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蛇神3-6-1
日期:2019-03-25 22:56  点击:283
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 研究室のドアをノックすると、すぐに、軽やかな返事と共にドアが開いて、助手風の若い女性が現れた。
「泉書房の喜屋武蛍子と申しますが……」
 そう言いかけると、若い女性は、沢地逸子から話を聞いていたらしく、「どうぞ、お入りください」と、蛍子を中に入れてくれた。
 沢地から、「ぜひ会って話したいことがある」という電話が会社の方に入ったのは朝方だった。
 どこかで昼食でもとりながらと沢地は言っていたが、ちょうど、沢地の奉職する大学の近くに、今手がけている翻訳小説の翻訳家の住まいがあり、この翻訳家に会うついでもあったので、蛍子の方から、沢地の大学まで出向くことにしたのである。
 研究室の隅にあるソファに座って待っていると、
「……先生、授業が長引いているみたいで。しばらくお待ちいただけますか」
 麦茶を運んできた助手風の女性が申し訳なさそうに言った。
 蛍子は、「時間ならあるので気にしないでください」と告げてから、麦茶の入ったグラスに口をつけた。
 それとなく部屋の中を見回す。
 沢地逸子の研究室に入ったのははじめてだが、思ったよりも「女らしい」雰囲気のする部屋だった。
 季節の花を生けた花瓶が机やテーブルをさわやかに飾り、今、蛍子が座っているソファには、キティちゃんのぬいぐるみがクッション代わりに置かれている。テーブルには、手作りと思われる白いレースのテーブル掛けがかけてあった。
 部屋だけ見れば、とても、ここが、あの「女傑」沢地逸子の研究室とは思えないくらいだった。
 もっとも、沢地と何度か会ったり会食したりしているうちに、蛍子は、ふだんの沢地逸子のイメージがテレビなどで見るのとはだいぶ違うことに気が付いていた。
 教壇に立ったり、テレビの討論番組などに出ると、「人格が凶暴かつ攻撃的に豹変《ひようへん》する」と本人も笑いながら言っていたことがあった。
 ふだんの彼女は、料理と手芸が趣味だそうで、「中学のときまでは、家庭科クラブに所属する無口でおとなしい女の子だった」というのは、今の彼女からは想像もつかないが、まんざら嘘《うそ》でも冗談でもないらしい。
 結婚していれば、案外、良妻賢母になるタイプなのかもしれなかった。
 そんなことを考えながら、あたりを見回していた蛍子の目が、テーブルの上の、読み捨てられた朝刊を捕らえた。蛍子が購読している新聞とは違う。沢地を待つ間の暇つぶしをするつもりで、蛍子は、それを何げなく手に取った。
 広げて、社会面を見ると、案の定、こちらにも例の事件の続報がでかでかと載っていた。
 例の事件とは、先週の日曜日、池袋のラブホテルで起きた猟奇殺人のことである。八月九日の午後六時頃、若い女とともにチェックインした男の客が、翌朝、頭部と四肢を切断された遺体となって、ホテル関係者によって部屋の中から発見されたのである。
 被害者の名前は、広瀬典雄。十九歳のフリーターらしかった。
 頭部と四肢がノコギリ状の凶器で切断されていただけではなく、心臓が鋭利な刃物で抉り取られ、代わりに、黄色いゴムボールが一つ埋め込まれていた。さらに、生殖器も切り取られていたという。
 異様で残酷な手口が、先月のちょうど今ごろ、中目黒で起きた大学生殺しに酷似していた。被害者の胃の内容物から催眠導入剤らしき成分が発見されたことも、大学生の事件と共通する点だった。
 大学生の事件と違うのは、発見されたとき、被害者の遺体には、布団等は被《かぶ》せられておらず、切断された四肢と胴体は、無造作に、床に散らばっており、頭部だけが、お茶セットなどを置く小テーブルの上に、まるで花瓶か何かを飾るように置かれていたことだった。
 テーブルの上に置かれていた新聞の続報によれば、被害者は、どうやらインターネット上で犯人と知り合ったのではないかということだった。
 事件の前日、被害者は友人たちとマージャンをしており、その仲間の証言から、被害者が、出会い系のホームページに「メルフレ募集」の投稿をしていて、それを見たという若い女性から携帯に連絡があって、日曜に会う約束をしたと嬉《うれ》しそうに話していたというのである……。
 そのとき、廊下の方でバタバタと足音がしたかと思うと、研究室のドアが勢いよく開いた。
 胸に教科書らしきものを抱えた沢地逸子が息を切らして足早に入ってくると、
「ごめんなさいね。講義の方は早めに切り上げたんだけれど、帰りぎわ、学生につかまっちゃって……」
 と、いかにも人気助教授らしい謝り方をした。
 蛍子は、慌てて、広げていた新聞を畳んだ。
「話というのは、ほかでもない、例の池袋の事件のことなんだけれど」
 ソファに座るなり、沢地逸子の顔から笑顔が消えて、すぐにそう言った。やっぱりと蛍子は思った。
 あの日曜の夜、数日振りでアクセスした沢地のホームページの掲示板で、「真女子」名の投稿がされているのを見た蛍子は、その異様な内容に、不吉な胸騒ぎをおぼえ、すぐに沢地の自宅に電話を入れてみたのである。
 既に改築を終えた成城の自宅に帰っていた沢地は、自分もついさきほど掲示板を見たばかりで、蛍子同様、嫌な胸騒ぎを覚えたのだと打ち明けた。
 何か起こらなければいいのだがと、沢地は不安そうに電話の向こうで呟《つぶや》いていたのだが、その不安は、早くも翌日、「池袋のラブホテル猟奇殺人」という形で、現実のものとなってしまったのである。
「昨日、警察に行ってきたのよ」
 沢地は言った。
 池袋の事件の報道を聞くやいなや、もはやこれは、放ってはおけないと思ったのだという。しかも、あの掲示板の常連投稿者たちからも何通かメールが来て、その内容は、みな一様に、「真女子」と例の猟奇殺人の関連を懸念するようなものだったらしい。
 とりあえず、この事件の捜査を受け持つ池袋の所轄署に、ノートパソコン持参で出向き、事情を説明して、担当の刑事に、自分のホームページと掲示板の過去ログをその場で見てもらったのだという。
「警察でも、今回の事件はネットがらみではないかという見込みで捜査をはじめていたらしくて、わたしの話には凄《すご》く興味を示してくれたわ。なんでも、前の被害者の大学生もインターネットをやっていたらしくて、被害者同士には東京在住の若い男性ということ以外、何の接点もないみたいだから、二人とも、犯人とはネットを通じて知り合ったのではないかと……」
「やっぱり、あの『真女子』が事件にかかわっていたんでしょうか?」
「二度も偶然が重なるとは、ちょっとね……。二度とも事件の前日に書き込みされているところからしても、やはり、あれは偶然の一致とか第三者の悪戯《いたずら》ではなくて、犯人本人か、犯人の身近にいて、犯行を事前に知っていた者の犯行予告と見てもいいんじゃないかしら……」
「先生のおっしゃった通りだったんですね。それを、わたしがもう少し様子を見た方がいいなんて言ったばかりに。もっと早く警察に話していれば、今度の事件は未然に防げたかもしれなかったのに……」
 蛍子はそう言って唇を噛《か》んだ。これは、池袋の事件のことをテレビのニュースで知ったときから、蛍子の中で苦い後悔の念となってわだかまっていた思いだった。
「そんなことないわよ。あなたのせいじゃないわ」
 沢地はすぐにそう言った。
「あなたの判断は適切だったと思うわ。被害者の心臓部に埋め込まれていた黄色いゴムボールにしても、はたして、犯人が持ち込んだものなのか、被害者の家にもともとあったものなのかさえ、最初の事件では判別できなかったんだから。あのボールが犯人が持ち込んだものという確証でもあれば、わたしの推理ももっと濃いものになっていたのだけれど。あの段階では、わたしの考えすぎという可能性も十分あったわ。そう思ったから、わたしも警察に話すのはやめたのよ。それに、たとえ、警察に行っていたとしても、あの程度の疑惑では警察としても手のうちようがなかったかもしれない。『真女子』に事情を聴くために、彼女の身元を割り出そうとしても、あの段階でそれができたかどうかさえ怪しいし」
「あの……」
 蛍子はおずおずと言った。
「前からちょっと疑問に思っていたんですけれど、メールアドレスも公開してないような匿名投稿からも、投稿者の身元というのは割り出せるものなんですか?」
 インターネットを始めて二年近くになるが、理系ではない蛍子には、そのへんの仕組みが今ひとつよく分からなかった。
「それは簡単にできるらしいわよ」
 沢地はあっさりと言った。
「まあ、わたしも根が文系だから、ネットの仕組みとかコンピュータ関連の知識はお粗末なもので、これも、ホームページを作るときに何かと世話になった理系の同僚から聞いた話なんだけれど……」
 そう前置きして、沢地は言った。
 プロバイダー(インターネット接続業者)に通信記録さえ残っていれば、その通信記録に記されたIPアドレスと接続時刻から解析して、投稿者の加入しているプロバイダーを割り出すのは容易であり、加入しているプロバイダーさえ分かれば、そこに保管されている記録から、投稿者の個人情報を割り出すことは可能だという。
 さらに言えば、こうした掲示板に投稿しなくても、そのホームページにアクセスしただけで、この種の記録はちゃんと残るのだという。
「ただし」
 と沢地は付け加えた。
「プロバイダーは、電機通信事業法という法律によって、会員の個人情報をみだりに漏洩《ろうえい》してはならないと義務づけられているから、一般人には、他の会員の個人情報の開示を要求することはできないわ。たとえば、ネット上のトラブルか何かで、相手の身元を知ろうと思って、それを相手のプロバイダーに求めても、答えは却下が相場。たとえ、その加害者側の会員の行為がネチケット(ネット上のエチケット)に違反する悪質行為と判断された場合でも、せいぜい、プロバイダー側から、その悪質会員に『警告』メールが行くくらいのものでしょう。ま、この辺は、プロバイダーによって、比較的厳しいところも甘いところもあるでしょうけれど。
 プロバイダーに個人情報の開示を要求できるのは、警察が何らかの犯罪捜査のために礼状を持って行った場合だけなのよ」
 だから、俗に、「インターネットは匿名性が高い」と言われているが、それは一種の幻想であって、あくまでも、犯罪がからまない限りにおいてはという条件付きでの話なのだという。
「でも、いくら警察でも、単なる疑惑程度では動けないんじゃないかしら。いわゆるハイテク犯罪、たとえば、ネット上で詐欺行為を働いたとか、わいせつビデオや薬物等の売買をしたとか、そういった犯罪行為も、こいつが犯人に違いないと確たる証拠がそろって、裁判所からの礼状もおりて、はじめて、警察としても、プロバイダーに個人情報の開示を要求できるんじゃないのかしらね」
「今回のような場合、もし、警察が、色々な状況証拠などから、『真女子』の容疑が濃いと判断すれば、その手順で、彼女の身元を割り出すことはできるのですね?」
 蛍子が確認するように訊《たず》ねた。もし、そうであれば、「真女子」の逮捕も時間の問題であるような気がした。しかし、沢地はやや顔を曇らせて首をかしげた。
「うーん。それがねえ……。これもその同僚から聞いた話なんだけれど、ああいうハイテク犯罪で御用となるのは、御用になった犯罪者たちが衝動的だったりマヌケだったりして、アクセス段階で自分の足取りを残しているからだというのよね。
 でも、蛇の道は蛇というか、ネットをはなから犯罪の舞台として使おうともくろんでいる悪質で頭の良いプロ犯罪者の中には、このへんも後で足がつかないように用意周到だというのよ。
 たとえば、海外サーバーなどを経由してアクセスすると足がつきにくいとも言われているし、たとえ、さっき言った手順で、プロバイダーを特定できたとしても、プロバイダーの中には、ダイヤルQ2経由のものや、最初に料金を払い込むタイプのプロバイダーもあるらしいわ。これなら、会員登録をせずにネットに接続できるのよ。もし、犯人がこうしたプロバイダーを利用していたとしたら、たとえ、プロバイダーそのものが判明しても、犯人にまでは辿《たど》り着けないかもしれない。あと、インターネットカフェ等を利用するという方法もあるし……」
 多くのプロバイダーの場合は、会員になるときに、本名、現住所、電話番号等の個人情報は提示させるし、そもそも、入会金や月々の会費の支払いは、おおかたがクレジットカード決済になっているので、この点からも、会員は身分を偽れないようになっている。
 が、それとても、抜け道はいくらでもあると沢地は言った。たとえば、こうした場合でも、盗んだクレジットカードを使用すれば、他人になりすまして入会することはできるのである。そして、こうした偽クレジットカードもネット上で手に入れることが可能なのだという。
 もっとも、さらに言えば、ここまでやっても、警察が本腰を入れて執念深く捜査をすれば、犯人が捕まることもあるので、このへんは、警察のやる気の度合いと、犯人側の「悪運」の度合いにかかっているという。
「ようは、『真女子』がどのレベルの犯罪者かということでしょうね。ネットに関する知識も乏しく衝動的なタイプならば、足取りも残しているだろうから、辿り着くのはさほど難しくないだろうけれど、もし、掲示板に書き込んだ当初から、今回のような犯罪を計画していたとしたら、そして、それなりにネットの知識をもっているような奴だったとしたら、話は厄介になるかもね。それこそ、ネットの闇《やみ》の海にするりと蛇のように消えてしまうことも考えられるわ……」
 沢地はそんなことを憂い顔で呟き、ふと思いついたというように言った。
「蛇といえば、あれ、どういう意味なのかしらね?」
「あれ?」
 蛍子が聞き返すと、
「彼女の最初の書き込みにあった、あれよ」
「ああ、あの、『わたしの体には蛇のうろこがある』という……?」
「そうそう。体に蛇のうろこがあるって、どういう意味なのかしらね。魚鱗《ぎよりん》病とかいう皮膚病のようなものがあるらしいけれど、そういったものなのか、それとも、最近の若い女の子の間では、ファッションとしてタトゥがはやっているというから、『蛇のうろこ』模様のタトゥでもしているってことなのかしら……」
「でも、このあと、『蛇の生まれ変わり』なんて言い方をしているところを見ると、皮膚病とか刺青《いれずみ》とか、後天的にできたものではなくて、生まれつきの……たとえば、痣《あざ》のようなものではないでしょうか?」
 蛍子は慎重に言った。
「痣? ああ、そうか。そうね。そういうことかもね」
 沢地が納得したように頷《うなず》いたとき、鳴っていた電話を取った助手が、受話器を片手に、「先生、お電話です。ジャパンテレビの井上さんから」と告げた。
「……ちょっと失礼」
 沢地はそう言ってソファから立ち上がると、デスクの上の電話を取った。
「……沢地です……はい、はい……その件なら……」
 電話に向かって話す沢地の声をぼんやりと聞き流しながら、蛍子は全く別のことを考えていた。
 それは、沢地が何げなく口にした、「真女子」の体の「蛇のうろこ」のことだった。前の事件が起きた頃、姪《めい》の火呂にあらぬ疑いをかけたのも、この「蛇のうろこ」に関する書き込みを目にしたことがきっかけだったことを蛍子は思い出していた。
 もちろん、火呂は事件とは全く関係ない。今となっては、それは断言できる。今回の事件にしても、火呂が無関係であることは、蛍子自身が証明できるのだ。新聞等の報道によれば、被害者の男性が犯人らしき若い女と池袋のラブホテルにチェックインしたのが、日曜の午後六時頃とある。
 しかし、その頃なら、火呂は、新しいマンションで蛍子と一緒に、引っ越しそばを食べていたのである。つまり、蛍子自身が火呂のアリバイの証人というわけなのだ。
 ただ……。
 蛍子の脳裏に、ある疑惑が、突然、闇にぽつんと咲いた毒々しい花のような疑惑が生まれていた。それは、康恵の手紙を読むまでは、脳裏をよぎることさえなかったような思いつきだった。
 もう一人いる……。
 姉の手紙には、火呂の双子の「姉」の胸にも、「まるで鏡に映したような」薄紫色の痣があったと書いてあった。
 生まれつき、「蛇のうろこ」のような奇妙な痣を持つ若い女はこの世にもう一人いる……。
 その事実が、蛍子の脳裏に、新たな疑惑の卵を生みつけようとしていた。

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