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「……遅いね」
佑介は腕時計をちらと眺め、やや苛立《いらだ》ったような口調で言った。
新田家のソファに両膝《りようひざ》をそろえて座りながら、日美香はいたたまれない気持ちで身体を縮めていた。
五月三日。時刻は既に午後七時を回っていた。
夕食会は午後六時からの予定だった。もう一時間も過ぎている。しかし、母の八重はまだ姿を見せない。最初はにこやかだった新田家の人々の顔にも、苛立ちの兆しが見えはじめていた。
母さんったら、何してるの。
あれほど遅れるなって言ったのに。
こんなことなら一緒にくればよかった。
日美香は、心のなかで母を罵《ののし》った。
八重は朝起きると、どういう気まぐれか、二十年ぶりでホステス時代の仲間に会いたくなった。これから会いに行ってくる。白金台の方には、そちらから直接行くと言い出したのだ。
それで、仕方なく、新田家の住所と電話番号を書いたメモを渡し、「六時よ。絶対に遅れないでよ」と念を押して、母を送り出したのだったが……。
帰りはタクシーを拾うと言っていたから、道に迷っているとは考えられない。あの、何事にもルーズな母のことだ。おそらく、久しぶりにホステス時代の仲間に会い、昔話に花を咲かせているうちに、約束した時間のことなどけろりと忘れてしまったのではないか。
今頃、気が付いて、大慌てでこちらに向かっているのではないだろうか。
それならそれで、電話くらいしてくればいいのに。そのために、ここの電話番号もメモしておいたというのに……。
日美香は腹立たしい気持ちでそう思った。
腹立たしさは自分自身にも向けられていた。こんなことになるのだったら、母の昔なじみだという女性の連絡先を聞いておけばよかった。
それもせずに送り出してしまったわたしが馬鹿だった……。
母の性格をよく知っていながら、そこまで気が回らなかった自分を、日美香は責めていた。
だから、新田家の居間の電話が鳴ったとき、日美香はほっとした。
母だと直感的に思ったからだ。今そちらに向かっていると伝えるためにかけてきたに違いない。
相手がいつ来るか分からないような状態でやきもきして待つよりは、たとえ遅れても、いずれ来ると分かって待つ方が、新田家の人々の苛立ちも少なくて済むだろう……。
そう思ったのである。
電話に出たのは佑介だった。電話が鳴るなり、電話機に飛びつくようにして取ったところを見ると、彼も日美香と同じことを考えたようだった。
「新田ですが……」
そう言ったきり、佑介は黙って相手の話を聞いている。
母ではなかったのかな……。
日美香は佑介の方をじっと見ながら、ふと思った。
「……葛原八重さんなら知り合いですが……」
不審そうな声でそう言った佑介が、突然、何かよほど意外な事でも聞かされたように、「えっ」と言った。
母からではないようだった。しかし、母の名前が出たところを見ると、母に関する電話であることは間違いない。
日美香はなんとなく嫌な胸騒ぎをおぼえた。
「はい……はい」
相槌《あいづち》だけをうつ佑介の声がどこか緊迫した響きをもっている。
「……××病院ですね。はい、知ってます」
佑介の声がそう言った。
病院?
日美香の心臓が大きくどきんと鳴った。
「わかりました。これからすぐに伺います」
そう言って、佑介は電話を切った。
「どなたから?」
不安そうな面持ちで聞いたのは、佑介の母親だった。
「警察……」
振り向いて、そう言った佑介の顔色が変わっていた。
「警察?」
新田家の人々は互いの顔を見合わせた。
病院。警察。
この二つの単語を聞いただけで、何かただならぬことが起きたと分かった。しかも、母の名前が出たところをみると、母に関する何かただならぬことが……。
「お母さんがこちらに向かう途中、事故に遇《あ》われたそうだ」
佑介は日美香の方を見ながらそう言った。
「事故……」
日美香は、その瞬間、すっと血が頭から足元に落ちるような感覚を味わった。
「詳しいことは分からないが、車の事故らしい。今、病院に運ばれて手当を受けているそうだ。とにかく、すぐに行こう」
佑介はそう言うと、「車のキーを取ってくる」と言い残して居間を足早に出て行った。
それから先のことを日美香はよくおぼえていなかった。
佑介の愛車の助手席に半ば押し込まれるようにして乗せられ、母がかつぎ込まれたという、都内でも有名な大病院に着くまで、頭がぼうっとして、何も考えることができなかった。
「手当受けてるって警察の人は言っていたから……。そんなに心配することないよ、きっと」
佑介は励ますようにそう言ったが、そう言う彼の顔も心なしかこわばっていた。
病院に着いて、ようやく、警察の人から詳しい事情を聞くことができた。
その話によると、八重は、須田民雄という男の運転する車の助手席にいたらしい。須田が高速道路で前の車を追い越そうとして接触し、その弾みでガードレールに激突したということだった。事故の原因は、須田のスピードの出し過ぎと、無理な追い越しにあったようだった。
八重と須田は、ともに意識不明の重体のまま病院にかつぎ込まれ、今も集中治療室で治療を受けているという。
須田の免許証から、須田の家族に連絡が取られ、須田の妻から、彼が八重を送って白金台に向かう途中だったいきさつを聞いた警察は、八重のハンドバッグの中に入っていたメモから、新田家の電話番号を知ったというわけだった。
集中治療室の前のベンチには、四十がらみの痩《や》せた女性が、こちらもいても立ってもいられないという面持ちで座っていた。須田の妻だった。
どうやら、この女性が、八重が言っていた昔のホステス仲間であったらしい。
日美香は、この女性と佑介とともに、集中治療室の近くのベンチで、手術が無事に終わるのを祈るしかなかった。
絶対大丈夫。
母は死にはしない。
わたしを生んだときだって、半分死にかけていたのを生き返ったのだと、いつも自慢そうに話していたくらいだ。今度だって、きっと……。
手術中のランプが消えて、医師たちが疲労しきった表情で出てきたのは、それから二時間ほどしてからだった。
ベンチの前で待っていた日美香たちの方にやってくると、医師の一人が、「男性は大丈夫です」と言った。
須田の妻の顔にぱっと生気が蘇《よみがえ》った。
須田が一命をとりとめたということは、きっと母も……と日美香が希望をもちかけたとき、「しかし……女性の方は……」
医師はそこで言いよどみ、沈鬱《ちんうつ》な表情で、あとは黙って軽く頭をさげただけだった。