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母を死においやったのはわたしだ……。
加代子が帰ったあとも、日美香は八重の寝室の畳に座り込んだまま、立ち上がることができなかった。
まるで鋭い刃物で内臓を引っ掻《か》き回されるような後悔の念にさいなまれていた。
涙すら出なかった。
日美香を泣くこともできないほど苦しめていたのは、なにも五月三日のことだけではなかった。この二十年間の記憶がすべて濁流のようになって日美香に襲いかかってきた。
母は自分が生んだわけでもない子供をずっと我が子として育ててきたのだ。
その母に対して、知らなかったとはいえ、自分はなんというひどいことばかりしてきたのだろう。
母さんのようにはなりたくない。
実母だと思い込んでいたからこそ、平然とこんな無情な言葉も口にできたのだ。このだらしのない女の血が自分の身体の中にも流れている。嫌悪とともに、そう思い込んでいたから。
しかし、勝ち誇ったように言う娘にたいして、八重は反論する気になればできたはずだった。たった一言言うだけでよかった。「おまえはわたしの娘ではない。それを今まで育ててやったのだ」と。
しかし、八重はそうはしなかった。ばつの悪そうな顔をしながら、娘の痛罵《つうば》をやりすごすだけだった。そして、そのあとはけろりと忘れたような顔をしていた。
加代子の話では、この二十年間に、八重には結婚話が二度ほどあったのだという。相手は、ともに自営業を営む男性で、二人ともかなり真剣に八重との結婚を望んでいたらしいのだが、八重はけんもほろろに断ったというのだ。理由は、相手の男がともに日美香の父親とするにはふさわしくないと思ったからだというのだった。
「わたし一人だったら、どちらかと一緒になっていたかもしれないけど……」
あの三日の夜、八重はそんなことをぽつりと加代子に漏らしたのだという。
さらに加代子はこうも言った。
日美香が新田佑介にプロポーズされたという話を、自慢げに八重がはじめたとき、加代子が、半ばひやかすように、「すごい。玉の輿《こし》じゃないの」と言うと、八重は突然|眉《まゆ》をつりあげて、
「玉の輿なんかじゃない。日美香はようやくあの子にふさわしい居場所を自分で見つけただけのことだ。学者一家がなんだ。よくは分からないけれど、日美香の血の中には、もっと高貴なものが流れているような気がする。日美香には何かわたしたちとは違うものがある。わたしには分かる。日美香の父親がどういう人なのか、わたしには知りようもないけれど、でも、その人はふつうの人ではなかったに違いない。日美香はもともとこんな境遇で育つような娘ではなかった。それが何かの手違いでこうなってしまったんだ。でも、これからは違う。新田家なら日美香にふさわしい。そのためにも、この縁談は何があっても壊してはならない……」
真剣な目をして、八重は、このようなことをとうとうとまくしたてたというのである。
そして、この悲愴《ひそう》な決意が、結果的には、あの事故へと八重を導いてしまったのだ……。
「日美ちゃん……」
頭上で声がした。
両手の爪《つめ》を畳に突き立てるようにして、つっぷしていた日美香ははっと顔をあげた。
「大丈夫か?」
心配そうな顔をした佑介がそこにたっていた。
「どうだった? 須田さんはあの本のこと何か……」
佑介が最後まで聞かないうちに、日美香の顔が歪《ゆが》んだかと思うと、突然、佑介の胸に身体を投げかけた。そして、日美香は子供のように声をあげて泣いた。
それまで堰《せき》とめられていた感情が、恋人の顔を見たとたん、爆発したとでもいうようだった。
困惑したような表情で、それでもしっかりと自分を受け止めてくれている佑介に、日美香は泣きじゃくりながら、須田加代子から聞いた話をすべてぶちまけた。
「そうか。そうだったのか……」
佑介は日美香のか細い身体を抱き締め、赤ん坊でもあやすように背中を撫《な》でさすりながら言った。
その声には驚いた様子はなかった。あの本の写真を見せられたときから、彼にも、もしやと思うものがあったようだ。
「……わたし、もうあなたとは結婚できない」
ひとしきり泣きじゃくったあと、日美香はぽつんとそう言った。
「どうして?」
佑介は今度は驚いたとでもいうような声で聞き返した。
「だって、わたし、誰の子か分からないのよ? 倉橋日登美という人のことは何もわからないし、本当の父親のことも何も知らない。そんなどこの誰とも分からない女とあなたは結婚できるの?」
そう訴えると、佑介は怒ったような顔で言った。
「何を馬鹿なことを言ってるんだ。たとえ、きみが木の股《また》から生まれようが、きみはきみだよ。葛原八重さんが本当の母親でなかったからといって、それがどうしたっていうんだ? 何も変わりはしないじゃないか」
「変わってしまうわ。何もかも……」
日美香は呟《つぶや》いた。両親のそろった恵まれた家庭に生まれ育った佑介には理解できないだろう。今のわたしの気持ちは……。
八重が実母ではなかったと知った瞬間、日美香を襲った後悔の念は、やがて、「それでは一体自分はどこの誰なんだ」という、自分の存在そのものをゆるがす不安、焦燥の念に変わっていた。
今までも、父のことは顔も名前も知らずに過ごしてきた。それは、子供ができたと分かると、あっさりと母を捨て、認知も拒んだ男など、こちらから父親と認めてやるものかという気持ちがあったからだ。
だから、あえて、母に父のことは聞かなかったし、今どこに住んで何をやっているのか、知りたいとも思わなかった。
ただ、知りたいと思わなかったというのは、いつでもその気になりさえすれば、母の口から聞くことができるという思いがあったからでもあった。
それに、父親のことは分からなくても、少なくとも、母親が葛原八重という女だということだけは分かっていた。
しかし、そのかすかな存在のよりどころすら、日美香は失ってしまったのだ。
それは、今まで紐《ひも》につながれて、かろうじて地上にとどまっていた風船が、突然、その紐を切られて、ふわふわとあてもなく宙をさまよい昇っていくような感じだった。
「どうしてもご両親のことが知りたければ」佑介がふいに言った。
「知る方法はいくらでもあるじゃないか。きみのお母さんが長野県の日の本村というところで巫女《みこ》をしていたというのは厳然たる事実なわけだろう? それなら、その日の本村に行けば何か分かるに違いない。おそらく、そこで、お父さんのことも……」
そこまで言って、佑介はやや難しい表情になった。
「ただ、それはあくまでもきみが知りたいと思えばの話だよ。俺《おれ》は、そんなこと、ちっとも気にならないし、きみが誰の子であろうとなかろうと、きみと結婚したいという気持ちは変わらないつもりだ。それに、八重さんが亡くなって天涯孤独になったからって、俺と一緒になればすぐに新しい家族ができるじゃないか。だから、俺自身はあまりそのことを勧めたくない……」
「なぜ?」
日美香が聞くと、佑介は、ふっと不安の影のようなものをその顔によぎらせて言った。
「それは……きみのお母さんが、きみを身ごもったまま、逃げるように東京に出てきたらしいという状況から考えると、郷里の村で何かあったとしか思えないからだ。それは、ひょっとしたら、きみが知らない方がいいことかもしれない。それを知ったことで、きみの運命、いや、俺たちの運命そのものが大きく変わってしまうのではないか。なんだか、そんな気がするんだよ……」