8
日美香がワンルームの部屋に帰ってきたのは、午後十一時をとっくに過ぎた頃だった。
着替えをしていると、電話が鳴った。取ってみると、新田佑介だった。
佑介はまだ会社にいるようだった。
「これから行ってもいいかな……?」
幾分ためらいがちな声でそう言った。
佑介の勤め先から、日美香が借りているマンションまでは、車なら三十分足らずで来られるはずだった。
日美香は少し迷った。
今までこんな遅い時間に佑介を部屋に入れたことはなかったからだ。
しかし、二人はいわば婚約しているといってもいい間柄である。もう遅いからといって断るのもよそよそしすぎるような気がした。
それに、真鍋伊知郎から聞いた話を一刻も早く佑介にも聞いてもらいたかった。佑介も同じ思いのようだ。だから、遅いのを承知で電話をしてきたのだろう。
「……いいわよ」
そう答えると、佑介はほっとしたような声で、「これからすぐに行く」と言って電話を切った。
そして、三十分もしないうちに、玄関のインターホンが鳴った。
扉を開けると、ややばつの悪そうな顔つきで入ってきた佑介は、
「明日にしようかとも思ったんだけれど、真鍋さんのことが気になってさ……」
と、深夜の訪問の弁解をするように、すぐにそう言った。
「で、どうだった? 何かわかった?」
狭いキッチンにたって、コーヒーをいれようとしていた日美香に訊《たず》ねる。
日美香は真鍋から聞いた話を佑介に話した。
「……ということは、きみのお父さんは、もしかしたら、その三人衆とかいう男たちの中にいるってことなのかな」
佑介は話を聞き終わると、コーヒーを啜《すす》りながらそう言った。
「でも、そうすると、ちょっと変じゃないかしら」
日美香は言った。
「変って?」
「だって……。もしそうなら、どうして母はわたしを身ごもったまま村を出たのかしら。もし、わたしの父が三人衆の誰かだとしたら、村を出る必要はなかったんじゃない? 真鍋さんの話では、生まれて来た子供は、日の本神社の宮司の家で大切に育てられるというんだもの。なにも逃げるように村を出ることはないでしょう?」
「うーん。それもそうだな。ただ、お母さんが村を出たとき、きみがおなかにいることを知らなかったとも考えられるけれど……」
佑介は考えこむように言った。
「でも、たとえそうだとしても、それなら、妊娠していることに気づいた時点で村に帰ったんじゃないかしら? でも、母はそうはしなかった。ということは、母には村に帰りたくても帰れないような事情があったからじゃないかと思うの。たとえば……その」
日美香はいいにくそうに言った。
「母は三人衆以外の男性と……とも考えられるのよね。だから、村にいたたまれなくなって出てきたのではないか……」
「なるほどね。しかし……掟《おきて》を破った男はなぶり殺しにされるというのは凄《すご》いな」
佑介は苦笑しながら言った。
「てことは、俺《おれ》もなぶり殺しにされるってことなのかなあ……」
「え?」
日美香が怪訝《けげん》そうな顔をすると、
「だってそうじゃないか。きみだって日女《ひるめ》なんだから。真鍋さんの本によれば、日女を母親にもつ女はすべて生まれながらにして日女だというんだろう? 本人の意志とは全く関係なく……」
佑介はそう言った。
そのとき、日美香ははっと胸をつかれる思いがした。
彼の言うとおりだ。
今までなぜ気にもとめなかったんだろう。
わたしも日女だということに……。
「でも、それはあの村で暮らせばの話でしょ。わたしはあの村で暮らす気なんてこれっぽっちもないもの。それに、なぶり殺しといったって昔の話じゃない。昔はそういうこともあったって話よ……」
「そうであってほしいね。でなきゃ、俺はきみと結婚できなくなっちまう」
佑介は冗談めかした口調でそう言ったが、その目は笑ってはいなかった。
「……それで、やっぱり日の本村には行く気なのか?」
佑介はややあってから、日美香の方は見ないで、そう聞いた。
「ええ。真鍋さんの話だけでは分からないことが多すぎるし……。ただ、その前に、達川という人に会ってみるつもりだけれど」
「週刊誌の記者とかいう?」
佑介はちらと目をあげて日美香を見た。
「うん。その人が母のことを調べていたというのよね。何を調べていたのか気になって」
「……日美ちゃん」
佑介が改まった声で言った。
「もうやめないか」
「え……?」
日美香は驚いて佑介の顔を見た。
「そんな昔のことをほじくりかえしてどうするんだ? 事実はどうであれ、きみの戸籍上の母親は今も葛原八重さんなんだ。それでいいじゃないか。どうして、それ以上のことを知る必要があるんだ? そんな過去にこだわるより、これからのことを考えろよ。そんなに家族がほしいなら、俺がやるよ。きみが望むならば、俺は、今すぐ結婚してもかまわないんだ」
佑介は、血走ったような目でそういうと、いきなり、日美香の両腕をつかんだ。
そして、そのまま凄い力で自分のもとに引きずり寄せた。
日美香は一瞬身構えはしたが、抵抗はしなかった。強引に引きずられるままに佑介の胸に倒れ込んだ。
こうなることは半ば予測していた。
もしそうなったら、彼の求めるままに応じようとも思っていた。
「なんだか不安なんだよ。怖いんだ。きみが遠くへ行ってしまいそうで……」
佑介はそう呟《つぶや》くと、日美香の唇をむさぼるように求めてきた。それは、以前にしたような小鳥のついばみみたいなキスではなく、まるで、飢えた乳飲み子が母の乳房に吸い付くような激しい求め方だった。
これまでに、これほど我を忘れた様子の佑介に接するのははじめてだった。
ただ、それは、牡《おす》の欲望に突き動かされてというよりも、彼の内部から沸き上がる得体の知れない不安に責め立てられての行動のようにも見えた。
床に押し倒され、上にのしかかられたときは、さすがに日美香は、本能的な恐怖を感じ、思わず悲鳴をあげそうになった。
かろうじてそれをかみ殺すと、半ば反射的に両手を突っ張って、迫ってくる男の分厚い胸板を押し返そうとした。
しかし、いざとなると逆上した男の力にかなうはずもなく、たやすく組み伏せられてしまった。
佑介のわななく不器用な指先が、もどかしげにブラウスのボタンを一つずつはずしていくのを、日美香は目をつぶり、いっさいの抵抗をやめて受け入れようとしていた。
ブラウスの前ボタンがすべてはずされ、小さなリボンの付いた純白のブラジャーに包まれた、やや小さめの胸がさらけ出されたのを感じたとき、突然、佑介の動きが止まった。
そのままかたまったように動かない。
どうしたのかと思い、おそるおそる開いた日美香の目と、上から見下ろしている佑介の目が一瞬かちあった。
彼の目には奇妙な色が浮かんでいた。
何かおぞましいものを見てしまったとでもいうような、怯《ひる》んだ色が。
日美香は、とっさにすべてを理解した。
佑介がさらけ出された自分の右胸の痣《あざ》を見て、それにショックを受け、怖《お》じけづいたのだということを。
「……ごめん」
ややあって、佑介は口の中でそう言うと、のろのろと身体を起こした。日美香はじっと恋人の目を見つめたまま、床に仰向《あおむ》けになっていた。
彼が口にした「ごめん」という言葉が、突然襲いかかるような乱暴な行為をしたことを謝ったものなのか、それとも、その行為を途中でやめてしまったことを謝ったものなのか、頭の中で考えながら……。
佑介は痣のことは何も言わなかった。何も言わないというのが、彼が受けたショックの大きさを逆に物語っているようにも見えた。
彼は立ち上がると、自分の少し乱れた衣服を整え、床の上から横たわったままじっと自分を見上げている日美香の視線を避けるようにして、「俺……帰るよ」と言った。