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蛇神3-2-2
日期:2019-03-25 22:44  点击:273
  「天の岩戸」神話の真相
 
 日本においても、太古、死にゆく太陽を蘇らせる儀式——太陽を司る王が死んで新しい王に代わることで、太陽を生き返らせる——言い換えれば、王を太陽神の生き贄とする儀式が実際に行われていたのではないだろうか。
 あの日本神話のハイライトの一つともいうべき、「天の岩戸」神話は、そうした、我々祖先の遠く冥《くら》い太古の記憶を暗に物語っているものではないか。
 弟神である須佐之男命《すさのおのみこと》の暴虐に怒った天照大神《あまてらすおおみかみ》が、天の岩戸に閉じこもってしまったために、この世は暗黒に閉ざされ、困った八百万《やおよろず》の神々の策略で、天照大神が再び岩戸から出てくるという逸話は、日食を神話化したものではないかという説が有力のようだが、あれは、太陽の力が弱まる冬至の頃に定期的に行われていた、太陽を司っていた男王の供犠的な死と新たな王の誕生を物語ったものなのではないか。
 もっとも、日食のときも、死んだ太陽を蘇らせるために、こうした王の交替儀式は当然行われただろうから、あれが日食神話ではないとは言わないが。わたしが言いたいのは、あれは日食を物語っただけの話ではあるまいということである。
 天の岩戸(洞窟《どうくつ》)とは、もちろん、太陽の母である太母神の子宮を表している。そして、この子宮とは、同時に、黄泉《よみ》の国、すなわち死の国をも表しているのである。
 エジプト神話では、太陽の運行の様をこんな神話で説明している。
「太陽神ラーは、夕方には母なる神ヌトの口に入って、ヌトの胎内を巡り、翌朝、再びヌトの子宮から血に染まって現れる」と。
 このエジプト神話におけるヌトという女神は、ネートとも呼ばれ、エジプトに王朝ができる前から、エジプト北部で信奉されていた太母神であった。
 なお、聖書では、冥界《めいかい》の神オシリスの妻とされている女神イシスと同一視されているらしい。
 ヘリオポリス神話では、ヌトは天空の神で、ラーの子供であると、親子関係が逆になっているが、これは明らかに、男性原理が優先されるようになってから、男神を女神よりも権威づけるために作られた話にすぎない。
 ちなみに、太母神には三つの顔があるといわれている。若く美しい処女の顔。生命と豊饒《ほうじよう》を司る母の顔。そして、知恵と死を司る老婆の顔である。
 つまり、冥界の女王とは、まさにこの太母神の老婆の相なのである。だから、男性原理の定着した後に作られた(あるいは作り直された)神話の中では、冥界を司るのは男神であるオシリスのように描かれているが、本来、冥界の王として君臨していたのは、女神イシスの方だったのだろう。
 それは、夫であるオシリスが兄弟神のセトに惨殺された後のイシスの精力的な活躍(世界を飛び回ってバラバラにされた夫の死体を拾い集めた等)や、太陽神ラーの真の名前を(蛇を使って)知ることができたので大女神としての地位を獲得できたというイシスの逸話から見ても明らかである。
 原初の太陽神とは、このように、母なる神を表す洞窟(子宮ないしは冥界を表す)と結び付いて表現され信仰されていた。いわば、初期の太陽神はまだ乳離れしていなかったのである。そのことが、日本神話を形作る上で、その制作者たちに、天照大神自身を女神と勘違いさせる元にもなったのかもしれない。
 そう……。
 日本神話における、太陽神が女神であるという記述は、あれは間違いなのである。いや、間違いというより、記紀制作者側の政治的な意図によって、あえて、「女神」にされてしまったのである。
 その政治的な意図とは、時の天皇であった持統《じとう》天皇の神格化、つまり、女帝であった持統天皇を、女神である天照大神と同一化させることが目的だったわけである。
 太陽神とは、強いてその性別を問うならば、陰陽思想を持ち出さなくても、男神である。
 確かに、最古層の信仰においては、太陽も女性が司り、それゆえに、太陽神も女神とみなされていたこともあったに違いない。実際、そうした古い信仰の名残のような神話、つまり太陽神が女性であるという神話は、母性原理が根強く残っている地域、東南アジアなどにあることは事実である。
 しかし、世界神話の中でそれは希少にすぎないだろうし、既に大陸から、男を陽、女を陰とする陰陽思想が入ってきていて、それが定着しはじめていた時期に、それまで「倭《わ》」と呼ばれていたちっぽけな国をお隣の中国にも負けないくらいの大国にしようと意気込んでいた当時の支配者たちとその命を受けた記紀制作者たちが、その精神的礎ともいうべき日本神話を形作る際に、わざわざマイナーな神話をモデルにしたとは思えない。
 しかも、記紀(とりわけ日本書紀)を読めば分かるように、既に男尊女卑の思想に染められている。それなのに、創造神を除けば最高神ともいうべき太陽神をあえて女性にするとは、やはり何らかの政治的意図があったとしか思えないではないか。
 もっとも、このような疑問は、既に江戸時代から様々な記紀研究家や学者たちの間から、(かなり不満そうな口ぶりで)提示されてきたことではあった。津田左右吉《つだそうきち》や折口信夫《おりくちしのぶ》もその一人であった。
 これらの研究家(とりわけ折口説として)は、本来は男神であるべき天照大神が女神とされてしまった背景には、男神である太陽神を祀っていた神妻としての巫女の存在を神にまで高めたものではないかというのである。
 というのは、須佐之男命が逆剥《さかは》ぎにした馬の死体を機織り小屋の天井から投げ入れたとき、天照大神はそこで「神衣《かむみそ》」を織っていたとあるが(古事記では、神衣を織っていたのは天照大神ではなく、機織り女の一人だったとされているが、日本書紀の一書では、天照大神自身だったとされている)、本来、神に着せるための衣を織るのは、神に仕える巫女の役目であって、最高神であるはずの天照大神がそれをするのはおかしい、ゆえに、あの天照大神は巫女が神格化されたものであるというのである。
 ただ、この説には反論もある。天照大神を女神としたのは、中国の西王母《せいおうぼ》の神話が影響しているのではないかというものである。
 西王母の神話とは、いわば、あの七夕伝説のルーツにもなった話である。
 その神話の原初の話はこういうものである。
 
 西王母は大地の中心である宇宙山(世界樹)の頂点で、一人で機《はた》を織っていた。彼女が織りなすのは、世界の秩序であった。
 
 西王母という道教の大女仙が織っていたのは、夫神に着せるための神衣などではなく、この世の秩序だったというのである。なんともスケールの大きな話だが、この西王母の伝説には、世界の創造に最初に関与したのは女神であるという太母神信仰が背景にある。
 西王母の伝説は、弥生時代あたりにはすでに日本にも知られていたらしいから、記紀制作者たちが、女神を最高神にしようと思いついたとき、この「世界の秩序を織りなす」女仙人の話をヒントにしたと考えられないこともない。
 ちなみに、この西王母は、その後、陰陽思想が普及すると、その思想にのっとって、東王父《とうおうふ》なる男の仙人と夫婦ということにされてしまい、これが後に、織姫彦星となって、あの七夕伝説へと変化していくのである。
 ただし、この西王母は、太陽の女神ではなく、月の女神なのである。むろん、「世界を織りなす」というくらいだから、初期の頃は、太陽すら支配していたのかもしれないが、陰陽思想が定着してからは、西王母は月を、東王父は太陽を司るというようになる。西王母の太母神的な性格からみれば、彼女が月の女神であることはむしろ当然であるのだが。
 だが、そうすると、天照大神という太陽女神の創造に、この西王母をモデルにしたという説は少し苦しくなるかもしれない。西王母をモデルにしたならば、最高神は、太陽神ではなく、月神としなければならないはずだからである。
 私は、日本神話における、「太陽神の女性化」は、ひょっとしたら、母権制社会から父権制社会に移る過渡期に見られた、太陽を司る男王の「女装」の習慣に関係したものであるように思えてならない。
 前にも書いたように、最初の頃、太陽を司る男王たちは、去勢され、女装して、「女」として、まつりごとにたずさわっていたのである。
 それが、母権制社会を覆して、父権制社会が形作られ、男性優位の思想が広まり定着するにつれて、去勢の蛮習が廃止され、男王たちは女装を解いて本来の男の姿に戻り、それどころか、まるで自分たちが虐げられてきたことのお返しだといわんばかりに、それまで神事の主権を握ってきた女たちを、「不浄」呼ばわりして、あらゆる神殿から締め出しはじめたのである。
 つまり、あの日本神話に描かれた「女としての」天照大神は、「女装」した男王の姿を太陽の化身としてとどめたものではなかったか。
 須佐之男命が高天《たかま》が原《はら》に来たとき、この乱暴な弟神が攻めてきたと勘違いした天照大神が、「髪をみずらに結い、武器を携え、雄々しく男装して須佐之男命を迎えた」というくだりが記紀には見られるが、あれは、「男装」したのではなく、それまで神事を司るために「女装」していた天照大神が、弟神との戦いを予感して、「女装を解いて男の姿に戻った」のではないだろうか。
 また、たとえば、日本書紀において、須佐之男命が機織り小屋の天井から馬の死体を投げ入れたとき、その出来事に驚いて、機を織っていた天照大神が、機織りに使う梭《ひ》で陰部をついて怪我《けが》をしたとある。
 いくら驚いたからといって、機織りに使う道具で性器を傷つけるという、やや唐突で不自然さのいなめないこの描写は、一体何を暗示しているのかと、長いこと、記紀研究家たちの頭を悩ませ、怪我をした場所が場所だけに、あらぬ妄想を導き出す一因となってきたようである。
 たとえば、須佐之男命レイプ説、天照大神を神妻として見た場合の、太陽神との契りの儀式説……等々。
 しかし、もし、神話の中の天照大神を「女装した男王」と見るならば、この「機織りに使う道具で性器を傷つける」という描写は、全く違った意味をもってくるのではないか。
 それは「去勢」である。
 あの「天の岩戸」事件は、先にも書いたように、冬を迎えて弱まった太陽の力を蘇らせるために、それまでの男王と新しい王とが交代するための儀式だったのである。
 新しく王となる者は、「去勢」され、「女装」して、母なる神の子宮を表す「岩戸」にいったん篭《こ》もり、そこで古い王と交代して、再生した太陽の化身として岩戸から出てきたのである。
 それでは、古い王はどうしたのか……?
 原初においては、おそらく、供犠的死を遂げたと思われる。
 供犠的死とは……。
 これはきわめて恐ろしい想像なのだが、須佐之男命が機織り小屋の天井から、投げ落としたという、逆剥《さかは》ぎにした馬の死体とは、果たして「馬の」死体だったのだろうか……?
 先にも少し触れたように、古代のインカやアステカでは、太陽への供え物として、勇敢な戦士や聖なる動物、そして時には太陽を祀る王自身の血と心臓が捧《ささ》げられたという。その際、生きたまま皮を剥がれ、心臓と血を抜き取られたあとの生き贄《にえ》の死体は、神殿の供犠用に高く作られた台座から、階段下に「投げ落とされた」というのだが……。
 さらに言えば、投げ落とされたあとの死体の肉は細かく解体されて、人々に分け与えられ、人々はそれをトウモロコシと一緒に煮て食べたという。
 それは遠い中南米の話であって、日本とは関係ないと思われるかもしれないが、実は、この遠いと思われていた南米のエクアドルのバルディビア遺跡から、日本の縄文土器に酷似した土器群が出土したことがエクアドルの考古学者によって報告されているのである。
 これは、たまたま似たような文化が、太古、中南米と日本に存在したと考えるべきなのだろうか。それとも、日本列島から南米まで大暖流が貫流しているという事実から考えて、日本の縄文人が船に乗って南米にわたっていた(あるいはその逆)と考えるべきか?
 当時の人々の航海に対する知識や造船技術は、我々が想像するよりも遥《はる》かに高かったのではないかと言われていることから考えても、中南米に存在したインカやアステカ、マヤなどの古代帝国と、古代日本との間には、遥かなる海原を越えて、何らかの交流、接点があったことは十分考えられるのではないだろうか。
 また、わたしたちが正月になると神棚に飾り、正月が過ぎると、それを割って煮て食べる習慣のある、あの鏡もちだが、あれは、実は人間の心臓を模したものであるという説もある。つまり、生き贄の心臓を神に捧げていた太古の冥《くら》い記憶が、今もなおこのような形になって、脈々と続いているというのである。
 すなわち……。
 逆剥ぎにした馬の死体→それに驚いた天照大神の陰部(陰部という言葉は、陰陽思想が定着する前は男女の区別なく使われたらしい。隠し所の意味だろうか)の怪我→岩戸篭もり→天照大神の再登場、という一連の経過をもつ、あの「天の岩戸」神話の意味するものは、原初においての太陽信仰の在り方、つまり、それまで太陽を司っていた男王の供犠的死→新王になるための儀式としての去勢と岩戸篭もり→新王の誕生、を暗に物語ったものなのではないか。
 ただし、これは、女性的なるものを男性的なるものよりも上に置く母権制社会での信仰の在り方であって、その後、母権制を覆して父権制が定着するにつれて、それまでは何の意味ももたない(原始において、生殖における男性性器の役割は、女性のそれよりも分かりにくいものであったはずだから)邪魔な突起物でしかなかった男性性器が、意味がないどころか、「すべての力の源」として認識されるようになると、それ自体が力のシンボルとして信仰されるようになり、あげくのはてには、あの悪しき「男根主義」へと結実していくのである。
 そして、その悪しき「男根主義」と「太陽」とが結び付いた人類史上最悪の例が、あの鉤《かぎ》十字、ハーケンクロイツを高々と旗じるしに掲げたヒトラー率いるところのナチスドイツであった。
 ついでに言えば、日本ではお寺のシンボルとして知られている卍《まんじ》は、太陽の運行を象徴するハーケンクロイツ(太陽まんじ)に対して、女性原理でもある月の運行を象徴しているため、「月まんじ」とも言われている。

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