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蛇神3-2-1
日期:2019-03-25 22:43  点击:328
  原始、女性は月だった
 
 ギリシャ神話では、最古の月の女神エウリュノメが月の蛇(宇宙蛇)オピオンと交わって銀の卵を生み、この卵から、太陽や遊星、他の星たちが生まれたとある。
 このように、まず月があって、そこから太陽が生まれたとする神話は、太陰暦の祖、古代バビロニアにも見られる。また、アメリカのインディアンたちの間に伝わる伝説にも、「昔、月が天界の首長だったが、月の家にこっそり忍び込んだキツネとカケスが、そこで火の道具と太陽を見つけ、それを盗み出して持ち帰った。こうして人々に太陽と火が与えられた」とか、南米の伝説では、「昔は、月はあったが、太陽はなく、世界は暗かった。人間は寒くてたまらず、月に訴えると、月は、犠牲を要求した。ナナワトルという人間が燃え盛る薪の山に投げ入れられると、月もその火の中に飛び込んだ。すると、東の空に太陽が現れた」とある。
 また、アフリカのケニアに伝わる神話には、「神ははじめに月を作り、次に太陽を作った。はじめは月の方が太陽よりも大きく明るかった。太陽はこれをねたんで月を攻撃した。太陽は負けて月に許しを請うた。それから、二人はまた格闘して、今度は月が放り投げられ、泥がついて明るくなくなった。神が仲介して、それからは太陽の方が明るくなった」とある。
 これらの神話は、古代人の信仰の変遷を如実に物語っているように見える。太古の人々は、最も身近にある天体として、まず月を信仰し、その次に太陽を信仰したようである。まだ火を使いこなすことを知らなかった人々にとって、夜の闇《やみ》に光明を与えてくれる月の存在は、昼間の太陽よりも有り難いものだったに違いない。
 また、満ち欠けを繰り返して生き続ける月の姿を、不老不死の存在と崇めたのも当然だった。ちなみに、「月ではウサギが餅《もち》をついている」という言い伝えは、「月ではウサギが不死の薬をついている」という話が間違って伝えられたものだという。「望月」の「もち」を「餅」と勘違いしてしまったというのである。
 しかも、月は、人々に多くのことを教えてくれた。日を数えることや潮の満ち引きやその時刻を。そして、この月を司ることができたのは女たちだけだった。というのは、女性の体から流れるあの不思議な血が、月の運行と深くかかわっていたからである。古代人(とくに男たち)にとって、赤い血とは死や病気や怪我《けが》といった災厄の信号だった。赤い血が体から流れるとき、そこには危険と苦しみが常につきまとったからである。
 ところが、女たちだけが一定の期間だけ流すあの不思議な血には、死でも怪我でも病気でもなく、むしろ生命をもたらす働きがあった。そのことに気づいた人々は、女性の経血を「月によってもたらされた神聖な血」と認識するようになった。女性の経血には月を不老不死にしている超自然的な魔力が秘められていると考えたのである。
 こうして、大地の豊饒《ほうじよう》を司る太母神への信仰とも重なって、月、女性、経血を崇める女神信仰が形づくられていった。そして、さらに、これに蛇への信仰がくわわった。脱皮を繰り返して生き続ける(ように見える)蛇の不老不死性が、月同様、古代の人々に畏怖《いふ》の念を与え神聖視されたのである。
 ブラジルの神話では、「神は天に太陽を、地中に月を作り、半日ずつ地下と地上を巡回させた」とある。月は地中に作られたというのである。これは、月が大地と深くかかわり、地中に住む蛇と同一視されていたことを物語るものではないだろうか。
 また、インドネシアの民話にはこんなものがある。「モルッカ諸島の王が血を流している竹を発見し、切ってみると、中から四匹の蛇が出てきた。この四匹の蛇が生んだ卵が後にバチャン島などの王族の祖になった」
 これは、明らかに、あの「竹取物語」を連想させるではないか。竹から(しかも血を流した竹)から出てきたのは、「月から落ちてきた天女」ではなく、「蛇」だったというのである。やはり、ここにも、月、蛇、血のかかわりを暗示するものがある……。
 かくして、蛇は、母なる女神の「最初の夫」の地位を得た。蛇は、母なる女神の聖なるペニスとなり至高のロゴスとなった。母なる女神は、蛇をその身にまとうことで、両性具有的な存在となったのである。
 この段階では、人間の男たちは全く取るに足らぬ存在だった。大地も海も月も、おそらく太陽さえも、すべて女たちが司っており、男たちはこうした祭りごとからは一切締め出しをくっていた。
 人々の生活に影響を与える主要な神はすべて女神であり、その女神を祀《まつ》るのも巫女《みこ》たちの役目だった。巫女の中で最も年取った者(こうした母権制の社会では、老婆は最高の地位に君臨していた。なぜなら、老婆とは、月の魔力を秘めたあの経血をもはや外に流すことなく体内に溜《た》め込んだ、最も賢く霊力の強い存在と思われていたからである)が巫女王となって、巫女たちを統率していた。
 あの魏志倭人伝《ぎしわじんでん》に記されている、邪馬台国《やまたいこく》の女王、「鬼道」を使って衆を惑わし、大変な高齢であったともいう「卑弥呼《ひみこ》」も、こうした巫女王の一人だったに違いない。
 老巫女への崇拝は世界の民話の中にも見ることができる。
 たとえば、ニューギニアの民話では、「昔、老女が月を壺《つぼ》に入れ、海を木の葉でくるんで自分のものにしていた。ところが、好奇心の強い小僧たちが壺の蓋《ふた》を開けてしまった。月は外に飛んでいった」とか、「月には大きなガジュマルの木があり、その下には老女が座っている。これが月の影となっている」などとある。
 これらの民話は、太古、「老女」が「月」や「海」を司っていたことを伝えている。
 これが、アジアやアフリカだけではなく、ヨーロッパを含めた地球全土に広まっていた、もっとも古層の信仰の在り方だったのである。今となっては、朝鮮半島の一部地方や、日本の沖縄で、神事は女性だけによって執り行われるという風習が僅《わず》かに残っているだけだが……。
 太古、空も海も大地も、女神たちのものであり、その女神を祀る巫女たちによってすべての神殿は守られていたのである。しかも、「月の血」を貴ぶゆえに、大事な祭事は、巫女たちの月経期間中に行われた。
 今でこそ、キリスト教においても仏教においても日本の神道においても(父性原理を掲げるあらゆる宗教において)、一部の異端とされる教派を除いては、女性の経血は「穢《けが》れ」の最たるもの、「聖なるものを穢す」として、忌み嫌われているが、太古、この経血こそが「聖なるもの」だったのである。
 ちなみに、神社の巫女などが、赤や濃紫の袴《はかま》を着用しているのは、赤はもちろん、紫という色も、「経血」を象徴する色だからであって、あれは、まだ女性が神事の主権を握っていた頃の古代信仰の名残なのである。「経血」を穢れとして恐れ、蔑《さげす》みながら、巫女の衣装に今もなお、「経血を表す」赤や紫を使っているとは、なんとも皮肉な話ではないか。
 また、男も女も、戦いの際には、「月の血」を身体に塗りたくった。赤い血の色は我が身を守り、敵を脅えさせる魔の色だったからだ。これが後に、赤い土や塗料にかわり、さらには、魔よけとして顔に紅をつける「化粧」という習慣を生み出していったのである。
 それゆえ、一部の隙《すき》もなく化粧した女性に出会ったときは、男性は気をつけなければならない。彼女の人工的な美しさにうっとりしている場合ではない。なぜなら、その女性の化粧が濃ければ濃いほど、その女性があなたに対して何らかの「闘志」を秘めて近づいてきたことは明らかであるのだから……。
 あのインド神話の軍神ともいうべき、カーリー女神——軍神などというと、男神が多いと思われるかもしれないが、世界の神話をざっと眺めてみると、意外に女神が多いのである。彼女たちは男以上の残酷さで死者の腐肉や負傷者の血を求めて戦場を狂ったように駆け巡る。こういった神話ひとつ見ても、女という生き物が今までそう信じられてきたほど平和を好む生き物だとは思えないではないか——赤く長い舌をべろりと出しているのは、舌の「赤さ」を敵に見せつけて威嚇しているのである。と同時に、あれは、まだ生き贄《にえ》の血が飲み足らぬと訴える飢えと渇きを表現する仕草でもある。
 むろん、言うまでもなく、首から骸骨《がいこつ》のネックレスをさげ、腰に蛇を巻きつけ、血に染まった肉切り包丁をふりかざす、恐ろしい形相のこの青黒い女神は、シヴァやヴィシュヌと言った男神に征服される前の、インド地方土着の蛇女神(太母神)だったのだろう。
 しかし、やがて、時は移り、太陽を至高の父と崇める他民族の侵入によって、こうした、月と蛇と血を崇める母権制の社会は音をたてて崩壊してゆくのである。
 いや、母権制社会の崩壊は、他民族の侵入以前に、その内部から、既に静かに虫食いはじめていたのかもしれない。まつりごとの一部を男にも許しはじめた頃から……。
 母なる蛇女神を体現化した巫女王は、自分の身内である男(兄弟、もしくは息子。近親婚が平然と行われていた時代には、これらの兄弟や息子は同時に巫女王の夫でもあった)に、まず王として太陽を司ることを許した。この頃はまだ、あのケニアの神話にあるように、「太陽は月ほど明るくはなかった」、つまり、さほど人々の信仰を得ておらず、月に較べれば、二次的な存在だったに違いない。だから、男にも神事への参加が許されたのだろう。
 しかも、男が神事に参加するには、男であってはならなかった。去勢され、女装して「女」とならなければならなかったのである。
 その後、去勢の蛮習はなくなっても、「女装」や「女性化」の風習は長く続いたらしく、ギリシャ神話や日本神話にもその名残が英雄伝説などに残っている。
 たとえば、リディアの女王オンパレのもとで、「女装」して糸車を回すことを強いられたヘラクレスも、叔母《おば》のヤマト姫から女の衣装をもらい、「女装」してクマソタケルを倒したというヤマトタケルの逸話も、男が神事にかかわるときは、「女装」しなければならなかったことを暗に物語っているのである。
 また、日本書紀の「神武東征」の中にも、神武《じんむ》天皇が、道臣命《みちおみのみこと》を祭りの斎主にするにあたって、「厳《いつ》媛|《ひめ》」という女性の名前を名乗るように命じる話がある。
 しかし、時代は移り、人々は火を使いこなすようになり、前ほど月の有り難みを感じなくなった。また、農耕などを知るようになり、月よりも太陽の方がその生活に直接影響を及ぼすようになった。
 つまり、人々にとって、「太陽の方が月よりも明るくなって」しまったのである。当然、太陽を司っていた男王の格も自然に上がり、それまでは女たちに完全に牛耳られていた男たちの中で、「男としての誇り」や「女たちにとってかわりたい」という野望が鎌首をもたげてきたのも必然といえば必然だった。
 男王たちがこんな野心を抱いたのも無理はなかった。かれらの野心には自らの命にかかわる切実なものがあったからだ。なぜなら、彼らが太陽を司るという「名誉職」につけたのは、自らの命と引き換えであったのだから。
 あの過激な太陽信仰で名高いアステカやインカでなぜあれほど血腥《ちなまぐさ》い生き贄の儀式(戦士や奴隷、時には王の生皮を剥《は》ぎ、心臓を抉り取り、その血とともに太陽神に捧《ささ》げた)が日常茶飯事のように繰り返されたのかといえば、それは、ひとえに太陽がそうした生き贄を捧げ続けなければ、やがてはその輝きも衰えて死んでいくものと考えられていたからだった。
 こうした生き贄を捧げ続ける限り、その血と心臓は太陽の糧となり、日々再生を繰り返して天空に輝き続け、人間たちにさまざまな恵みを与えてくれる。太古の人々はそう考えたのである。
 これは、インカやアステカの人々だけが特別にそう考えたわけではなかっただろう。我が国でも、太陽の光が最も弱まる冬至の頃に、物部氏《もののべし》によって、太陽の力を蘇《よみがえ》らせる「タマフリ」なる儀式が行われ、それが今もなお「太陽神の子孫」とされている天皇家の重要な儀式のひとつになっているのである。
 太陽を司る男王の期間ははじめから定められていた。おそらく原初は一年であっただろうと思われる。それは太陽が一度死んで再び蘇る周期であったから。男王たちは、この任期が終わると、衰えた太陽に再び命を与えるために、自らの命を差し出さなければならなかったのである。
 そして、男王にこのような供犠を強いたのは、彼らの母であり妻でもあった月と大地の蛇女神だった。
 神話の中で、「太陽と火の道具が月の家にあった」とあるのは、太古は、「月を司る者」が「太陽を司る者」を支配していたという意味なのである。

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