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同日。
M*ホテルの手前でタクシーを降りた喜屋武蛍子《きやんけいこ》は、容赦なく照りつける夏の日差しを避けるように、足早に歩いて、都心でも一際目立つ高層シティホテルのエントランスをくぐった。
ガラス扉を押してはいると、ホテルの中は、外の暑さがまるで嘘《うそ》のような涼しさだった。広々としたロビーを見渡していると、ガラス越しに中庭が見える喫茶コーナーらしきところで、沢地逸子が、「ここよ」というように片手をあげていた。
蛍子は沢地に駆け寄るように近づいた。
「遅れて申し訳ありません」
約束の午後三時をとうに過ぎている。そのことを詫《わ》びると、
「あらいいのよ。こちらこそ、土曜だというのに呼び出したりしてごめんなさいね。彼氏とのデート、キャンセルさせてしまったんじゃない?」
と、沢地は笑いながら言った。
喜屋武蛍子は、泉書房という、神田|神保町《じんぼうちよう》にある、中堅どころの出版社の編集部に勤めている。
一方、沢地逸子は某私立大学文学部の助教授で、英米文学の翻訳家でもあった。以前に、イギリスの女流作家の小説の翻訳を沢地に依頼したことがあり、それ以来の縁だった。
昨夜、その沢地から自宅の方に突然電話がかかってきて、「相談したいことがあるので、今滞在しているM*ホテルまで来て貰《もら》えないか」と言われたのである。
沢地逸子は、四十三歳になるがまだ独身で、成城の自宅に老母と暮らしていたが、その自宅を改築中とかで、工事が終わるまで、ホテル住まいをしているらしかった。
「それで、ご相談というのは……?」
注文を聞きにきたボーイにアイスコーヒーを頼んだあと、しばらく世間話などをしてから、ようやく蛍子はそう訊《たず》ねた。
「実は、一年くらい前から、ゼミの子たちとホームページを開設して、そこにエッセイのようなものを書いていたんだけれど……」
そのホームページに載せたエッセイがある程度たまったら、一冊の単行本にしたいのだという。その本を泉書房から出して貰えないかというのである。
それを聞いて、蛍子は思わず身を乗り出した。それはまさに願ってもない話だった。沢地逸子といえば、今や、本業よりも、フェミニズムの活動家として知られており、数年前に、テレビの討論番組に顔を出すようになってから、歯に衣《きぬ》着せぬズバズバとした物言いが大衆(とりわけ女性)受けしたのか、妙な人気が出て、その名前と顔は急速に世間に知れ渡るようになっていた。
そのせいか、泉書房で出した翻訳小説の方は、原作者の知名度がイマイチということもあって、売れ行きはそこそこといったところだったが、その後に大手出版社から出したエッセイ集の方は、いずれもベストセラーになっている。
「……わたしのエッセイ以外にも、掲示板にアクセスしてきた人たちの意見や悩みごとなども一緒に収録したら面白いんじゃないかと思うのよ。つまり、ホームページ全体を本にしてしまうわけ。そうすれば、インターネットになじみのない人たちにも広く読んで貰えるし……」
沢地はそう続けた。
作家や著名人が自分のホームページを単行本化するという試みは既に行われており、別に珍しくもなかったが、蛍子が編集者としてそれを手掛けるのははじめてだった。沢地の話を聞いているうちに、やってみたいという好奇心がまず首をもたげた。
それに、これまでは、地味めの学術書や翻訳本などを多く手掛け、良心的な出版社として、その道の人たちには高い評価と信用を得てきた泉書房だったが、昨年、創設者でもあった前社長の泉光之輔が亡くなり、その長男が社長の座におさまってからは、経営方針にやや異変が生じていた。新社長の関心は「良書」よりも「売れる本」を出すことにあるようだった。
しかも、新社長の意向とは別に、昨今の活字離れ現象や、出版界をも襲った深刻な不況という逆風の中でなんとか生き残って行くためには、良書しか出さないという、これまでの信念を多少曲げてでも、一冊でも多く売れる本を出す必要に迫られていることは、編集サイドにいる蛍子も日々痛感していることではあった。
沢地逸子の知名度からすれば、たとえベストセラーとまでいかなくても、それに近い数字は出せるはずだった。
沢地が口にした企画は、まさに、泉書房の方から申し出たいような話だったのである。編集会議にかけるまでもなく、この企画はスンナリ通るだろう。蛍子はそう踏んだ。
「さっそく編集会議にかけてみます。わたしの一存ではすぐにはお返事できませんが、たぶん、大丈夫だと思います。それで、先生のホームページをまだ拝見してないんで、アドレスを教えて戴《いただ》きたいのですが」
この話はもう決まったようなものだとは思いながらも、とりあえずそう言うと、沢地逸子は、「ホームページのアドレスなら後でメールで送る」と答えた。
「それでしたら……」
蛍子は、ビジネスバッグから取り出しかけた手帳の代わりに、名刺を出すと、その裏にプライベートのメールアドレスを走り書きした。名刺にもメールアドレスが刷り込まれていたが、それは、会社用のものだった。
「こちらのアドレスにメールしていただけませんか。自宅用になっていますので」
そう言って、名刺を沢地に渡すと、彼女はそれをちらと見ていたが、「わかった」というように頷《うなず》いた。
「ところで……喜屋武さん」
蛍子が筆記具をビジネスバッグにしまっていると、ふいに、沢地逸子が言った。
「あなた、確か、沖縄の出身だったわよね?」
「え? はい」
上京して十三年になるが、初対面の人に名を名乗ると、必ずと言っていいほど、「沖縄の人?」と聞かれた。「喜屋武」という特殊な名字のためだった。
別に沖縄出身だと知られることが嫌なわけではなかった。それなりの郷土愛のようなものは胸に秘めている。ただ、時々、少し煩わしいなと思うことはあった。たとえば、「鈴木」とか「佐藤」と名乗っても、だれも名前だけでその出身地までは推測できないだろう。でも、「喜屋武」と名乗っただけで、殆《ほとん》ど反射的に「沖縄の人?」と聞かれるのだ。
「沖縄の人?」と訊ねる相手の目が、被害妄想と言われるかもしれないが、まるで、外国人でも見るような好奇の色を湛《たた》えているような気がすることもあった。そんなとき、沖縄はまだ日本ではないのだろうか、とふと思うことがあった。
もっとも、多少の煩わしさはあったものの、この名字のおかげで、全く初対面の人でも、「沖縄」という話題を得て、話が弾み、すぐに打ち解けあえたこともあるので、けっこう恩恵も受けてはいたのだが。
そういえば、沢地逸子もその一人だった。最初に名刺を渡したとき、やはり、「沖縄の人?」と聞かれ、そのあと、初対面だったにもかかわらず、「沖縄」の話で盛り上がった。彼女はとりわけ沖縄に興味をもっているようだった。
「玉城村《たまぐすくむら》だったわよね?」
沢地はなおも言った。
蛍子は頷いた。
玉城村は、沖縄南東部の、「ぐすくと水の里」とも呼ばれる古い村で、ハイビスカスとエメラルドグリーンの海が広がる、いかにも沖縄らしい観光地としても名高い。
「ぐすく」とは、沖縄の方言で、「城」のことを言う。その名の通り、「ミントングスク跡」とか、「玉城城跡」などの、古い城跡が多く、観光名所にもなっている。
蛍子はその村に生まれ、高校を卒業するまでそこで育った。
「あそこには、アマミク伝説があったんじゃなかったかしら?」
沢地は、単なる世間話というには、興味しんしんという顔つきで言った。
沢地の言う通りだった。
アマミクはアマミキヨとも言われ、琉球《りゆうきゆう》神話に出てくる女神で、この女神が、ニライカナイ(海のはるか向こうの意)から、稲作と火を琉球にもたらしたという伝説があり、いわば、琉球の祖と言われている。
玉城村には、このアマミク伝説にまつわる名所が数多くある。ヤハラヅカサの海岸は、アマミクが最初にニライカナイから「降臨」した場所と言われ、今もなお、石塔と香炉が浜辺に供えられている。
また、浜川御嶽《ハマガーウタキ》は、アマミクがヤハラヅカサの海岸に上陸したあと、仮住まいをした場所として聖地の一つになっているし、ミントングスクは、アマミクが、ここで男神シネリキヨと暮らし、三男二女をもうけた城であるとされている。このアマミクとシネリキヨの子供たちが、後に、琉球の国王や神女《のろ》の祖になったのだという。
さらに、受水走水《ウケンジユハインジユ》と呼ばれる古木の茂った森林の中にある泉に面した土地は、アマミクが伝えたという稲作の発祥地とされている。
つまり、玉城村の殆どの観光名所は、この女神アマミクの神話にまつわる場所なのである。沖縄におけるアマミクとは、ちょうど日本神話のイザナミノミコトとアマテラスを足して二で割ったような大女神とも言うべき存在だった。
邪馬台国《やまたいこく》は沖縄にあったという(珍)説を唱える古代史研究家の中には、このアマミクこそが、あの魏志倭人伝《ぎしわじんでん》に記されている、邪馬台国の女王、卑弥呼《ひみこ》だったのではないかという人もいるくらいである。
この程度のことは、沖縄を紹介した観光案内の本に載っていることかもしれないが、蛍子が話すと、沢地逸子は、よほど興味があるらしく、熱心に相槌《あいづち》を打ちながら聞いていたが、ふと思いついたというように、
「沖縄では、今でも神事は女性たちだけで行われているって話を聞いたんだけれど、それは本当なの?」
と言い出した。
「それは……」
そうともいえるし、そうではないとも言える、と蛍子は思った。一口に、「神事」や「祭り」といっても、地域によって、実に様々な種類がある。古くから伝わる祭りもあれば、比較的新しい祭りもある。むろん、それらの全部が女性たちによって行われているわけではない。男性が中心になって執り行われる祭りも少なくない。
ただ、アマミク伝説にもみられるように、琉球の祖神は女神とされており、そのためか、古くから女性が神事の中心になってきたことは事実だった。
これは、中世にいたって、琉球王朝が神女団という国家的組織を作って、神女たちに高い地位と権力を与えたことによって、「沖縄では神事はすべて女性が司る」という印象をさらに強めたともいえた。
「たとえば、イザイホーは? 今でもイザイホーという神事は行われているの?」
沢地はなおも聞いた。
イザイホーというのは、古くから霊場として名高い久高島《くだかじま》で、十二年に一度、午《うま》の日に行われる神事のことである。三十歳以上の神女たちだけが集まって、祭りは四日間続けられる。それは、初日の「夕神遊び」という、夕方に神女たちが七つ橋という橋を七回渡る儀式からはじまって、最後の日には、「アリクヤの綱引き」という綱引きをして終わる。
いわば、イザイホーは、神女が神女となるための洗礼の儀式なのである。
この祭りの中心的な祭祀場《さいしじよう》である、斎場御嶽《セーフアーウタキ》は、かつては男子禁制の霊場中の霊場で、琉球国王といえども、第一の石段までしか参詣《さんけい》することは許されなかったという。
しかし、そのイザイホーも、今では、自然消滅という形に向かっている。1990年は、結局、神女がたたず、行われなかったし、次は、2002年だが、これもおそらく難しいだろうと言われている。
もともと、神女は家系によって、久高系、外間系と決まっており、神女の役は、父がたの伯母《おば》(叔母《おば》)から姪《めい》へ、あるいは、母から娘へ、あるいは姑《しゆうとめ》から嫁へと、女系によって受け継がれている。その神女の数が年を経るごとに櫛《くし》の歯が欠けるように少なくなっていっているのだ。神女がいなければ、神女の洗礼儀式であるイザイホーも成り立たない。
沖縄は「日本のひな型」とも言われ、沖縄の文化には、古代の日本の姿がそのまま残っていると言う人もいるが、実際には、その古い文化も次第に風化しているというのが現実だった。
そのことを言うと、沢地逸子は、「そう。せっかく古くから伝わる貴重なものなのに、残念ねえ」とため息混じりに漏らした。
蛍子もその意見には一応頷いたが、地元の人たちは、本土の人間が思うほど、古い風習や神事がなくなることを残念だとは思ってはいないようだ。わりと淡々と受け止めている。むしろ、こうした古いものがなくなっていくことを嘆き、その風化を阻止しようとしているのは、沖縄文化に興味をもった本土の人たちの方だった。
実際、玉城村にも、そうした古い文化に興味をもつ作家や音楽家などの「文化人」が本土から続々と移り住んできているようだ。
どうやら、都会に暮らし、時代の先端を突っ走っている人ほど、常に新しいものを追い求めている反動なのか、あるいは、新しいものを求めれば求めるほど、結局は古いものに行き着くということなのか、そういう傾向があるようだった。
それはちょうど、日本古来の文化が失われていくのを嘆くのは、当の日本人よりもむしろ日本文化に興味をもつ欧米の文化人の方であるという現象にどこか似ている。
沖縄が「日本のひな型」というのは、確かにそうかもしれない。本土と沖縄の関係は、そのまま、欧米のいわゆる先進国と日本との関係に置き換えることができるのかもしれない。蛍子は沢地逸子と話しながら、ふとそんなことを思っていた。