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沢地逸子のコラムを読み終わり、疲れた目をこすりながら、蛍子がパソコンの電源を切ったときには、既に零時を過ぎていた。
ヘッドホンを取ると、大きく伸びをした。豪のギターの音はやんでいた。近所迷惑になるので、零時をすぎたらギターは弾くなと言ってあった。豪はそれをちゃんと守っているようだった。そのかわり、リビングの電話が鳴っている音がした。
電話に出ようと、立ち上がりかけたとき、電話の音はぴたと鳴りやんだ。どうやら、リビングにはまだ豪がいて、電話に出たようだった。話し声がする。しばらくして、ドアが控えめにノックされた。「どうぞ」というと、豪がドアを開けた。
「今、姉ちゃんから電話があって、今日はサッチンのとこに泊まるって」
入り口に突っ立ったまま、ぶっきらぼうに伝えた。「そう」と答えても、それだけを伝えにきたわけではないらしく、他にも話したいことがあるような風情で、戸口に立ったままである。
ただ、「入れ」と言われない限り、部屋の中には入ってこない。ここは「男子禁制」になっているからである。その戒律を作ったのは、蛍子ではなく、火呂だった。「女が土俵にあがってはいけないように、男はこの部屋に入ってはいけない」などと、火呂はわけのわからない理屈を並べて、問答無用で弟を締め出していた。
「なにか用?」
そう聞くと、
「姉ちゃん……最近、外泊が多いね」
豪は、彼にしては珍しく思案げな表情で言った。
「そうね」
「いつもサッチンのとこに泊まったって言ってるけど、ほんとなのかな……」
疑わしそうに呟《つぶや》く。
「男のとこに泊まってたりして」
「それはないんじゃないかしら」
蛍子はすぐに言った。蛍子自身、火呂の外泊が増えた頃から、それをちらと疑ったこともあった。彼氏でもできたのではないだろうかと。
ただ、それにしては、火呂の外見には全く変化が見られなかった。彼氏ができれば、身なりや態度に自然とそのような雰囲気が滲《にじ》み出るものである。なんとなく髪形や着るものが「女らしく」なったりする。でも、火呂はあいかわらず化粧っけもなく、ショートカットにジーンズという少年のような格好を変えてはいない。
それに、知名祥代とは、沖縄にいた頃から、よく互いの家に泊まり合うような仲だった。相手の家で食事し、風呂《ふろ》まで入るという家族同然の付き合いをしてきたようだ。祥代の家からそのまま学校に行くということも珍しくなかった。東京に出てきても、そうした子供の頃からの習慣が抜けないだけなのだろう。蛍子はそう思っていた。
「でもさ」
豪が不満げに口をとがらせた。
「前に、姉ちゃんが若い男と一緒に歩いているの、磯辺が原宿で見かけたって言ってたぜ。ほら、バンド仲間の磯辺だよ。うちにも来たことがある……」
それは初耳だった。しかし、その相手が恋人とは限らないだろう。火呂が通っている大学は共学だから、男子学生と一緒に歩くくらいのことはあるかもしれない。そのことを豪に言うと、
「ただの友達って雰囲気じゃなかったって。あれは明らかにラブラブだって、磯辺は言ってた————」
豪はむきになってそう言いかけたが、ふいに、にやりと白い八重歯を見せて笑い、
「磯辺の奴《やつ》、相当ショック受けたみたいだった。あいつ、ひそかに姉ちゃんのこと、狙《ねら》ってたみたいだから。姉ちゃんって、あんな男みたいなのに、俺《おれ》の友達の間ではなぜか評判いいんだ。みんな、きれいだきれいだって言ってる。卯月《うづき》マリナにちょっと似てるって。そうかなあ。もっと化粧とかすれば、少しはましになると思うんだけど」
と不思議そうに首をかしげた。卯月マリナというのは、今や、テレビドラマや映画、CMに大活躍の若手女優である。そう言われてみれば、火呂は、この若手女優に少し似ていた。
「火呂はきれいよ、お化粧なんかしなくても」
蛍子は笑いながら言った。お世辞ではない。化粧もおしゃれもしていなかったが、姪《めい》の身体からは、天性の麗質ともいうべきものが自然に輝き出していた。
姉の康恵も決して不美人ではなかったが、火呂はあまり姉には似ていなかった。たぶん実父である高津に似たのだろう。
沖縄の灼熱《しやくねつ》の太陽にさらされて日に焼けてはいたが、本来は色白で、その肌理《きめ》の細かい、透き通るような肌の美しさは、同性の蛍子でさえ、しばしば見とれるほどだった。
「そういえば……磯辺が見たって女、ばっちり化粧してたんだって」
豪が思い出したように言った。
「それに、髪が肩まであって、姉ちゃんよりも長かったし、ちょっと感じが違っていたから、ひょっとしたら他人の空似ってやつかもしれないって……」
「きっとそれよ」
「でも、化粧して、鬘《かつら》かぶって変装してたのかも」
豪が大まじめでそんな突拍子もないことを言い出しので、
「なんで恋人と会うのに変装しなくちゃならないのよ」
蛍子はさすがに吹き出した。
「姉ちゃん、ここ出て一人暮らししたがってるってほんと?」
豪はしばらく沈黙したあと、何やら悩ましげな表情で訊《き》いた。
「まあね。今すぐってわけじゃないみたいだけど」
実は、今年になって、火呂はこのマンションを出て、一人で暮らしたいと言い出したのだ。アルバイトをはじめたのも、その資金作りのためらしかった。
思えば、蛍子はさほど不自由に思っていなかったが、火呂の方は、この八畳間を叔母《おば》と共有することに不自由さや窮屈さを感じているのかもしれなかった。もっとのびのびと自由に学生生活を楽しみたいと思っているのかもしれない。親友の知名祥代が気ままな一人暮らしをしているということにも刺激されているようだった。
蛍子自身、あえて遠い東京の大学を選んだのも、親元を遠く離れてのびのびと一人暮らしがしてみたかったからでもあった。独身ということもあってか、蛍子の中にはまだ学生気分が色濃く残っていた。一回り程度しか年の違わない姪の気持ちが理解できないわけではない。だから、口うるさいことはいっさい言わなかったつもりだが、火呂からすれば、叔母と同居しているというだけで、常に監視を受けているような気がしていたのかもしれない。
それに、亡くなった姉との約束で、少なくとも、成人に達するまではそばについていてやってくれと言われていたが、その約束ももはや果たされたといってもよい。
蛍子の方は、少なくとも火呂が大学を出るまでは同居するつもりでいたが、火呂の方が今すぐにでも独立したいというのならば、それもよし、あえて止めようとは思っていなかった。
「ねえ、叔母さん……姉ちゃん、最近、変じゃない?」
豪はなおも言った。
「変? 変ってどこが?」
蛍子が聞き返すと、
「どこがってわけじゃないけど、なんとなく。なんとなく変なんだよ」
豪はそんな曖昧《あいまい》ないいかたをした。
「俺のこと避けてるみたいだし……」
「火呂に嫌われるようなこと、何かするか言うかしたんじゃないの? あのくらいの年頃の女の子って凄《すご》くデリケートなのよ。あんた、無神経だから」
蛍子がからかうように言うと、
「何もしてないよ!」
豪はすぐに言い返したが、そのあと、少し考えて、そう言い切れるだけの自信をなくしたような声で、「……と思うけど」と言い直した。
「それに、変になったというか、俺を避けるようになったのは、母さんが死んだ後からだし……」
豪は何かを思い出すような顔つきで言った。
そう言われてみれば、このマンションで暮らすようになってから、二人はあまり喧嘩《けんか》をしなくなった。弟の方が挑発しても、姉の方が適当にあしらって相手にしない。そんな風に見えた。
蛍子はそんな火呂の態度を、それだけ大人《おとな》になったのだと勝手に解釈していたのだが……。
「姉ちゃんから母さんの手紙のことで何か聞いてない?」
豪は唐突にそんなことを言い出した。
「母さんの手紙?」
蛍子は問い返した。「母さんの手紙」って何のことだろう。さっぱり意味がわからなかった。
「なんなの、母さんの手紙って?」
豪がおし黙っているので、少し焦れて問いただすように聞くと、少年は重い口を開くようにして、ぼそりと言った。
「遺言……母さんの遺言だと思うんだけど」
豪の話では、康恵が亡くなる直前、火呂と病室に見舞いに行ったとき、帰り際、康恵は火呂にだけ一通の封書を手渡したのだという。
後になって、康恵の葬儀を終えたあと、あの手紙のことが気になっていたので、何が書かれていたのか、火呂に聞いてみたら、「おまえには関係ない」とケンもほろろに突っ放されたというのである。
自分に対する火呂の態度にどことなく距離を置くようなよそよそしさを感じるようになったのは、その頃からだという。
「姉ちゃんがなんとなく変になったのは、あの手紙のせいじゃないかと思うんだ」
豪はそう言った。
「わたしは何も聞いてないけれど……そんなに気になるなら、それとなく火呂に聞いてみようか?」
蛍子がそう言うと、豪は、少し嬉《うれ》しそうな顔になって、「うん」と答えた。
これで話は終わったと思ったのだが、まだ何か言い足りないことでもあるのか、豪は、どことなく落ち着かない様子で戸口に立ったままだった。
「まだ何か用?」
そう聞くと、
「パ、パソコン、使ってないなら貸してくれる?」
妙に薄赤い顔をして、口ごもりながら言った。
「いいけど……」
なんとかという人気バンドがオフィシャルホームページを開いたので、それを見たいのだと、豪は、聞きもしないのに使い道を早口で説明した。蛍子のよりも一回り小さなノートパソコンを持っている火呂にも貸してくれと頼んだのだが、いやだとアッサリ断られたという。
「持ってけば?」と蛍子が言うと、豪は、ようやく、部屋の中に入ってきて、電源を切ったばかりのノートパソコンを素早く取り上げた。
「何、見てもいいけど、あの手のサイトによくある変なファイルは絶対に落としちゃだめよ。あれ、実行したらダイヤルQ2とかに接続されて、後で料金請求されるのこっちなんだから」
蛍子がやんわりと釘《くぎ》をさすように言うと、豪は、一瞬ぎょっとしたような顔になった。その顔には、人気バンドのオフィシャルホームページを見るという口実で、実はアダルトサイトを見るつもりでいたことが、なんで叔母に分かってしまったんだろうと内心驚いているような表情がありありと浮かんでいた。
思っていることが全部顔に出るという、実にわかりやすい少年だった。