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「まさか」
日美香はようやく言った。喉《のど》が妙に渇いていた。
「この事件が計画的なものだったと……?」
達川は頷《うなず》いた。
「その可能性もあるのではないかという気がしてきた。犯人が未成年で、しかも、すぐに自首してきたということで、警察もこの事件に関して、あまり突っ込んだ捜査はしてないんじゃないかと思ったんだ。
それに、矢部の生まれ故郷も長野県の日の本村であるということがなんとなく引っ掛かった……」
「犯人も日の本村の出身だったのですか?」
「ああ。ただし、『くらはし』に住み込む前に母親と住んでいたのは、群馬の桐生ということになっていたが……」
達川はそう言った。
この古い事件に興味をもった達川は、まず、既に刑期を終えて郷里に帰ったとされていた矢部稔から詳しい話を聞くために、当時、矢部の母親が住んでいたという群馬県の桐生を訪ねたのだという。
「でも、そこには矢部も矢部の母親も既にいなかった。近隣の人に話を聞いてみたら、矢部の母親は、あの事件のあと、すぐに引っ越してしまったのだそうだ。犯人が少年ということで匿名《とくめい》報道だったんだが、矢部の母親の存在を嗅《か》ぎ付けたマスコミの取材や何かで、いたたまれなくなったんだろうな。聞くところによると、矢部の母親は長野県の日の本村の出身で、桐生に来たのも、あの事件が起きるほんの半年ほど前だったというんだ。それまでは日の本村に住んでいたらしい。
おそらく、出所した矢部稔も、母親が住む日の本村に帰ったものと思われた。それで、俺は日の本村に行ってみることにした。そこに行けば、倉橋日登美にも会えるかもしれないと思ったし。
しかし、結局、倉橋日登美にも矢部稔にも会うことはできなかった……」
達川は続けた。
「宿泊した日の本寺の住職の話では、倉橋日登美が村にいたのはほんの半年足らずの間だったそうだ。昭和五十三年の三月末頃、一人で村を出たということだった。あそこの住職は蕎麦《そば》打ちの名人だそうで、彼女は、昼になると、住職が打つ蕎麦を食べによくきていたらしい。その日も、いつもと同じように、彼女はやってきた。ちょうど、真鍋伊知郎から本が届いていたので渡したのだという。彼女はその本を持って、それっきり姿を消したというのだ。おそらく、寺を出たあと、身を寄せていた宮司の家には戻らず、そのままバスに乗って長野市まで出たのだろう。
全くの普段着で、しかも、小さなハンドバッグのようなものしか持っていなかったので、住職もまさか、あのまま村を出てしまうとは夢にも思わなかったというんだ……」
そういうことだったのか。
日美香は思った。
昭和五十三年の春、母は届いたばかりの真鍋の本だけを持って村を出たのだ。だから、母の遺品の中にはあの本しかなかった。そして、その本は、それから二十年もの間、葛原八重の手元に保管され、そして、あの突然の事故死によって、ようやく日美香の目に触れたというわけだった。
「母はどうして村を出たのでしょうか? しかも、そんな着のみ着のままの格好で」
日美香がそう尋ねると、達川はかぶりを振った。
「俺もそれを聞いてみたんだが、住職も分からないということだった。最初からその気はなく、ふと気まぐれで思い立ったことなのか、それとも、村を出る決意は宮司の家を出たときから持っていて、その計画を悟られないようにするために、あえて普段のままの格好で何も持たずに出たのか……。
それすらも分からないということだった。宮司をしている彼女の兄という人物にも会って聞いてみたが、こちらの返事も全く同じだった。
しかも、彼女は村を出たあと、全くなんの連絡もよこさず、今も生きているのか死んでいるのかさえ分からないという返事だった。
それで、俺は彼女に娘がいたことを思い出して聞いてみた。確か春菜といって、当時三歳だったはずだ。一人で村を出たということは、この幼い娘はどうしたんだろうと思った。残して行ったのかと思ったからだ。
ところが、宮司の返事は……」
達川の目に奇妙な表情が浮かんだ。
「その娘なら死んだというのだ。昭和五十二年の十一月、あの大神祭で一夜日女《ひとよひるめ》をつとめたあと、潔斎の期間に、風邪《かぜ》をこじらせて肺炎を引き起こしたということだった」
「潔斎……?」
「これは、ふつうの日女が一夜日女をつとめることになった場合、祭りまでの一カ月と、祭りが終わったあとの一カ月を、大日女という老|巫女《みこ》の住まいで過ごすことを言うのだそうだ。ただ、この春菜という幼女の場合、かなり特殊な事情で一夜日女に決まったということで、前の方の潔斎はしなかったらしいのだが、後の潔斎はしたというのだ。その期間中に病気で死んだという話だった。
宮司が言うには、妹が村を出た理由はさっぱり分からないが、もしかしたら、この幼い娘の病死がなんらかの影響を及ぼしたのかもしれないということだった。
倉橋日登美に関しては、これ以上のことは何も得られなかった。
まあ、あんたの話からすれば、彼女は村を出たあと、そのまま東京に出て、新宿のバーに勤めたってことになるな。そして、翌年、あんたを生み落として亡くなったわけだ。そうと分かってみれば、村を出たあと音信が途絶えてしまったというのも当然といえば当然の話だが……」
「それで、その犯人の矢部という人は……?」
日美香が聞くと、何やら考えこむような表情をしていた達川ははっと顔をあげた。
「……やつのことも宮司に聞いてみたが、どうも、このあたりから宮司の機嫌《きげん》が悪くなってしまってな、忙しいから帰れとけんもほろろに追い返しやがった。あの宮司もなかなかどうして一筋縄ではいかない男のようだ。新庄貴明のすぐ下の弟だという話だが……。
ただ、宮司の妻から、こっそり、矢部稔の情報をすこし得ることができた。矢部はやはりあの村に帰ってきているようだった。母親とともに、村長の家に身を寄せているというのだ」
「村長の家に?」
「ああ。なんでも、矢部の母親というのは、旧姓を太田といって、村長の実の妹だと言う話だった。つまり矢部稔は、あそこの村長の甥《おい》にあたるんだよ……」