5
五月に入った。
新田家を訪問するのは、新田家の人々の都合で五月三日の夜ということになっていたが、母の八重が上京してきたのは、前日の五月二日の夜だった。
その夜、狭いワンルームマンションの一室で、日美香は母と十何年振りで一緒に寝ることになった。といっても、日美香がベッドに寝て、母がその下の床に予備の布団《ふとん》を敷いて寝ることにしたのではあるが。
電気を消しても、母は興奮してなかなか眠れないようだった。何度か寝返りをうっていたが、そのうち、
「……ねえ、あんたたちも、いつもこうして寝てるの?」
と、含み笑いを伴った囁《ささや》くような声で聞いてきた。
日美香は一瞬母の言っている意味が分からなかった。
「あんたたちって?」
そう聞き返すと、母は低く笑った。
「決まってるじゃない。あんたと佑介さんだよ。泊まりにきたことあるんでしょ?」
「…………」
日美香はようやく母の言わんとすることを理解して、闇《やみ》の中で顔をこわばらせた。
久しぶりに母の近くで寝ることで、子供の頃に戻ったような甘酸っぱい気持ちになっていた日美香の胸にさっと冷たい隙間風《すきまかぜ》のようなものが通り抜けた。
「いやだねえ……。こんな薄そうな壁じゃ、隣に筒抜けじゃない?」
母は、声を殺してなおもそう言う。少々|下卑《げび》た含み笑いを漏らしながら。
何が筒抜けなのか、さすがに日美香は聞かなかった。
「彼は……」
日美香は冷たい声で言った。
「泊まっていったことはないわ」
「え? ないの?」
八重はびっくりしたように聞き返した。
「ないわ。コーヒーだけ飲んで帰ったことなら何度もあるけれど」
「それじゃ、いつもどこでしてるの? 佑介さんは自宅から通ってるんでしょ?」
母は殆《ほとん》ど無邪気といってもいいような声で言った。
「するって何を?」
日美香は冷ややかに聞いた。
「何をって……まさか、あんた」
がばっと起き上がる気配がしたかと思うと、ぱっと天井の明かりがついた。
「ちょっと。まぶしいじゃない」
日美香は思わず手で目を覆った。
「まだ……ってわけじゃないでしょうね?」
八重は布団の上に正座していた。信じられないことを聞いたという顔でまじまじと日美香を見上げている。
「いくらなんでもそれはないわよね。二年も付き合ってて」
「まだ……よ」
日美香は渋々答えた。この手の会話を母親とすることにたまらない嫌悪をおぼえながら。しかし、母はこの手の会話が大好きだった。
「一度もないの? 二年も付き合ってて一度も?」
母はしつこく聞く。天然記念物でも見るような目で娘を見ていた。
「もう電気消してよ。眠いんだから」
日美香はいらだったような声をあげた。
「信じられない。二年も付き合ってて、おまけに結婚しようという男と一度もないなんて……」
母はぶつぶつとそう言っていたが、はっと何かに気づいたような顔になると、
「日美香。あんた、まさかあのことを気にして?」
と言った。
「なによ。あのことって?」
日美香が仏頂面で聞き返すと、母は、自分の右胸に手をあて、
「ほら、ここのこと……」
と意味ありげに言った。
「違うわ」
日美香は母の言っていることをすぐに理解して、突き放すような声で答えた。
「そう。それならいいけど。あれ、手術か何かで取れないものかねえ……」
八重は布団の上から伸び上がって電気を消すと、そうぶつぶついいながら、また横になった。
「わたしはね……」
日美香は闇の中で呟《つぶや》くように言った。
「母さんのようになりたくないだけよ」
もぞもぞと動いていた八重の動きが一瞬止まった。それっきり凍りついたように母は動かなくなった。自分の投げ付けた一言が母を深く傷つけたことを、日美香は痛いほど感じていた。
そして、いつもこのせりふを言ったあとにくる苦い自己嫌悪に陥った。
母さんのようになりたくない。
母ともめごとを起こすたびに、何度この言葉を口にしただろう。
そのたびに、この言葉は、無敵のジョーカーのように、母を傷つけ黙らせた。
しかし、この一言は、母を傷つける以上に、この言葉を投げ付けた日美香自身をも傷つけていたのだ。
しばらく気まずい沈黙があったが、「おやすみ……」という母のかぼそい声がした。