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蛇神2-3-1
日期:2019-03-24 22:35  点击:259
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 五月十一日。
 日美香は、小金井公園近くの、とある高層マンションの前に立っていた。
 午前中の講義に出たあと、真鍋から貰《もら》った名刺を頼りに、達川正輝の勤め先である出版社を訪ねてみたところ、編集部の人の話では、あいにく、達川は、既に退職したのだという。
 それも半年近くも前だというから、おそらく、達川は、真鍋を訪問した直後あたりに出版社をやめたらしい。
 どうしても会いたい用事があるので、自宅の住所か電話番号を教えてほしいと頼み込むと、今もそこに住んでいるかどうかは分からないが、と言って編集部の人が教えてくれたのが、小金井市のマンションらしき住所だった。
 さっそく電話をかけてみたが、留守《るす》なのか、呼び出し音が鳴り続けるだけで誰も出ない。平日の昼間ということもあって、うちにいる可能性の方が低いとは思ったが、とりあえず、訪ねてみることにした。
 留守ならば、用件と自分の連絡先を書いた簡単なメモを残してくるつもりだった。
 訪問者が倉橋日登美の娘だと知れば、達川の方から連絡してくれるだろうと思ったからである。
 ロビーにずらりと並んだメールボックスで調べてみると、903号室に「達川」という名前があった。どうやら、達川はまだここに住んでいるようだった。
 見たところ、分譲マンションのようだった。
 さいわい、オートロック形式ではなかったので、日美香は、エレベーターを使って、達川の部屋まで行った。
 インターホンを二、三度鳴らしてみたが、応答はない。人の出てくる気配もなかった。
 やはり留守かと思い、その場で書いたメモをドアの隙間《すきま》に挟んで、帰ろうとしたとたん、いきなりドアが開いた。
「……なに?」
 細く開けたドアの隙間から、不機嫌《ふきげん》そうな顔をのぞかせたのは、ぼさぼさの頭に不精髭《ぶしようひげ》を生やした、四十前後の中年男だった。
 パジャマを着ている。
 寝ているところをインターホンの音でたたき起こされたとでもいいたげな格好だった。
「達川正輝さん……ですよね?」
 不在だとばかり思った当人がいきなり出てきたので、日美香は幾分うろたえながら尋ねた。
「ああ……」
 達川は目をこすりながらそう言い、日美香の顔を見たが、そのとたん、突然目が覚めたと言う表情になった。
「あの……実は」
 日美香は自分の名前を名乗り、訪問の理由を話した。
 すると、最後まで話し終わらないうちに、
「ちょ、ちょっと待って」
 達川は慌てたように言うと、中にひっこんでしまった。
 しばらく外で待っていると、ようやく扉が開き、達川が出てきて、「どうぞ」と中に通すようなしぐさをした。
 トレーナーの上下に着替えていた。
「お邪魔します……」
 そう言って、玄関を一歩入った日美香は、中のあまりの汚さにのけぞりそうになった。間取りは、少なくとも2LDK以上はありそうな、いわゆるファミリータイプのようだったが、酷《ひど》く散らかっているうえに、何やら胸の悪くなるような異臭が漂っている。
 異臭の源は、玄関スペースに幾つも重ねられた生ゴミ袋のようだった。おまけに、廊下には、空のビール瓶やら酒瓶やらが足の踏み場もないほど大量に転がっている。
 この人、独身なのかしら……。
 日美香はあぜんとしながら思った。
 表札には、「達川」としか出ていなかったが、903号室のドアのすぐそばの通路に、三輪車が置いてあったので、てっきり、達川には三輪車に乗るような子供がいるのだと思いこんでいたのだが……。
 このゴミの山のような凄《すさ》まじい部屋に、妻子が共に住んでいるとは思えない。
「生ゴミは朝出せってうるせえんだよ、ここは。夜出すと管理人がご丁寧に戻しにきやがる……」
 達川は生ゴミをためた言い訳をするように、トレーニングズボンの尻《しり》を掻《か》きながら、そんなことを言った。
 そう言われてみれば、生ゴミ袋の幾つかには、何やらメモのようなものが張り付いたままになっていた。
 この玄関の有り様を見ただけで呆然《ぼうぜん》としてしまい、さらに奥に入る気力を日美香は無くしかけていたのだが、といって、ここで回れ右をして帰るわけにもいかないので、仕方なく、達川のあとについて行った。
 廊下の奥の、ダイニングとリビングのつながった十二畳ほどのフローリングの部屋は、玄関に優るとも劣らぬような酷い有り様だった。
 テーブルの上には、煙草の吸い殻がてんこもりになった灰皿、食べ散らかしたコンビニ弁当やカップヌードルの容器、どういうつもりか、小ピラミッドのように積みあげられた、空の缶ビールの山……。
 ソファには毛布と枕《まくら》が転がっており、毛布は、今そこに人が寝ていましたというような形でそのままになっていた。
 他に部屋があるだろうに、どういうわけか、達川は、ここのソファをベッド替わりにしているようだった。
「……この本をご存じですよね」
 部屋の様子や異臭にようやく目も鼻も少し慣れた頃、日美香は、バッグの中から真鍋の本を取り出した。
 達川は、テーブルとソファの周囲だけ、申し訳程度に片付けるような振りをすると、それまでベッドと化していたソファの片隅のスペースを日美香の椅子《いす》用に提供してくれた。
「その巫女《みこ》姿の女性は、わたしの母なんです……」
 日美香がそう言うと、真鍋の本を手に取っていた達川は反射的に顔をあげた。しかし、その顔には、驚きというより、やはりという色があった。
「娘さんか……。どうりで似ているはずだ」
 達川は独り言のように呟《つぶや》くと、
「で、倉橋さんは今どこに?」
 と、勢いこんで聞いてきた。
「母は亡くなりました」
 日美香は言った。
「亡くなった……?」
 達川の顔に愕然《がくぜん》としたような表情が浮かんだ。
「いつ?」
「わたしを生んだときに……」
 そのときの事情を話すと、食い入るような目で日美香を見ていた達川は、突然、両手で頭を抱え、「亡くなっていたのか……」と腹のそこから絞りだすような声を漏らした。
 それは、何かに失望したというか絶望したような声だった。
「達川さんは母のことを調べていたそうですね? 一体何を調べていたのですか」
 そう聞いても、達川は両手で頭を抱えこんだまま、すぐに答えようとはしなかった。
「真鍋さんから伺った話では、母の家族が亡くなったのは、事故ではなくて事件だったとあなたがおっしゃったというのですが、それはどういう……」
 日美香がさらにそう言いかけると、達川は何を思ったのか、すくっと立ち上がり、リビングから出て行った。しばらくして、戻ってきたときには、手にはスクラップブックのようなものをもっていた。
「これがその事件だ」
 そう言って、ぽんと無造作にスクラップブックを日美香の膝《ひざ》に投げてよこした。
 日美香がおそるおそる、それを開けてみると、そこには、昭和五十二年の夏に起きた或《あ》る殺人事件に関する新聞記事や週刊誌記事のコピーの切り抜きが掲載月日順に整理されていた。
 それは、新橋の駅前で古くから「くらはし」という蕎麦《そば》屋を営んでいた平凡な一家を襲った凄惨《せいさん》な事件だった。
 その一連の記事を、日美香は心臓を高鳴らせながら読みすすんだ。
「でも……」
 記事のコピーをひととおり読み終わると、日美香は腑《ふ》に落ちないという顔で達川に尋ねた。
「この事件は解決したのでしょう? 犯人の少年もすぐに逮捕され犯行を自供したとあるし……。それなのに、どうして今ごろになって、こんな古い事件を調べているのですか?」
 そう聞くと、達川は首を振った。
「最初からその事件のことを調べていたわけじゃない。ある人物の周辺を嗅《か》ぎ回っていたら、その事件にぶち当たったのさ」
「ある人物?」
「こいつさ」
 達川はそう言って、かたわらの、週刊誌や雑誌が雑然と積み重ねられた束から、一番上にあった週刊誌をひょいと取ると、それをテーブルの上に投げ出し、その表紙を飾っていた顔を指さした。
 白い歯を見せて笑う精悍《せいかん》な男の顔がそこにあった。
 その顔の下には、「政界のニューリーダーに聞く!」という見出しが走っている。
「今や、総理の椅子に最も近い男といわれている、まさに時の人だから、あんただって顔と名前くらいは知ってるだろう?」
 達川はにやにやしながら言った。
 むろん、日美香はその週刊誌の表紙を飾っている男のことを知っていた。
 現大蔵大臣の新庄貴明だった。
 二十九歳のとき、当時の大蔵大臣だった舅《しゆうと》の秘書を経て政界入りしてから、まだ五十前の若さで、既に厚相、通産相を経験し、今や、国内はもちろん、海外でも、最も注目される政治家の一人にあげられている人物である。
 政治的な能力もさることながら、百八十をゆうに越える日本人離れした長身に俳優並の整ったマスク、さらに学生時代に単身渡米して培ったという達者な英語力。
 そういった要素が何かと話題になり、今までになかったニュータイプの政治家として、ここ数年、各メディアが競うようにして取り上げている。
 政界のことには暗く、またたいして関心もなかった日美香のような若い娘でも、この男について或る程度の知識があったのは、たまに美容院などで手にする女性週刊誌にまで、まるで有名タレントか何かのような扱い方で、この男の話題が頻繁に登場していたせいもあった。

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