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八月二十六日。
蛍子は、「NIGHT AND DAY」のカウンターにいた。一杯目のカクテルを飲み干した頃、ようやく伊達浩一が現れた。
前日の夜、伊達から電話があって、「葛原日美香」の身元調査がほぼ完了したとの連絡を受け、その調査結果を聞くために、例のバーに立ち寄ったのである。
「……一応、彼女に関するデータは、この書類にまとめておいた」
伊達はカウンターに座るやいなや、挨拶《あいさつ》も抜きで、持っていた茶封筒から、クリップで綴《と》じた数枚の書類を出して、蛍子の前に置いた。
「ずいぶん早かったのね。この手の調査って、もっと時間がかかるのかと思っていたわ」
そういうと、伊達は、にやりと笑って、
「昔なじみの依頼ということで優先的にやったからね……」と言いかけ、
「あ、そうだ。先に言っておくけれど、葛原日美香は改名していたよ。今の名前は神日美香《みわひみか》になっている」
「改名って……結婚したってこと?」
書類を手に取りながら、蛍子は驚いたように隣の男を見た。
火呂の話では、日美香にはもっか結婚話が出ているということだったが、早くもその話がまとまったのだろうか。一瞬そう思ったのである。
「いや、そうじゃない。養子に行ったんだよ」
「養子……?」
「ああ。そこにも書いておいたが、その神家というのは、葛原日美香の母がたの実家にあたるようだ。養父になった神聖二という男は、日美香の母親の実兄らしい」
「つまり、葛原八重がなくなったので、その兄である伯父《おじ》の養女になったってこと?」
念を押すように訊《たず》ねると、しかし、伊達はかぶりを振った。
「葛原八重じゃない」
「え。葛原八重じゃないって……」
「倉橋日登美の方だよ」
伊達はそう言って、奇妙に輝く目を蛍子の方に向けた。
「倉橋日登美のことが分かったの?」
蛍子は驚いたように訊ねた。とても、あれだけの情報では、倉橋日登美の身元の方は無理かなと半ばあきらめていたのだ。
「きみから話を聞いたときは、これだけではという気がしていたんだが、ひょんなことからこの女性の身元はすぐに割れたんだよ」
伊達は興奮を隠せない表情で言った。
「どういうこと?」
「実は、うちのスタッフの中に、『倉橋日登美』という名前に聞き覚えがあるという人がいてね。昔、新聞記者をやっていた人で定年後うちに来てもらったんだが、この御仁が、『倉橋日登美』という名前を何かの事件がらみでおぼえていたんだよ。それで、古い新聞データを徹底的に調べてみたら……」
伊達はそう言って、茶封筒から、さらに新聞記事をコピーしたような紙を出し、それを蛍子に見せた。
「こんなものが出てきた」
ざっと読んでみると、それは、昭和五十二年の夏に起きた悲惨な殺人事件の記事だった。新橋の駅前で「くらはし」という蕎麦《そば》店を営んでいた店主一家が、解雇をめぐってのトラブルから、深夜、住み込み店員だった十八歳の少年に刺殺されたという事件である。当時二十六歳だった倉橋日登美は、この事件で、父親と夫、そして五歳になる長男を失った被害者だというのである。
「これは……」
その古い新聞記事のコピーから、蛍子は愕然《がくぜん》としたような顔をあげた。
「もちろん、これだけでは、まだ、葛原日美香の実母だという倉橋日登美と、その新聞記事の倉橋日登美とが同一人物かどうかは分からなかったんだが、調べていくうちに、どうやら、同一人物らしいということが分かってきたんだ……」
伊達は言った。
「で、でも、これはどういうことなの?」
蛍子はやや混乱しながら言った。
「事件が起きたのは昭和五十二年の七月とあるけれど、もし、この倉橋日登美が、火呂と日美香の実母だとしたら、彼女は、翌年の九月に二人を生んだことになるのよ? でも、夫だった人はこの事件で亡くなったはずだし……」
「そこがどうも妙なんだ。葛原日美香の件を先に片付けてからと思ったから、まだ、そちらの方は突っ込んだ調査はしてないんだが、どうやら、倉橋日登美は、事件のあと、家も店も売り払い、もう一人生き残った三歳の娘を連れて、信州にある母がたの実家に身を寄せたらしい」
「その実家というのが……」
「葛原日美香が養子に行ったという神家だったんだよ。この神家というのは、聞くところによると、代々、日の本神社という古社の神官を勤める家柄で、古事記にもその名を残しているという、いわば、地方の名家ってやつだな。日美香の養父になった神聖二という男は、今の宮司《ぐうじ》らしい。事件のあと、倉橋日登美はこの実兄を頼って行ったんだろう。ところが、翌年、なぜか、彼女は、この神家を出て、新宿のバーに勤め、誰にも知らせず双生児の赤ん坊を産み落としたということになる……」
「その三歳の娘というのは? 連れて出たのではないの?」
「そこまでは分からない。一緒に出たのではないとしたら、この娘は今でも実家の方で暮らしているんだろうな。詳しいことは、その神という家を直接当たれば分かるだろう。倉橋日登美がこの神家にいる間に、一体、何が彼女の身に起こったのか……」
伊達は何やら考えこみながら言った。
「それに……この神家というのがどうも引っ掛かる」
「引っ掛かるって?」
「まだ裏を取ってないから、確かなことは言えないが、どうやら、この神家というのは、新庄貴明の生家でもあるらしい……」
「新庄って、まさか、大蔵大臣の?」
新庄貴明といえば、保守派の最大派閥を率いる新庄信人の女婿で、数年前に信人が急死してからは、舅《しゆうと》の地盤と人脈を引き継ぎ、その政治家としての能力は舅以上とも言われ、まだ五十前の若さであるにもかかわらず、次期総理との呼び声も高い人物である。
さすがに「えっ」と目をむくと、伊達は頷《うなず》いた。
「今の宮司は新庄の弟らしいんだよ」
「ということは、倉橋日登美は新庄貴明の妹だったってこと?」
「いや、それがそうではないらしい……」
「でも、そういうことになるんじゃないの? 神聖二という人が倉橋日登美の実兄で、その神聖二が新庄貴明の弟だとしたら……」
「それが、戸籍の上ではそうではないらしい。神家というのは、神に仕える家柄というせいか、かなり複雑な家族構成になっているようなんだ。新庄とこの弟というのも、戸籍の上では兄弟になっているが、実は兄弟ではないという噂もあるし……。まあ、そのへんは現地に行ってみればはっきりするだろう」
「現地へ行くって……まだ調べるつもりなの? 倉橋日登美のことだったらこれだけ分かれば、わたしの方は別に」
蛍子がそう言いかけると、
「きみの依頼とは関係ない。俺《おれ》が個人的に興味をもったんだ。どうも、何か引っ掛かる。探偵としてのアンテナにビンビン引っ掛かってくるものがある。ただの偶然かもしれないが、新庄がこの件にからんでいるというのも気になる。古い記事によれば、倉橋日登美の一家を惨殺した犯人の店員を紹介したのが、当時まだ舅の秘書をしていた新庄だったということらしいが……」
「養母の死後、実母の兄にあたる人と養子縁組をしたということは、葛原日美香、いえ神日美香は既に自分の出生のことを知っていたということなのね? 葛原八重から聞かされていたのかしら。としたら、火呂のことも……」
蛍子は言った。
もし、日美香が既に自分に双子の妹がいることを知っていたとしたら、火呂が彼女に会いに行ったとしても何の差し支えもないのではないか。
これは火呂にとっては朗報ではないか。
「いや、それがそうではないらしい。新田佑介の話では、日美香が葛原八重の実子ではなかったことを知ったのは、八重の死後だったようだ」
伊達は言った。
「新田佑介って?」
「日美香の縁談相手だ。彼女の大学時代の先輩で、今はある大手自動車メーカーのエンジニアをしている男だが、実をいうと、日美香が伯父にあたる人物と養子縁組をしたという話は、この新田から仕入れたんだよ」
「縁談相手に会ったの?」
蛍子はやや声を張り上げた。
「まさか、探偵だなんて言わなかったでしょうね。もし、相手に不審がられて破談にでもなったら」
それを心配したからこそ、伊達のような調査のプロにこの件を依頼したのにと、咎《とが》めるように言うと、伊達は笑って、
「其《そ》の件なら心配しなくていい。俺が首突っ込む前に、そっちの話はとっくに流れていたよ」と言った。
「え……」
「確かに、この新田という男と神日美香は婚約寸前までいっていたようだ。葛原八重が事故死したのも、新田の両親に挨拶に行く途中だったというのも事実だった。ただ、結局、この縁談はお流れになった。そんな話を日美香の周辺から聞き込んだから、新田に会いに行ったんだよ」
「なぜ破談になってしまったの?」
「さあね。新田もその件に関しては今だに釈然としていないという顔だったな。なぜ、一度は婚約指輪を快く受け取ってくれた日美香がそれを突っ返してきたのか……」
「彼女の方から断ったってこと?」
「らしいね。少なくとも新田側からストップがかかったわけではないらしい。それどころか、新田としては、日美香が伯父夫婦の養女になると聞かされて、それまで縁談の唯一の障害になっていた彼女の私生児問題がこれで解消されると、かえって喜んでいたというのだ。養子先が地方の名家ということもあって、これなら代々学者を輩出している名門新田家とも釣り合いが取れるってね。それまで、二人の結婚に難色をしめしていた親戚《しんせき》筋からも、『それならば』とようやくGOサインが出たというのだよ。
ところが、どういうわけか、土壇場にきて、肝心の日美香本人が心がわりしたということらしい。理由を聞いても『結婚できない事情ができてしまった』の一点張で、そう言われて新田の方も引くには引いたが、あの顔は、まだ未練たらたらって感じだったな……」
伊達はそう言って、新田佑介の顔でも思い出したのか、意味ありげな含み笑いをすると、
「奴を見てたら、昔の自分を思い出してしまったよ」
「……」
「……日美香が実母である倉橋日登美のことを知ったのは、全くの偶然で、葛原八重の遺品の中にあった一冊の本がきっかけだったというのだ。それまでは八重が実母だと信じきっていたらしい。つまり、葛原八重は死ぬまで娘の出生のことは打ち明けていなかったということだ。だから、実母のことまでは分かっても、双子の妹がいることまでは知らないかもしれない。少なくとも、新田からはそんな話は聞けなかった」
「その本というのは……?」
「なんでも、どこかの高校教師が自費出版した『奇祭』に関する本らしい」
「きさい?」
「祭りだよ。その本の口絵に、倉橋日登美らしき女性が巫女《みこ》の衣装を着て写っていたというのだ。その顔があまり自分に似ていたので、不審に思った日美香が、この本の著者に会って話を聞いたりしているうちに、どうやらこの女性が実母だと知ったということらしいね」
「巫女の衣装ということは、倉橋日登美は、神家に身を寄せている間に、巫女のようなことをしていたってことかしら?」
「そういうことになるな。実をいうと、この本の著者である真鍋《まなべ》伊知郎という男に、明日、会うことになっているんだ」
「明日?」
「ああ。本の巻末に著者の住所が載っていたらしくて、新田がそれを覚えていてくれたんだよ。鎌倉在住らしい。それで、電話帳を当たったら、すぐに真鍋の電話番号が分かった。連絡を取ってみると、高校の方は定年退職して隠居生活をしているというので、さっそく、明日会う約束をした。真鍋に聞けば、長野にいた頃の倉橋日登美のことが何か分かるかもしれない……」