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蛇神3-5-1
日期:2019-03-25 22:53  点击:262
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 携帯が鳴ったとき、広瀬典雄は、悪友たちとマージャンの真っ最中だった。
「もしもし……?」
 くわえタバコで出ると、
「ノリさん?」
 涼やかな若い女の声が耳に飛び込んできた。「ノリ」というのは家族や友人の間での典雄の愛称だったが、それにしては、相手の声に聞き覚えがなかった。
「そうだけど……?」
 誰だろうと思いながら答えた典雄の頭に、一瞬、「もしや」という考えが閃《ひらめ》いた。
「……『ときめき広場』のメッセージ見たんですけど、今、お話ししてもいいですか」
 女の声はそう言った。
 やっぱりそうだ。
 先日、ある出会い系の人気ホームページの掲示板に、女性のメールフレンドを求める投稿をしておいたのだ。「ノリ」というニックネームで、自分の簡単なプロフィールを載せ、連絡先として、メールアドレスと携帯の番号をアップしておいたのである。
 しかし、一週間近くたっても、誰からもメールは来ず、携帯も鳴らなかったので、あきらめかけていたのだが……。
 どうやら、ようやく「魚」が食いついてきたらしい。
 典雄は、慌てて、口からタバコを離し、手近の灰皿でもみ消すと、「ちょっとタンマ」と言ってその場を抜け出し、携帯を持ったまま部屋の外に出た。
「あの……後でかけ直しましょうか」
 典雄が電話の向こうでばたばたと慌てている様が聞こえたらしく、相手は遠慮がちな声でそう言った。
「いや、いいです。大丈夫です」
 典雄は、部屋の中の仲間に聞こえないように、声をひそめて言った。
「……読書が趣味なんですか?」
 相手がいきなりそう訊《き》いた。
「え?」
 典雄は一瞬頭を空白にしたが、すぐに、相手の質問の意味に気が付いた。そういえば、プロフィールのところに、「趣味は読書と音楽鑑賞」と書いておいたことを思い出したのだ。
 実をいうと、趣味は「読書」なんて書いたが、対象は漫画に限られていた。素直に「趣味は漫画を読むこと」と書けばよかったのだが、つい見栄を張って、「読書」と書いてしまったのである。
 もっとも、最近の漫画の中には、文学的な味わいを持つものも少なくないし、実際、古典や人気小説を劇画化したものもよく目にするから、典雄自身はウソを書いたとは思っていなかった。「漫画を読む」ことだって、立派な「読書」だろう。
「わたしも読書が趣味なんです。それで、よかったら本の話とかしたいなって思って……」
「そうなんですか。ぜひ、お話ししたいですね」
「どんな作家がお好きなんですか?」
 相手が訊いた。
「どんなって……」
 典雄はうっと詰まった。頭に浮かぶのは、どれも好きな漫画家の名前ばかりで、「作家」の名前など全く思い浮かばない。そういえば、前に「夏目漱石」の「坊ちゃん」を読んだな。むろん、漫画でだが。でも、いくら何でも、好きな作家が「夏目漱石」というのは……。「紫式部」の「源氏物語」も漫画化されたものを漫画喫茶で読んだことがあるが、「紫式部」というのもちょっとね……。
 無い知恵を絞ったあげくに、ようやく一人だけ思い浮かんだ名前があった。読んだことはないが、どこで聞いたのか、なんとなく耳に残っていた名前だった。なんか大きな賞か何か取った人ではなかったかな。
「……オオエケンザブローなんていいですね」
「大江健三郎? ホントに? わたしもファンなんです。彼のどの作品がお好きなんですか?」
「どの作品って……み、みんなですよ。みんな好きです、彼の作品は」
「わたしもなんです。全部いいですよね」
「なんか気が合いそうですね、ぼくたち。よかったら、会ってお話ししませんか」
 典雄はさっそく言った。相手はしばらく黙っていた。この手の出会いは、ふつうは、まずメールフレンドからはじめるものだ。そして、少し打ち解けてきたところで、電話で話すようになり、やがて、十分打ち解けたところで、では一度お会いしましょうかというのが、普通の手順というものである。
 それを一回めの電話でいきなり会おうでは少々気が早かったかなと、後悔しかけたとき、
「……いいですよ」
 とやや遠慮がちな声がした。
「いいんですか?」
 そう問い返す典雄の声は半分裏返っていた。
「ええ。わたし、電話で話すのってあまり得意じゃなくて……。それに、パソコンのキーボードもまだ慣れてなくて、メールも長いのは苦手なんです。直接お会いして話す方がいいです。それで、明日、空いてます?」
「あ、明日……?」
 典雄はあまりに急な話で、瞬間、目を白黒させた。明日って日曜か。日曜は確か……。
「わたし、明日しか時間とれないんですけど……」
「あ、空いてます。明日なら一日中がら空きです」
 典雄は殆《ほとん》ど反射的にそう答えていた。
「ノリさんのお住まいは、大泉学園でしたよね。だったら、池袋のパルコ前で午後三時でどうですか?」
「……ブクロのパルコ前。三時ね。わかりました。了解です。で、何かそちらの目印みたいなものは……?」
 そう訊くと、女は自分の姿形の特徴や服装を言い、「……大きな紙袋持っていますから」と付け加えた。
 典雄の方も自分の特徴を伝え、浮き浮きした気分で電話を切りそうになって、
「あ、そうだ。名前。名前まだ聞いてなかったよね?」
 と言うと、
「名前は……マナゴっていいます」
 と相手は答えた。
「マナゴ?」
 聞き返す典雄の声が思わず高くなった。
「それ、本名? なんか魚の名前みたいだね……?」
 ついそう言うと、電話の向こうで、くすくすと笑う女の声がした。箸《はし》が転んでもおかしがるという、若い女独特の、こちらの気分まで昂揚《こうよう》させるような楽しげな笑い声だった。
「これ、ハンドルよ。本名は、会ったとき、おしえてあげる……」
 女の口調が急に馴《な》れ馴れしいものになった。囁《ささや》くような甘い余韻を典雄の耳にたっぷりと残して電話は切れた。
 よっしゃ!
 典雄は一人でガッツポーズを決めた。
 文学少女か……。
 正直なところ、少し引く気持ちもないわけではなかったが、電話の声は、いかにも知的な美人を連想させる涼しげな良い声だった。自分の容姿の特徴を説明するときに、友人に「卯月マリナに少し似ている」と言われたことがあると言っていた。本人が言うことだからあまり当てにはならないが、この人気若手女優は、典雄のまさにタイプだったから、「少し」似ているだけでも御の字というものだ。
 話し方も上品で、良家の令嬢風である。はすっぱな感じは全くしなかった。
 あまりお堅いのは肩がこりそうで嫌だったが、かといって、いかにも遊んでいそうな崩れたタイプはもっと嫌だ。
 清純で「適度に」知的。そういうタイプが典雄の好みだった。「適度に」というのは、自分がついていける程度にという意味である。自分が見たことも聞いたこともないような知識をべらべらとまくしたてるような女は論外だった。
 電話の女はこの条件を満たしているように思えた。
 ただ、問題は「オオエケンザブロー」である。マージャンなど呑気《のんき》にやっている場合ではない。すぐに近くの本屋に飛んでいって、「オオエケンザブロー」の本を買ってこなければ。なんとなく聞き覚えがあるということは、きっと有名な作家なんだろう。だとしたら、文庫で出ているかもしれない。たとえ一冊しか読んでなくても、「僕はこれが彼の代表作だと思う」と言い切って、えんえんとその話だけをすればいい……。
 そのとき、典雄のバラ色に彩られた頭の中にあったのは、「どうか、オオエケンザブローが一晩では読み切れないような大長編作家ではありませんように」ということだけだった。

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