》れぼったさがあった。
「……真帆様。どうかされたんですか」
 聖二も少女の様子に気づいたらしく、顔を覗《のぞ》きこむようにして尋ねた。
「なんでもありません」
 しかし、少女は顔を背けるようにして、小さな声でそう答えると、聖二たちを避けるようにして社の方に行ってしまった。
 聖二はやや心配そうに少女を振り返って見ていたが、すぐに気を取り直したように、家屋の玄関の戸を開けた。
 三和土《たたき》に立ち、薄暗い奥に向かって、「聖二です。日登美様をお連れしました」と声をかけると、すぐに、奥から袴姿の女性が出てきた。こちらは幾分年かさで、二十代後半くらいに見えた。
「ご苦労さまでした。大日女様がさきほどからお待ちかねです。どうぞおあがりください」
 女性は奥に差し招いた。
「澄子様……」
 聖二は履物を脱いであがると、その女性に近づき、
「今そこで真帆様にお会いしたのですが、どうかされたんですか。泣いていらしたように見えましたが」と言った。
「それが……」
 女性は眉《まゆ》をよせ、聖二の耳に何か囁《ささや》くように耳打ちした。それを聴いていた聖二の顔が一瞬険しくなった。
「そんな……真帆様はまだ十歳になられたばかりでしょう?」
 愕然《がくぜん》としたように言う。
「あの娘は少し早く来てしまったようです。さきほど、気が付いて……。わたしが手当してさしあげたのですけれど」
「それは……」
 聖二は考えこむような顔になった。
「困ったことになりましたね……」
「そうなのです。そのことで、大日女様があとであなたにお話があるそうです」
「分かりました……」
 聖二は思案顔で頷《うなず》いた。
「澄子」と呼ばれた若日女と何やら密談めいたことをしたあと、聖二は日登美を促して、奥の部屋に入った。
 その部屋の、床の間のような一段高くなった場所に、その女性は座っていた。
 純白の上衣に純白の袴。
 何もかも白ずくめの中で、床を這《は》うほどに長い髪だけが黒い。しかし、その髪にもわずかに白い筋が走っている。
 年の頃はにわかには判断しがたい容貌《ようぼう》だった。美しいが、若くはなかった。見ようによっては三十そこそこにも見えるし、既に六十を過ぎているようにも見える。
 身体つきは、まるで子供のように華奢《きやしや》で小柄だったが、その白ずくめの身体からは、近寄りがたい威厳のオーラのようなものを発散していた。
 これが大日女と呼ばれる女性だった。
 聖二は、大日女の前に袴の膝《ひざ》を折ると、畳に両手をついて、深々と頭をさげた。
 日登美も同じしぐさをした。
 それは、聖二のしぐさを真似たというよりも、目の前の女性の厳しい雰囲気に圧倒されて、思わず跪《ひざまず》いてしまったという風だった。
「日登美……顔をあげなさい」
 大日女の声が頭上からした。
 日登美はおそるおそる顔をあげた。
 聖二はまだ頭をたれたままだった。
「ああ……ほんとうに緋佐子によく似ていること……」
 日登美の顔を見つめながら、大日女が小さく呟《つぶや》いた。その能面のように白く無表情だった顔に、僅《わずか》に人間的な感情のうねりが走ったように見えた。
「あのときの赤子がこんなに大きくなって……」
 大日女は遠い昔を思い出すような目になって、なおも独り言のように呟いていたが、すぐに、その顔から人間的な表情は拭《ぬぐ》ったように消えた。
「緋佐子は……おまえの母は、大神に仕える日女として最も恥ずべき罪を犯した」
 大日女の口から出た言葉は、日登美を鞭《むち》で打ちのめすような厳しいものだった。
「日女が大神へのご奉仕を放棄し、勝手にこの村を出るなど、けっして許されることではない。しかも、緋佐子の罪はそれだけではない。よりにもよって、若日女として大神に捧《ささ》げるはずだった赤子を連れて逃げるなど……」
 日登美ははっと息をのんだ。
「若日女として大神に捧げるはずだった赤子」というのは自分のことだと察したからだった。
 神家に生まれた女児は、生まれ落ちると同時に、大日女の託宣によって、若日女に選ばれることもあると、以前、聖二から聞いた話を思い出していた。
 若日女に選ばれた女児は、親元から引き離され、大日女のもとで真性の巫女《みこ》となるべく養育されるのだとも……。
 自分は生まれ落ちた瞬間から、その若日女として生きるよう定められていたのだ。
「……大神に背いた緋佐子の罪はどう償っても償い切れるものではない。しかし……」
 大日女の峻厳《しゆんげん》な顔が僅かに和らいだ。
「大神にお伺いをたてたところ、我が印を与えた子を生んだ女ゆえに、その罪を特別に許すとおっしゃっておられる……」
 我が印を与えた子?
 一瞬、日登美は自分の耳を疑った。
 それはどういうことだろうか。
 わたしのことを言っているのだろうか。それとも……。
 大日女に聞きただしたい気もしたが、この場でそれを口に出す勇気はなかった。
「……もし、おまえがこれから母の分まで心をこめて大神にお仕えすれば、おまえの母の罪も祓《はら》われ大神のご寵愛《ちようあい》はますます深いものになるだろう。だが、もし、おまえもまた大神のお心に背くようなことがあれば、今度こそ、いかに寛大な大神とてお許しにはなるまい……。ゆめゆめ、そのことを忘れるな」
 それだけ言うと、大日女は、日登美に向かって「さがれ」というしぐさをした。そして、まだ頭をさげたままでいる聖二の方に向かって、
「聖二。話がある……」と言った。
「はい」
 聖二はかしこまってそう答えると、ようやく頭をあげた。

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