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蛇神3-2-9
日期:2019-03-25 22:47  点击:253
  火と血と知と
 
 東の果ての、神が作った楽園に、最初の人間であるアダムとイヴが住んでいた。二人は、父なる神から、「園にあるどの木からもその実を食べてもよいが、中央にある永遠の生命の木と善悪を知る知恵の木からは決して実を食べてはいけない」と命令されていた。
 しかし、ある日、イヴは、蛇にそそのかされて、知恵の実を口にしてしまう。そして、その実をアダムにもすすめる。知恵の実を食べた二人は、急に目が開けたようになり、自分たちが獣のように裸でいることが恥ずかしくなる。そこで、イチジクの葉を使って裸を隠すようになった。それを知った神は激怒して、二人がさらに生命の木からも実を食べて、「神のように」なることを恐れ、慌てて楽園から追放してしまうのである。
 そのとき、神は、イヴに知恵の実を食べるようにそそのかした蛇には、「獣の中でも一番|呪《のろ》われたものとして生きよ」、はじめに知恵の実を食べたイヴには、「その罪ゆえに、これから出産の際には苦しんで子供を生め。おまえは夫に従うが、夫はおまえを支配する」と、激烈な呪いの言葉を浴びせかけ、二人を楽園から追い出したあと、二度と人間が近づけないように、園の東門に炎の剣を持つ智天使を護衛として置くのである。
 まるで、臆病《おくびよう》で貪欲《どんよく》な守銭奴が大事な金庫に特大の鍵《かぎ》をかけるように。
 イヴに知恵の実を食べることを教えたのは蛇であった。それゆえ、蛇は、父なる神の怒りを買い、キリスト教世界では、最後の審判のその日まで、悪魔として呪われ続けることになる。
 なんとプロメテウスの話と似ていることか。
 似ているのも当然である。
 最初に「火」を人間に与えた蛇族の神プロメテウスと、最初に「知」を人間に教えた蛇とは、同一の存在と見てもよいからである。
 太古、「火」とは「知」でもあった。火を得ることで、人は闇《やみ》にうずくまる獣のような生活から抜け出し、知性ある生き物としての道を歩むことになったのだから。
 原始キリスト教ともいわれ、キリスト教の異端の一つであるグノーシス派の教義では、人類にはじめて「知恵」を与えてくれた「楽園の蛇」こそ、メシアであるといい、真の救世主であるとしてキリストと同一視しているという。
 ところで。
 そもそも、一説によれば、あのエデンの園での一件は、全く誤解釈によるものだという。
 エデンの園で、イヴがアダムに「知恵の実」を与えている図は、狡猾《こうかつ》な蛇にそそのかされた愚かな女が、夫たる男に罪の上塗りを迫っていると解釈されてしまったが、実は、これは、太母神(イヴ)が、自分の心臓である「知恵の実」を彼女の一時的夫(生き贄《にえ》)である男(アダム)に与えている図を、全く勘違いして伝えられたというのである。
 エデンの園の中央にある「永遠の生命」と「知恵」をもたらす木とは、ギリシャ神話に出てきた、大女神ヘラが所有していた黄金のりんごの木のことなのである。ヘラクレスがここのりんごを盗もうとして、りんご園の番人でもあった、大蛇ラドンと戦ったという……。
 これでお分かりだろう。神の作った楽園になぜ「蛇」がうろうろしていたのか。彼はたまたまそこに居合わせたのではない。彼こそが、炎の剣をもつ智天使にとって代わられるまでは、その楽園の正当な番人であったのだ。大蛇ラドンが黄金のりんご園の番人であったように。
 そして園の持ち主は、太母神たるイヴだったのである。そのイヴが、彼女の一時的夫であり、生き贄としてやがて死の国に旅立つアダムのために、「永遠の生命」を約束するりんごを与えようとしている、というのが、あの楽園の図の真の解釈なのである。
 木の陰からこっそり姿を見せて、赤い舌をのぞかせている蛇は、けっして、無垢《むく》な男女を堕落させることに成功してほくそえんでいるのではなく、単に楽園の番人(あるいはイヴの最初の夫)としてそこにいるにすぎないのである。
 イヴの「原罪」などという馬鹿げたものははなから存在していないのである。「イヴの原罪」とは、まさしく、「イヴの冤罪」に他ならない。
 こうした、りんごにまつわる大いなる勘違いは、ギリシャ神話の中にも見ることができる。あの「パリスの審判」である。
 トロイヤの王子であるパリスは、ある日、ひょんなことから、アテナ、ヘラ、アフロディテの三大女神のうちで誰が一番美しいかといういわば最古の美人コンテストの審判役をゼウスに押し付けられてしまう。そして、彼が最も美しいと思う女神に、黄金のりんごを渡せと言われる。そこで、パリスは、「もし私にりんごをくれたら、世界で一番の美女を与えよう」と約束してくれたアフロディテにりんごを渡す。
 よく知られたギリシャ神話では、パリスが三女神の一人にりんごを渡している図をこのような物語として説明しているが、これは全くの逆解釈である。実は、パリスはりんごを女神に渡しているのではなく、女神からりんごを受け取っているのである。
 つまり、パリスもまたアダム同様、太母神たる三女神から聖王(生け贄)の印である黄金のりんごを与えられているというのが、この図の本来の解釈なのである。
 パリスが「生き贄」であったことは、パリスの哀れな最期からも容易に推測できよう。「世界一の美女を与える」という女神の予言どおり、この「審判」の後、パリスは、スパルタの地で、ギリシャ一の美女と謳《うた》われたヘレネーと出会い、夫ある身の彼女と恋に落ち、彼女をこっそり本国であるトロイアに連れてきてしまう。
 この「美女略奪」が、あのトロイア戦争を引き起こす。そして、一時は、ギリシャの名花を得て至福の時を過ごしたパリスも、参戦中に受けた矢傷が元で苦しみながら死んでゆく。
 ちなみに、パリスが受けた矢傷とは、あのレルネーの水蛇ヒュドラの毒を鏃《やじり》に塗った弓から発せられたものであり、パリスはその毒矢を「腿《もも》の付け根」に受けたという。
 ついでに言えば、水蛇ヒュドラの毒によって命を落とすという死に方は、あのヘラクレスの壮絶な最期と同じものである。
 ヘラクレスの方は、ヒュドラの毒を含んだ血に浸された呪いの衣を、それを浮気封じの衣と信じた妻の手から着せてもらい、身につけたとたんに、蛇毒が身体中に回って「火で焼かれるような」苦しみを味わいながら死ぬのである。
「黄金のりんご」にかかわった男が二人とも、「蛇の毒」で死ぬという悲劇的な最期をたどっていることは、むろん、反復を好む神話的表現とか偶然の一致などではあるまい。
 彼らが「黄金のりんご」にかかわったときから、彼らの「死」は決定づけられていたのである。女神から渡された「黄金のりんご」とは、まさに、供犠的死を経ることで、神としての復活(永遠の生命)を約束する契約の印であったのだから……。
 ついでにいえば、この「死のりんご」の話が、めぐりめぐって、やがては、かの有名なドイツ民話「白雪姫」の、老婆に化けた魔女が姫に手渡す「毒りんご」の話に結実してゆくのである。もっとも、本来ならば、あの「毒りんご」を魔女から手渡されるのは、白雪姫ではなく、白雪姫を助けた王子の方であったはずなのだが。
 だから……。
 話を元に戻すと、「パリスの審判」とは、「パリスが女神によって生き贄に選ばれるための審判」であって、「パリスが美の女神を選ぶ審判」などではなかったのである。
 ただ、これは単なる勘違いというより、父性原理を母性原理よりも上に置こうという意図から、故意に逆さまに解釈されたといった方がいいかもしれない。
 父なる神がイヴに言った、「おまえは夫に従うが、夫はおまえを支配する」という言葉や、(しばしばフェミニストの神経を逆なでする、あの)美人コンテストなどという発想そのものが、まさに、それを滑稽《こつけい》な程あからさまに物語っていよう。
 しかし、いかなる逆解釈を駆使しようとも、太古、知恵と永遠の生命を象徴するりんごの園を所有していたのは女の方だったのである。なぜなら、女とは、知恵と永遠の生命をもたらす魔法の血(経血)を所有する者だったからである。
 さらに言えば、太古、「知」を表す「火」をも女が所有していた。それは、「火山」を司るのが大地女神であったということや、「竈《かまど》の火」を司るのもまた女神であったことを見れば、まさに、火を見るよりも明らかであろう。
 ギリシャ神話では、竈の火を守るのはヘカティアという女神であり、これは一見いかにも女神らしく家庭を守る神のように見えるが(実際、この女神は、現在では、家庭の竈や暖炉を守る神として信仰されている)、しかし、太古、彼女と彼女の巫女《みこ》たちが守っていた「竈の火」とは、「家庭の竈」などではなく、もっと大きく神聖な意味をもつ「神の火」そのものだった。
 ヘカティアはローマのヴェスタ女神と同一視されているが、この「竈の火」を司る女神ヴェスタは、主神であるユピテル(ゼウス)やジュノー(ヘラ)と並んで、長く、国家神的な信仰を受けてきたのである。
 それが、父性原理が母性原理を征服していく過程で、「神の火」を守る女神や巫女たちは、その神聖な火と共に太母神を祭る神殿の祭壇からひきずりおろされ、家々の片隅にある煤《すす》けた台所に押し込められてしまった。
「おまえはここで竈の火だけを守っていればいい」という男たちの言葉と共に。

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