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蛇神3-5-3
日期:2019-03-25 22:54  点击:302
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 康恵の手紙の末尾には、当時、葛原八重が住んでいたというアパートの住所と電話番号、そして、産院の住所と電話番号が記されていた。
 出だしは、几帳面《きちようめん》だった姉らしく、整った字体で書かれていたが、最後の方になると、病からくる激痛と戦いながら書いたような乱れた文字になっていた。
 内容もさることながら、だんだん乱れていく字体の変化を見るだけで、姉がどのような思いでこの手紙を書き残したのか、その思いがじかに膚に伝わってくるようで、蛍子は胸を掻《か》き毟《むし》られるような気がした。
 それにしても、衝撃的な内容だった。
 火呂が姉の子ではなかった……。
 こうして、康恵自身の手による告白の手紙が目の前にあっても、蛍子にはまだ信じられなかった。
 ただ、今にして思えば、火呂はあまり姉には似ていなかった。しかし、それも、実父である高津に似たのだろうくらいにしか思っていなかったし、姉もことあるごとにそう言っていた。
 蛍子は、茫然《ぼうぜん》としながらも、半ば機械的に手紙を畳んで封筒にしまうと、それをテーブルの上に置いた。何か言わなければと思いながらも、言葉が全く出てこなかった。
 自分でさえ、これだけショックを受けたのだから、この手紙をはじめて読んだ火呂が、どれほど衝撃を受けたか、十分想像がついた。それだけに、よけい、かける言葉が出てこなかった。
 火呂はそんな叔母をただ黙って見つめていた。
「信じられない……」
 蛍子は、ようやくそれだけ言った。
「わたしも信じられなかった。その手紙を最初読んだときは」
 火呂が言った。
「何度読み返しても信じられなくて。でも、あの母さんがデタラメを書くはずがない。ここに書いてあることが真実なんだって、そのうち思うようになって……」
 火呂は、その当時の心境を堰《せき》を切ったように話しだした。
 結局、幾晩も眠れぬ夜を重ねて考えた末に、火呂が出した結論は、すべてを封印してしまおうというものだったという。
 康恵がこのことをずっと自分の胸ひとつにおさめてきたように、自分も誰にも話さず、自分の中に葬ってしまおう、と。
「照屋の父さんが本当の父さんじゃないって知らされたときも、こうやって、高津広武という人のことは自分の中に封印してしまった。だから、今度もそうできると思った……」
 火呂はそう言った。
 そして、これからも照屋火呂として生きる。照屋康恵の娘であり、豪の姉であり続ける。それ以外の自分などありえない。
 ところが、一度はそう決心したものの、康恵が亡くなり、日がたつにつれ、ふと我にかえると、どこかにいるという双子の姉のことや、実母だという女性のことを考えている自分に気が付いた。封印しようとしても、封じこめきれないものが胸のうちでくすぶり続けていたのだという。
 そして、ついに火呂の中の封印が解ける日がきた。それが今年の五月のことだった。何げなく読んでいた新聞の片隅に、都心で起きた交通事故の死亡者として、「葛原八重」の名前を見つけたとき、火呂は一瞬心臓が止まりそうになったと言った。
 その記事に記されていた「葛原八重」の年齢や、住所が和歌山であることから考えて、康恵の手紙にあった「葛原八重」と同一人物だと直感したからだった。同姓同名の別人とはとても考えられなかった。
 それでも、このときすぐに、「葛原八重」の遺族であるはずの「姉」に会いに行こうとまでは思わなかったという。それが、その後、再び起こったもう一つの偶然、新宿の映画館で、見知らぬ若い女性から、「クズハラさん」と呼びかけられたとき、火呂の中で、ずっと抑えつけていたある想いが爆発した。
 姉に会いたい。自分と同じ顔、同じ血をもった分身に会いたい。
 そんな恋情にも似た烈《はげ》しく熱い想いだった。今まで無理やり抑えつけていたことで、かえって、その想いは、くすぶり続ける燠火《おきび》のようなものから、一気に、燃え上がる炎のようなものになっていた。
 これまでは、観念の上でしか存在していなかった「もう一人の自分」の存在が、はじめて確かな実体をもって感じられたのだという。
 それに、新聞記事に載っていた「葛原八重」が、姉の養母だとしたら、姉も育ての親を不慮の事故で亡くしたばかりであり、きっと、自分と同じ悲しみを味わっているに違いない。そう思うと、矢もたてもたまらず、姉に会いたいと思ったのだという。
 しかし、想いは募っても、すぐに行動には移せなかった。ひょっとしたら、姉は何も知らされてはいないかもしれない。自分に双子の妹がいるとは夢にも思っていないかもしれない。そう思いあたると、いきなり会いに行くことに、若干のためらいがあった。
 それでも、ようやく決心して、あの土曜日、一人で和歌山に出向いた。しかし、新聞記事の住所を頼りに探し当てた「葛原八重」の家は、空き家になっていて誰も住んではいなかった。近所の人に聞いてみると、「葛原八重」の唯一の遺族である「娘」は、東京の私立大学の薬学部に入学して以来、ずっと東京で暮らしているということだった。
 そこで、火呂が知り得たことは、姉の名前が「日美香」であるということ、近所の人たちが一様に驚き目を見張るほど、自分と姉が似ているらしいということだけだった。
「……それで、その日美香という人には会えたの?」
 蛍子が聞くと、火呂は首を横に振った。
「ううん。会えなかった。東京の住所までは分からなかったし」
「でも、そんなのは調べればすぐに分かることじゃないの? 葛原日美香という名前で、大学もどこか分かっているんでしょう? だったら、その大学の学生課なりに問い合わせてもいいし……」
 蛍子がそう言いかけると、火呂はかすかに笑いながら、なおもかぶりを振った。
「いいの、もう」
「いいのって、会わなくてもいいの? あなたのお姉さんに……」
「うん。なんかもう、和歌山まで行ったら気が済んだ。同じ東京に住んでいれば、いつか、どこかでバッタリ会うかもしれないし、向こうから会いに来るかもしれない。それまで待つことにした。とにかく、わたしの方からは会いに行かない」
「でも……」
「それに、今、わたしが会いにいけば、向こうに迷惑がかかるかもしれないから」
 火呂はそんなことを言い出した。
「迷惑って? どうして?」
 蛍子が聞くと、火呂は、「姉には結婚話が出ているらしい」と言った。
「結婚って……まだ学生なんでしょう?」
「もちろん卒業してからの話らしいんだけれど、近所の人が言うには、相手の家というのは学者一家とかで名門らしいんだ。葛原八重さんが事故にあったのも、五月の連休を利用して、この相手の家に挨拶《あいさつ》に行く途中だったんだって……」
 もし、そんな話が進行しているのだったら、今、自分が姉の前に現れるのはまずいかもしれないと火呂は言うのだった。
 確かに、火呂の言う通りかもしれない、と蛍子は思った。相手の家が名門であればあるほど、当然、息子の結婚相手の「素性」にはこだわるだろう。そんなときに、火呂が現れれば、同時に、日美香という人の出生の秘密が先方にも知れ渡ることになり、下手をすれば、破談という事態にもなりかねなかった。火呂はそうなることを心配したようだった。
「サッチンも今は会いに行かない方がいいって言うし……」
「祥代さんにこのこと話したの?」
 蛍子は驚いたように訊《たず》ねた。
「うん。全部打ち明けて、その手紙も読んでもらった。実をいうと、叔母《おば》さんに話した方がいいって言ったのはサッチンなんだよ。変に隠していると心配するばかりだからって」
「そうだったの……」
 蛍子はやや複雑な心境で呟《つぶや》いた。
 やはり、火呂には、叔母である自分よりも、大親友である祥代の方が、悩み事を真っ先に打ち明けられるほど信頼できる存在なのかと、あらためて思い知らされたような気がしていた。
「それじゃ、もう気持ちの整理はついたということなのね?」
 蛍子が念を押すように聞くと、火呂は大きく頷《うなず》いた。
「うん。もう大丈夫。サッチンに話して、叔母さんにも話したら、ほんとに気が楽になった。ずっと背負っていた重たい荷物をおろしたような気分。サッチンに怒られちゃった。どうして、こんな大事なこと、今まで隠してたんだ、一人で抱え込んでいたんだって。こういうときのために親友っているんじゃないのかって」
 火呂はそう言って苦笑したが、ふと顔を曇らせて、「ただ」とやや言いにくそうに続けた。
「……問題は豪なんだよね。あいつにも打ち明けるべきかどうか迷ってる。あいつは、サッチンや叔母さんと違って、バカだし単細胞だし、そのくせ変なところでデリケートだから、このことを冷静に受けとめられないんじゃないかって気がして。でも、サッチンは豪にも話すべきだって言ってる……」
「そうね。わたしも祥代さんと同意見だわ」
 蛍子は即座に言った。
「やっぱり話した方がいい?」
「ええ」
「だったら、叔母さんの口から豪に話してやってくれない?」
「わたしが?」
「うん。面とむかっては、どうしても言い出しにくくて。それに、顔見るとついむかついて喧嘩《けんか》になっちゃうし。叔母さんから話した方が、あいつも冷静に聞いてくれるかもしれない。その手紙、叔母さんに預けるから……」
 蛍子はしばらく考えてから、「分かったわ」と答えた。

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