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母のことが嫌いなわけではなかった。
母一人子一人でずっと肩を寄せ合うように生きてきたのだから、母にたいして愛情がないわけがない。
八重のおおらかさも子供のような無邪気さも、日美香はけっこう愛していた。時々、娘というより、母親のような庇護《ひご》的な愛情を八重に対して感じることがあるくらいだった。
しかし、どうしても、あの性的な面でのだらしのなさだけは受け入れるわけにはいかなかった。
処女特有の潔癖さに、生まれついての異様なまでの誇り高さも加わって、日美香は、自らを貶《おとし》めるようなことだけはするまいと心に誓っていた。
思春期を通じて、回りの異性に全く目をむけなかったのも、日美香の注意をひくだけの男が回りにいなかったということもあるが、この母の二の舞いをしたくないという気持ちがあまりにも強すぎたせいかもしれなかった。
その気持ちを鎧《よろい》のように着込んで、日美香は、異性だけでなく、周りの人間たちすべてを、無意識のうちに拒んでしまったのかもしれない。
佑介と出会ったあとも、肉体的な接触を殊更に拒み続けてきたというわけではないのだが、二人きりになっても、隙《すき》のようなものを全く見せなかったことは事実であり、何かの拍子に妙な雰囲気になりそうになると、それを敏感に察して、さりげなくその場を立ったりしたこともあった。
佑介の方も無理に求めるようなことはしなかった。
それにしても……。
日美香は眠れないまま、闇《やみ》の中で思った。
二年も付き合っていながら、恋人と一度も肌《はだ》を合わせないというのは、そんなに異常なことなのだろうか……。
そう言われてみれば、わたしは少し変かもしれない。
そんな風にも思えてきた。
生まれてはじめて佑介とキスした夜、日美香が部屋に戻って真っ先にしたことは、歯茎から出血するほど歯を磨くことだった。
それは、まるで小鳥のついばみのような軽いキスだったにもかかわらず、他人の唇の感触が自分の唇の上に残っているというのは、耐えられない不快感だったのだ。
恋人の、気持ちの上では、はっきり「愛している」と感じている最愛の男の唇でさえ不快な異物に感じてしまう自分にとまどい、怒りさえ感じた。
潔癖もここまで来たら病的だ、と自分でも思ったくらいだった。
軽いキスでさえこうなのだから、これ以上の接触など、考えるのも嫌だった。
わたしには何か女として欠けているものがあるのかもしれない。いや、女としてだけではなく、人間として……。
物心ついた頃から、多くの人達が感動して泣いたり笑ったりするようなことがらを、全く無感動に眺めている自分というものがいた。
そして、いつの間にか、全く心を動かされないことでも、動かされたような振りをする癖がついてしまった。
それは、まるで、自分が宇宙の果てから誤って地球にやってきた異生物か何かで、この世界に留まるために、人間の習性を観察して、巧みにそれを真似、人間の振りをしている。
そんな感じだった。
こういうときは泣くんだ。こういうときは笑うんだ。いちいち頭でそれを確認して、心に向かって命じているようなところがあった。
自分の身体の中にも、多くの人たちと同じように、暖かく脈打つ赤い血が流れているのだろうか。
そんなことを思ったこともある。
ひょっとしたら、わたしの血は、青く澄んだ冷たい血なのかもしれない。
まるで蛇のような……。
蛇?
日美香は闇の奥を見通すように目を見開いた。
蛇という言葉から、ふと、自分の右胸の上にある痣《あざ》のことが頭をよぎったのだ。
先程、母が口にしかけた……。
形は良いがやや小さめの右乳房の上の方に、生まれついての奇妙な痣があった。
それは大人の手のひら位の大きさで、奇麗な薄紫をしていた。小さなひし形がびっしりと集まった、魚の、いや、まるで蛇の鱗《うろこ》のような不気味な形状の痣だった。
八重が口にしたように、日美香はこの胸の痣のことをひどく気にしていた。今まで、他人にこの痣を見せたことはなかった。痣のことを知っているのは母だけだった。この胸の痣を隠すために、日美香は、これまで人知れぬ苦労を重ねてきた。
学校の体格検査のときなども、風邪《かぜ》と偽って休んだり、体育の時間に体操服に着替えるときも、一人だけわざわざトイレの個室に入って着替えたりした。
夏でもけっして胸のあいた服は着なかったし、大学に入って、ゼミの仲間たちと海に行ったときも、殆《ほとん》どの友人たちが、申し訳程度の布で胸を覆っているような大胆な水着を着ているのに、日美香だけが、スクール水着のような色気のない水着を着て、友人たちの失笑を買ったこともある。
母の言うように、手術でもして取ってしまおうかと思ったこともあった。しかし、気味の悪い痣ではあったが、なぜか、日美香には、この痣が美しく感じられることもあった。
時々、風呂《ふろ》からあがったときなど、鏡の前で痣に見入ってしまうことがあった。
ふだんは冷たい大理石のように白い肌が、湯あがりの桜色に染まり、その淡い桜色からぼうっと薄紫に浮かび上がるその痣を、日美香は美しいと思った。
人に見せれば気味悪がられるに決まっているそんな奇怪な痣を美しいと感じてしまう自分は、やはり、どこかおかしいのかもしれない……とも。