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蛇神2-6-7
日期:2019-03-24 22:48  点击:442
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 その喫茶店の扉を開けると、日美香は素早く店内を見渡した。
 休日ともなると、さほど広くもない店内は客でいっぱいだった。しかし、新田佑介の姿はなかった。まだ来ていないようだ。
 日美香は一つだけ空いていた窓際のテーブルについた。テーブルの上には、前の客が残していった空のコーヒーカップがそのままになっている。
 この喫茶店に来たのは二カ月ぶりだった。前に来たときは四月の末頃で、店内にはまだ暖房が効いていた。それが今は冷房に切り替わり、店内の飾り付けも初夏らしいものに変わっていた。
 しかし……。
 この二カ月で一番変わってしまったのは、日美香自身だっただろう。
 たった二カ月前のことが、遠い昔のように思えた。
 テーブルを片付けにきたウエイトレスが注文を聞いて立ち去ると、日美香はバッグからシルバーグレイの小箱を取り出した。それをテーブルの上に載せた。そっと蓋《ふた》を開けてみる。
 前にはあれほど輝いてみえた小粒のダイヤは少し輝きを失ったように見えた。まるで、ガラスのまがい物にすりかわってしまったように……。
 今日ここに来たのは、新田佑介にこれを返すためだった。日の本村に三日ほど滞在して東京に帰ってきたとき、既にその決心がついていた。
 それで、すぐに連絡を取ろうとしたのだが、あいにく、佑介は会社から命じられてデトロイトにある支社に一カ月ほどの予定で出張したと佑介の母親から知らされた。
 その間、佑介からマンションの方に二度ほど電話がはいったが、国際電話ということで、あまり長くは話せなかったし、まして、電話で済ますような話でもなかったので、彼が帰国するまで待つことにしたのである。
 日の本村であったことを佑介は知りたがったが、日美香は何も話さなかった。実父のことも、結局、調べてみたが分からずじまいだったとしか報告していなかった。
 佑介はほっとしたようだった。
 ただ、伯父にあたる日の本神社の宮司から養女にしたいという話があり、それを受けることにしたということだけは伝えておいた。
 すると、佑介は意外にもそのことを喜んでくれた。実は、親戚《しんせき》の中には、日美香が私生児であることを知ってとやかく言う者も少なくなかったというのである。
 戸籍の上だけでも両親がそろっていることになれば、かれらももはや反対はしないだろうと晴れ晴れとした声で言った。
 どうやら、これで自分たちの結婚を妨げていた唯一の障害が取り除かれたと佑介は思い込んだらしかった。
 昨夜の電話でも、「話したいことがあるから会いたい」としか言わなかったから、まさか、エンゲージリングを返すために呼び出されたとは夢にも思っていないだろう。
 電話を切るときの彼の声は明るく弾んでいた。
 考えてみれば、この一粒のささやかなダイヤがすべてを変えてしまったのだ。
 もし、二カ月前のあの日、ここで佑介からこれを渡されなければ、八重が新田家を訪れることもなかった。そうすれば、八重があのような形で急死することもなかっただろう。そして、その結果、日美香が養母の遺品から実母の形見を見つけてしまうこともなかったに違いない……。
 こうなることは、もうあのときに定まっていたのかもしれない。
 日美香はふとそう思った。
 それにしても、なんという皮肉な成り行きだろう。
 前にここを訪れたとき、別れ話を切り出されるのではないかと内心脅えていた。それが今は、自分の方から別れ話をするために同じ男を待っているとは……。
 新田佑介を嫌いになったわけではなかった。二カ月前に比べると少し気持ちは冷めていたが、けっして嫌いになったわけではなかった。むしろ、今ここで別れることは、日美香の中にわずかに残っていた彼への愛情の証しでもあるのだ。
 日美香はあの不思議な夢を見てから、日女《ひるめ》として生きることを決心していた。ただ、日女として生きるといっても、母や祖母のような生き方をするというのではなかった。
 大神のお印をもった日子でもある日美香には、ただの日女でしかなかった母たちとは全く違った宿命が待ちうけているはずだった。
 それがどんなものなのか、具体的にはまだ見当もつかなかったが、一つだけはっきりしていることがある。
 その道はけっして新田佑介と共に歩む道ではないということだった。
 もし、佑介があの村で今もなお密《ひそ》かに行われていることを知れば、おそらく黙ってはいないだろう。あの元週刊誌記者のように……。
 そこまで考え、日美香の形の良い眉《まゆ》が僅《わず》かに曇った。
 三日前の新聞に載っていたある小さな記事を思い出したからだった。
 それは自宅マンションのベランダから墜落死したという中年男の記事だった。男の名前は達川正輝。四十一歳。
 事件のあった夜、達川の部屋から数人の若い男たちが出てくるのを目撃したという隣人の証言があったことから、他殺の線も考慮にいれて、もっか捜査中であると書かれていた。
 日美香は、達川の墜落死の真相に薄々気が付いていた。おそらく、この件にも日の本村の男たちがかかわっているのではないか、と。
 なぜなら、達川が日の本村の秘密に感づいており、何らかの形で、新庄貴明が総理になることを阻止しようとしているということを、神聖二に教えたのは日美香自身だったのだから……。
 日の本村で神聖二から事の真相をすべて聞かされたとき、日美香の前には選択すべき二つの道が提示されていた。
 それは全く正反対の道だった。
 一方は、神聖二を含む日の本村の男たちを犯罪者として告発する道であり、もう一つは、物部の末裔《まつえい》として、彼らと同じ夢を実現するために共に歩むという道だった。
 結局、日美香は後者を選んだ。
 彼女の中で目覚めた物部の血がそうさせたのだ。
 それは、葛原日美香という古い殻を完全に脱ぎ捨て、神日美香という新しい女に生まれ変わった瞬間でもあった。
 もし、このまま新田佑介との付き合いを続けていれば、今度は佑介が達川の二の舞いになることは目に見えていた。
 そうならないためには、佑介は何も知らない方がいいのだ。何も知らないまま、ここで自分と別れた方が彼のためなのだ。
 いずれ、彼は彼にふさわしい伴侶《はんりよ》を見つけ、彼の人生を歩んでいくだろう。
 日美香はそう思っていた。
 こうすることが、一度は愛した男への、自分なりの最後の愛情の示し方なのだと……。
 そのとき……。
 喫茶店の扉につけられた鈴がちゃらんと鳴った。
 誰かが入ってきたようだ。
 日美香は入り口の方を見た。
 新田佑介だった。
 佑介はきょろきょろと店内を見回し、窓際の席に日美香の姿を見つけると、片手をあげ、子供のような笑顔を見せた。

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