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雑居ビル内にある、「NIGHT AND DAY」という、古いジャズナンバーから店名を取った、その小さなバーの看板の明かりは消えていた。
休み……?
蛍子は首をかしげた。今日は休みの日ではなかったはずだ。といっても、それは五年前までの話で、この五年間、蛍子は一度もこの店に足を向けてはいなかった。その間に、休みの日が変わったとも考えられるし、臨時休業ということもありえる。
そんなことを考えながら、思わず腕時計を見た。あと十分ほどで午後九時になろうとしている。
このまま店の前で待っていれば、伊達《だて》は現れるだろうか……。
そのとき、ふと、蛍子の耳が、店の扉の中から微かに響いてくる低い音を捉《とら》えた。
音楽が流れている……?
分厚い扉に耳をくっつけるようにして聴いてみると、確かに、古いジャズナンバーらしき曲が微かに聞こえてくる。
営業しているのだろうか。
そう思い、扉の取っ手に手をかけると、試しに扉をひいてみた。すると、施錠されているとばかり思った扉はするりと開いた。
やや抑えた音量で流れていたのは、映画「カサブランカ」のテーマ曲としても名高い名バラッド、「時のすぎゆくまま」だった。
おそるおそる覗《のぞ》きこんでみると、カウンターしかない狭い店内には、五年前と同じ、海底を思わせるようなマリンブルー系の照明が灯《とも》り、カウンターの中には、年老いたマスターが一人でグラスを磨いていた。
マスターの前には、客らしき男の背中が見える。その幾分猫背気味の背中に見覚えがあった。
伊達|浩一《こういち》だった。
蛍子の姿を認めると、マスターは、客の肩越しに軽く会釈した。それは、この店に通っていた頃と全く変わらぬ仕草だった。蛍子は一瞬頭がくらっとした。まるでタイムトラベルでもして、五年前に戻ってしまったのではないかと思ったからだ。それほど、店の様子も、マスターの仕草も記憶の中のそれと変わらなかった。
そして、伊達の背中も……。
もっとも、この店でよく待ち合わせをした頃、こうして彼の背中を見ることは稀《まれ》だった。伊達は遅刻の常習犯で、蛍子より先に来ていることなど滅多になかったからだ。
最後に彼の背中を見たのは、「もう少し飲んでいく」と言う彼を残してこの店を出ようとしたときで、扉の前で、なんとなく後ろ髪を引かれる思いで振り返ると、そこに彼の背中があった。あれ以来、この店には来ていない。
「おひさしぶりです」
蛍子はマスターにそう挨拶《あいさつ》してから、表の看板の明かりが消えていることを伝えた。看板の明かりをつけ忘れたのかと思ったのである。
「今日は貸し切りですから……」
白髪《しらが》の老バーテンは、グラスを拭《ふ》く手を休めず、穏やかに微笑しながら言った。
貸し切り……。
ああ、そうか。そういうことだったのか。
そういえば、伊達の父親とここのマスターが戦友とかで、マスターとは子供の頃からの知り合いだと聞かされたことがあった。だから、こんな我がままも聞いてもらえるのだろう。
もしかしたら、あの夜も……。
蛍子は、最後にこの店を訪れた夜のことを思い出した。ちょうどこのくらいの時間帯で、待ち時間も含めて三時間近くいたが、他の客は一人も入っては来なかった。ひょっとしたら、あのときも、マスターが気を利かして、看板の明かりを消していてくれたのかもしれない……。
蛍子が来たことは既に気配で分かっているはずなのに、伊達は振り向かず、横に座ってはじめて気が付いたとでもいうように、挨拶がわりに、飲みかけのウイスキーグラスを少し浮かせてみせた。
その横顔を見たとき、蛍子は、少し老けたなと感じた。五年前にはなかった白髪がまばらに見えた。蛍子より確か六歳上だったから、まだ四十にはなっていないはずだった。
もう一つ、気づいたことがあった。蛍子の方に見せている左目の縁に、10センチほどの縫ったような傷がついていたことだった。
手当をしたのがあまり腕の良い医者ではなかったらしく、醜い引《ひ》き攣《つ》れになっていたが、蛍子は、なぜか、その傷からすぐに目が離せなかった。
女が顔に傷を負えば、悲惨としかいいようがないが、男の顔の傷は、ある種の魅力を醸し出すことさえあるから不思議だった。
「おひさしぶりです」
蛍子はあえて他人行儀な挨拶をした。五年前に別れ、それ以来一度も会ってはいなかったのだから、今となっては他人も同然だったが、理由はそれだけではなかった。
伊達の妹で、蛍子と兄との仲を取り持ってくれたキューピッド役でもあった、大学時代の友人である美佐江から、伊達のことはそれとなく耳にしていた。三年ほど前に結婚して、今では二人の子供の父親になっていることも……。
いくら昔の恋人とはいえ、既に家庭を持っている男に、あまり馴《な》れ馴れしい態度は取れなかった。
「俺、老けた?」
伊達が、ふいに言った。その口調は、五年前と少しも変わらなかった。
「うん、ちょっとね。白髪?」
蛍子は自分のこめかみのあたりを指さして聞いた。伊達の気楽な口調につられて、つい昔の口調になってしまった。
「若白髪だよ。最近、抜いても抜いても生えてきやがる。このせいかなあ。久しぶりに知り合いに会うと申し合わせたように言われるんだ。『おまえ、老けたな』って」
「老けたというか……」
渋くなった、と言いかけて、蛍子はその言葉をかろうじて呑《の》み込んだ。
「目の縁、どうしたの?」
「え?」
「傷」
「ああ、これ?」
伊達は片手で顔の傷を撫《な》でた。
「刃物持ったチンピラと素手でやりあったときに……」
「やられたの? かっこいい」
「……と言いたいところだが、本当は、泥酔してバーの階段から転げ落ちたときに、階段の角にぶつけて切った」
「なんだ、かっこわるい」
「顔面血だらけでさ……。十二針も縫ったんだぜ」
「でも、あなたが泥酔するほど飲むなんて珍しいわね」
「あのときばかりはね。朝まで飲んでてさ、出るときは意識|朦朧《もうろう》としてたからな……」
「あのとき……?」
「きみに振られた夜。そこの階段から落ちたんだよ」
伊達はそう言って苦笑しながら、親指をたてて扉の方を示した。
「……」
蛍子はあの夜のことを思い出していた。いつものようにここで待ち合わせをして、いつものように、彼は三十分ほど遅れてやってきた。そして、求婚された。蛍子はその申し出を断った。愛していなかったわけではない。求婚された事自体は嬉《うれ》しかった。ただ、伊達は、蛍子に家庭に入ることを要求した。仕事をやめろと言ったのだ。まだ若かった。やりたいことが一杯あった。ちょうど編集の仕事が面白くなりはじめていた頃でもあった。仕事はやめたくなかった。いくら好きな男でも、その男を朝から晩までただ待つだけの生活はしたくなかった。だから……。
あの夜のことは昨日のことのように覚えている。伊達は最後まで冷静だった。目の前のグラスにも殆《ほとん》ど手をつけなかった。蛍子といる間、ずっと素面《しらふ》同然だった。穏やかに話し合い、相手の言い分に耳を傾け、互いに譲歩する気のないことを何度も確認し合い、最後は納得して別れることにした。
そして、「もう少し飲んで行く」と言う伊達を残して、蛍子は一足先に店を出てきたのだが……。
「今から思えば、振られて当然だったな」
伊達が昔を懐かしむように言った。
「振ったわけではないわ。わたしは……」
蛍子はそう言いかけて黙った。悩んだ末の結論にしろ、伊達のプロポーズを断ったことに変わりはなかった。
「俺、ずいぶん勝手なことばかり、きみに要求していたからなあ。仕事やめて家庭に入れとかさ。失業中の男が言う台詞《せりふ》じゃないよな。まともな女だったら断るのが当然だよ」
「失業中といっても……」
あの頃、伊達は、それまで勤めていた大手の興信所をやめて、そこで一緒だった何人かのスタッフと新しい探偵社を作ろうとしていた。その探偵社も、今では軌道に乗って、スタッフの数も倍に増えたようだと美佐江から聞いている。
しかし、蛍子が伊達のプロポーズを断ったのは、一時的にせよ、相手が失業中だったからではない。経済的な面での不安が全くなかったといえば嘘《うそ》になるが、そのことは決定的な要因ではなかった。
ようは、男への愛と自分の自由を天秤《てんびん》にかけてみたら、あの頃は、僅《わず》かに「自由」の方に天秤が傾いたということにすぎなかった。
今なら、天秤はどちらに傾くだろう……。
「意地になってたんだよ。自分も仕事続けるから経済的なことは心配しなくていいなんて、きみに言われてさ。野心はあったけれど、自信がなかった。その自信の無さが逆に変なプライドになっていたのかな。今なら、相手にあんな要求は絶対にしないだろうね……」
伊達は独り言のように言った。
今なら……。
蛍子はふと思った。
わたしも……。
「それにしても」
しばしの沈黙のあと、伊達は、ちらと蛍子の方を見て、まんざらお世辞でもないような口調で言った。
「きみは全然変わらないね」
「そんなことないわよ。ここに皺《しわ》、また一本増えたし」
蛍子はそう言って、目尻《めじり》を指さした。
「笑い皺だろ。変わってないよ。今でもあの出版社に勤めてるんだって? 美佐江から聞いたんだけど……」
「ついでにまだいかず後家だってことも聞いてるんでしょ」
そう言うと、伊達は声に出して笑った。
「なるほどね。外見は変わらないように見えても、そういう自虐的なことを言って楽しむ年にはなったってことか」
「……」
「電話もらったときは驚いたよ。まさか、きみからだとは……」
「どうして? 別に憎み合って別れたわけではないでしょう、わたしたち。電話くらい用があればするわよ」
「用があれば、か」
伊達が意味ありげに呟《つぶや》いた。
「そういえば、きみはあの頃から用がなければ電話しないくちだったよな」
「だって……迷惑でしょ? 用もないのに電話したら。たとえば仕事中とかに」
「うちの女房なんか、用もないのに日に最低三度は携帯にかけてくるよ。こっちの都合なんておかまいなしに」
「奥さん、専業主婦?」
「まあね」
「主婦に多いのよね。自分が暇だと相手も暇だと思うらしくて、仕事中だろうとおかまいなしに……」
「付き合っている頃からそうだったよ。付き合うっていっても、半分見合いみたいなもんだったから、半年足らずのことだけど。女にも二種類あるのかな……」
「というか、わたしのようなタイプの方が珍しいのかも。きっと、あなたの奥さんのようなタイプが普通なのよ。たいして用もないのに、自分の都合と気まぐれだけで電話かけまくる女って、世の中にはたくさんいるから……」
自分の刺のある口調に気づいて、蛍子は、はっと口をつぐんだ。
嫉妬《しつと》?
今、わたしは、昔の恋人の妻になった女に嫉妬している。顔も名前も知らない女に……。
そう気が付いて、自己嫌悪に陥りそうになった。
「……で、その用というのは何ですか」
伊達がやや口調を改めるようにして言った。
「え……?」
「だから、用があったから、五年ぶりで電話くれたんでしょう? まさか、こんな昔話するために呼び出したわけじゃあるまい。さて、その用件とは?」
蛍子はうろたえていた。その肝心の用件のことをすっかり忘れていたことに気がついたからだった。この店に一歩足を踏み入れたときから、時間の感覚がなくなっていた。昔と全く変わらない店の様子や、マスターの態度、それに、五年間のブランクをまるで感じさせない、伊達の自然な態度に幻惑されていた。
いつの間にか、昔のように、ここで待ち合わせてデートでもしているような気分になっていたのだ。「用件は何だ」と聞く男のやや醒《さ》めた口調に、突然現実に引き戻されたような気がした。
「実は……」
ようやく冷静さを取り戻して、蛍子は言った。
「ある女性の身元調査をお願いできないかと思って」
「ある女性って?」
伊達は蛍子の方を見ながら聞いた。その目は既に仕事の話をする目になっていた。
蛍子は少しためらったが、姪《めい》の火呂の出生のことを洗いざらい打ち明けた。あまり他人には話したくないことだったが、伊達にしろ、ここのマスターにしろ、こうした話を不用意に他人に漏らすタイプではないことはよく知っていた。
「ふーん。そんな小説みたいな話が実際にあるのか」
伊達は、蛍子の話を聞き終わると、妙なことに感心するようにそう言い、
「それで、その葛原日美香という女子大生のことを調べればいいわけ?」
「あと、それと、できれば、二人を生んだという女性のことも……。分かっているのは、『倉橋日登美』という名前と、信州の出身らしいということだけなんだけれど」
知りたいのは、葛原日美香のことだけだったが、姉の手紙に書かれていた、「倉橋日登美」という女性のこともなぜか気にかかっていた。一体、この女性は、どういった経緯で、火呂や日美香を生んだのか……。
「引き受けて貰《もら》えます?」
姉の手紙に記されていた産院の住所や葛原八重の和歌山の住所などを記したメモを渡し、自分の知る限りの情報を伊達にすべて伝えてから、蛍子は聞いた。
ただ、火呂の痣《あざ》のことや猟奇事件との関連についてはおくびにも出さなかった。
「女子大生の方はこれだけ分かっていれば、探し出すのは難しくはないと思うが、母親の方はどうかなあ。これだけの情報では……」
伊達は顎《あご》に手をあて、やや難色を示すような表情になった。
「とりあえずは、葛原日美香の方だけでいいんだけれど」
そう言うと、しばらく考えるように、じっとグラスを見つめていた伊達は、
「ほかならぬ……昔なじみの依頼じゃ断るわけにもいかないね。分かりました。やってみましょう」と言ってくれた。
「もちろん、報酬は払います」
「そりゃ当然でしょう。引き受けるからには、こちらもビジネスだからね」
伊達はシビアな口調でそう言った。
「……用件はこれだけ?」
やや間があって、蛍子の方を見ないで聞いた。
「ええ……」
「そうか。じゃ……」
伊達はそう言うと、カウンターの上に投げ出していたライターと煙草をスーツの懐にそそくさとしまいはじめた。
蛍子はその何げない仕草を横目で見て、どきりとした。
あの頃、飲みながらひとしきりしゃべったあと、伊達がライターと煙草を懐にしまいはじめるのは、そろそろ、ここを出て、別のところに行こうという暗黙の合図だったからだ。
まさか……。
蛍子は一瞬、期待とも恐れともつかぬ感情に支配されて、思わず身を硬くした。
「俺は失礼するよ。ゆっくり昔話でもしたいところだが、あいにく、今日は、上の坊主の誕生日でさ、女房から早く帰ってこいってうるさく言われてるから……」
伊達は苦笑混じりにそう言うと、「結果が出たら連絡する」と言い残し、勘定を済ませると、さっさと出て行った。
馬鹿……。
一瞬あらぬ妄想にとらわれ、思わず身構えてしまった自分を蛍子は心の中で思いきり罵倒《ばとう》した。
「上の坊ちゃんの誕生日なら」
それまで蛍子たちの会話を聞かぬ顔をして終始無言だった老マスターが、カウンターに一人残された蛍子にというよりも、手の中の曇りひとつないグラスに囁《ささや》きかけるように呟いた。
「先月済ませたはずですがね……」