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ようやくバスが終点の停留所に着いた頃には、あたりには既に夕暮れの気配が迫っていた。
バスは、日美香ともう一人の中年女性を降ろすと、元来た道を砂煙をたてて戻って行った。
「……日の本寺に行くにはこの道でいいんでしょうか」
日美香は、先に降りた中年女に声をかけた。
達川の話では、バス停から続く一本道をまっすぐ行けば、そのうち鳥居が見えてくる、その鳥居をくぐり、参道をしばらく行って、三叉路で右手に曲がれば日の本寺だと教えられていたが、一応、念のために地元の人に聞いておこうと思ったのである。
それに、この中年女がバスを降りたあとも、日美香の存在がよほど気になるらしく、相変わらずちらちらと視線を投げかけてくるので、どうも落ち着かず、いっそ話しかけてしまえと思ったのだ。
「お寺さんなら……」
女は、身振りをまじえて寺への道を説明してくれた。その間も、日美香の顔をじっと食い入るように見ていた。
日美香は礼を言うと、女よりも先にたって足早に歩き出した。背中に女の視線をなんとなく感じながら。
両脇《りようわき》に背の高い草の生い茂った田舎道をしばらく歩いて行くと、やがて、古びた両部鳥居が見えてきた。
その向こうには、見上げるような杉の参道が続いている。
鳥居の前に立つと、奇妙な感覚に襲われた。
既視感、とでもいうのだろうか。これと同じ風景の中に自分は前にもいたことがある。
そんなめまいにも似た感覚だった。
初めて見る風景のはずなのに、妙に懐かしかった。
まるで大蛇が巻き付いているように見える異様な形の大しめ縄を張った、半ば朽ちかけた鳥居をくぐり、杉の参道を歩いて行くと、三つ叉《また》の道に出た。
そこを右に曲がると、日の本寺に行き着くらしい。
日の本寺には前日に、電話を入れて、宿泊の予約はしてあった。電話番号も達川から聞いておいたのである。むろん、「葛原日美香」と名乗っただけで、倉橋日登美の娘であることは打ち明けなかった。
ようやく寺の門らしきものが見えてきた。それをくぐり、境内に入ると、藍色《あいいろ》の作務衣《さむえ》を着た、八十年配の老|僧侶《そうりよ》が庭木の手入れをしていた。
日美香に気が付くと、庭バサミをもつ手を止め、老人は、何度も目をしばたたかせ、自分の目を疑うような顔をした。
「ご住職さんですか」
日美香がにこやかに笑みをたたえて、そう問いかけると、老人はあっけに取られたような表情のまま、頷《うなず》いた。
日美香が名乗ると、老人は、「ああ、あなたが……」と口の中でもごもご言った。
むろん、住職が何に驚いているのか、日美香には、十分すぎるほど分かっていた。
住職はややうろたえたような様子を見せながらも、今夜の宿泊場所である寺の空き室に日美香を案内した。
それは、四畳半ほどの狭い和室だった。
ボストンバッグをおろして、窓から見える庭をぼんやりと見ていると、老女が茶菓の盆を持って入ってきた。
住職の妻と名乗る老女もまた、日美香を見ると、驚いたような表情を見せた。しかし、観光客相手の世間話めいたことしか口にはせず、宿帳のようなものに、住所と名前を書くことを求められた。
やがて、この老女が出て行くと、すれ違いに、さきほどの住職がまた入ってきた。
あらためて挨拶してから、日美香は、ボストンバッグの中から、持参してきた真鍋伊知郎の本を取り出して、住職の前に置いた。
「この本をご存じですよね」
本を手に取り、中を開いていた住職は、弾かれたように顔をあげた。その深い皺《しわ》に刻まれた顔には、ひどくびっくりしたような表情が張り付いていた。
「ど、どうして、これを……」
「実は……」
日美香は、その本が自分の手に渡るまでのいきさつをかいつまんで話した。
「…………」
話を聞き終わったあとも、住職はしばらく声が出ないという顔つきで、日美香の顔を穴があくほど見つめていた。
「……それでは、あなたが日登美様の……?」
ようやくそれだけ言った。
「娘です」
日美香は、住職の目をまっすぐ見つめて言った。
倉橋日登美とのつながりを隠すつもりはなかった。たとえ隠したところで、これほど似ていれば、隠し通せるはずもないだろう。それに、全くの観光客として接するよりも、倉橋日登美の娘として接した方が、村の人々が心を開いて話してくれるようにも思えたからだ。
「……そうだったんですか。日登美様はここを出たあと……」
住職は、一冊の自費出版本が取り持つ奇縁ともいうべきものに感じ入ったのか、手の中にある古びた本を愛《いと》しそうに撫《な》でさすりながら、意味不明の独り言をつぶやいていた。
「母が村を出る直前にこのお寺に訪ねてきたということですが……」
日美香がそう言うと、住職は大きく頷いた。
「そうでした。二十年もたったのに、あの日のことは昨日のことのように覚えていますよ。日登美様は私の打つ蕎麦《そば》をたいそうお気に召してくれて、昼時にはよくみえました。あの日もいつもと同じように……」
蕎麦を食べにきた倉橋日登美に、ちょうど真鍋から届いたばかりだった本を渡したのだという。
そのときの日登美の様子はふだんと全く変わりなく、帰りぎわも、「また明日」と言い残して出て行ったというのである。
しかし、その明日は来なかった。その夜、宮司宅から日登美がまだ帰ってこないという連絡を受けて、はじめて、住職は彼女があのまま失踪《しつそう》したことを知ったのだという。
「……さきほど、あなたが境内に入ってこられたときは、一瞬、我が目を疑いましたよ。まるで、二十年の歳月を飛び越えて、日登美様が若い頃のままのお姿で戻ってこられたのではないかと……。思えば、不思議なご縁でございます。日登美様がはじめてこの寺にみえたときも、わたしはこれと全く同じ経験をしたのですからなあ……」
住職はしみじみとした声で言った。
「同じ経験といいますと……?」
「あの方のお母様と間違えそうになったのですよ。緋佐子様とおっしゃって……」
住職は、日登美の母にあたる緋佐子もまた、若い頃に失踪するような形で村を出た話をしてくれた。
緋佐子もまた蕎麦好きで、昼にはきまって日の本寺を訪れていたという。そして、失踪する直前に、やはりこの寺を訪れていたらしい。奇しくも、倉橋日登美は、まるで実母の運命をなぞるように同じことをしたということだった。
「……母が村を出た理由をご存じありませんか。まさか、祖母のときのように、誰か男性と……?」
日美香はそう聞いてみた。
「いやいや、日登美様に限ってはそんなことはありません。緋佐子様のときと違って、日登美様が村を出た理由はわたしにもさっぱり分からないのです……」
住職はそう答えたが、口調には、なんとなく奥歯にものがはさまったような歯切れの悪さがあった。
「母には、春菜という名前の幼い娘がいたと聞きましたが……?」
日登美が聞くと、住職の顔ににわかに動揺の色が見えた。
「春菜様なら……亡くなりました」
ややためらったあと、住職はそう答えた。これも真鍋や達川から聞いた話と同じだった。二十年前、一夜日女《ひとよひるめ》をつとめたあと、潔斎の期間に、ふとした風邪《かぜ》をこじらせて、あっけなく他界したのだという。
「もしかしたら、日登美様が村を出られた理由は、春菜様を亡くされたことにあったのかもしれませんな。しばらくは、お食事も喉《のど》に通らないほど沈んでおられたようですから……」
住職は沈鬱《ちんうつ》な面持ちでそう付け加えた。
「でも、村を出たとき、母のおなかの中には既にわたしがいたはずです。母もそのことに気づいていたはずです。それなのにどうして、親戚《しんせき》のいるこの村ではなく、頼る者もいない東京に出て、わたしを生もうとしたのでしょうか?」
日美香は詰め寄るような口調で言った。目の前の老住職が必死で何かを隠しているような気がしてならなかった。
「いや、それは、なんとも……」
住職は返答に窮したように黙ってしまった。
「ひょっとして、母が村を出たのは、わたしの父に何か関係があるのではありませんか」
日美香はさらに聞いた。
「あなたのお父上……?」
住職の皺に埋まった目に奇妙な光りが宿った。
「聞くところによると、この村では、日女は、その年の大神祭で三人衆をつとめた青年の中からしか、恋愛相手を選ぶことができないそうですね? もしかして、母はその三人衆以外の男性と……」
そう言いかけると、住職は、まるめた頭を横に振り、きっぱりと言った。
「いいえ、それはございません」
「それなら、わたしの父は、その三人衆の中にいるということですね」
日美香が畳み込むように言うと、住職は、しばらく返事をせず、何か思案するように、膝《ひざ》の上に置いた自分の手をじっと見ていたが、やがて顔をあげ、
「お父上のことがそんなにお知りになりたいのですか」と聞いた。
日美香は、一瞬、え? と思った。
何か教えてくれるというのだろうか。
「ええ、知りたいです。そのためにこの村に来たのですから」
そう答えると、住職はおもむろに立ち上がった。
「それでは、こちらに……」
ついてこいという身振りをして、先に立って部屋を出て行った。
日美香も慌てて立ち上がると、住職の後を追った。
住職は履物をはいて、いったん外に出ると、境内を横切り、本堂の脇《わき》にある古びたお堂まで日美香を案内した。
そして、お堂の観音扉の錠前をはずすと、その扉を音をたてて左右に開いた。
日美香は、住職が何をするつもりなのかと、息を詰めるようにして、住職の背後に立っていた。
住職は、お堂の中に入ると、祭壇の灯明《とうみよう》に火を入れた。
そして、日美香の方を振り向くと、蝋燭《ろうそく》の明かりに照らし出されたお堂の奥の方を片手で示しながら、恭しく、こう言った。
「あなたのお父上はここにおられます……」