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「凄《すご》い……」
薄手のカーテンをさっと左右に開けると、宝石箱をひっくりかえしたような都心の夜景が眼下に広がっていた。
十九階という高層ならではの眺めだ。
彼女は思わず感嘆の声をあげた。
「凄いだろ。それが売りなんだよ、ここの」
タケルと名乗った少年は、冷蔵庫から冷えた缶ビールを二個取り出してくると、それを広々としたリビングのテーブルに置きながら、やや得意げに言った。
「バブル弾けてからは、この手のマンションには人が入らなくなっちゃったみたいだけどね。ここもがら空き状態。朝から墓場みたいに静かだよ」
「こんなところに一人で住んでるの? きみって何者? お金持ちのおぼっちゃまくん?」
振り返って、そう聞くと、
「ここに住んでるわけじゃないよ。家は別にある。ここはいわば親父《おやじ》の隠れ家さ」
タケルは缶ビールのプルトップを引き抜きながら言った。
「親父の隠れ家……?」
新宿に出て、ゲームセンターで少し遊び、映画を観たあと、「親と喧嘩して家出してきた。今夜は泊まるところがない」と嘘《うそ》をついて、それとなくホテルに誘った。二番目の「生き贄《にえ》」を誘うときに使った手だ。すると、「ラブホよりいいところがある」と言われて、連れて来られたのがこの超高級マンションだった。
そういえば、玄関には表札のようなものは一切出ていなかった。生活臭もなく、どこか秘密めいた匂《にお》いがする部屋だった。
「女との密会用に借りたんじゃないかな。でも、最近は、マスコミの目を気にして、使ってなかったみたい」
「マスコミの目って、お父さんは有名人?」
「まあね。ひょんなことからここのこと知ってさ、親父にほのめかしたら、おふくろへの口止め料代わりだと言ってここの合鍵《あいかぎ》くれた。おまえも適当に使えって」
「ずいぶん……」
彼女は呆《あき》れたように言った。
「物分かりの良いお父さんね」
「物分かりがいいというか」
タケルは皮肉めいた笑みを口元に浮かべた。
「マスコミに何か嗅《か》ぎ付けられたとき、スケープゴートにするつもりなんだろ、俺《おれ》のこと」
「スケープゴート?」
「身代わりってこと。あのマンションで女と密会していたのは、私ではなくて、浪人中の私の馬鹿息子です。そう弁解するためにさ」
「実の父親?」
「だと思うよ。顔似てるってよく言われるし」
「実の親がそんなことする?」
「あの親父ならするね。こんなこと、あいつにとっては朝飯前。利用できるものは何でも利用するやつさ。家族だろうが何だろうが。もっとも、政治家なんてあれくらいでなければ務まらない職業なんだろうけどさ」
「お父さんって政治家なの?」
「そ。国会議員。一応、大臣とかやってるんだぜ」
「大臣……」
「もうやめよう。くそ親父の話なんか」
タケルは辟易《へきえき》したように言うと、ソファから立ち上がった。
「シャワー浴びてくる」
そう言って、汗ばんだTシャツを素早く脱ぎ捨てた。上半身裸になったその身体《からだ》は、端正な顔からは想像もつかないほど引き締まって筋肉がついている。明らかに何らかのスポーツで鍛え上げられた身体だった。
「良い身体してるね。何かスポーツしてる?」
「まあ、いろいろ。今は、ボクシングをちょっと……」
「ボクシング? 偶然」
「偶然って?」
けげんそうに彼女の方を見た。
「わたしの……弟もボクシングやってるもんだから。将来は世界チャンピオンめざすなんて夢みたいなこと言ってるわ。ついこのあいだまではミュージシャンになるって言ってたんだけど……。なんで、ボクシングはじめたの?」
「なんでって、なんとなく。しいて言うなら、合法的に人殴れるからかな」
「でも、殴られることもあるでしょ?」
「殴らせないよ。顔は絶対に。モデルのバイトはじめたから、顔に傷つけたらやばいしね」
タケルはそう言って、両手の拳《こぶし》で顔をガードするような仕草をした。
「そんなことできるの? よっぽど強い?」
「今んところ、ガキのお遊びだもの。周りはよわっちい奴ばかし。プロになったら、こうはいかないと思うけどさ。いいんだ。プロになんかなる気はないし」
「将来は何になりたいの? お父さんの跡を継いで政治家とか?」
「まさか!」
タケルはツバでも吐きかねない見幕で言い捨てた。
「それだけはない。あんな糞《くそ》みたいなものになるくらいなら、その窓から下にダイビングして、脳漿撒《のうしようま》き散らしてくたばった方がましだね。それに、親父の跡は兄貴が継ぐともう決まってるし……」
「お兄さんがいるの?」
「こいつが絵に描いたようなエリートでさ。親父と同じ大学出て、今、親父の秘書やってる。親父も兄貴くらいの頃から、死んだ爺《じい》さんの秘書やってたっていうから、蛙の子は蛙ってことか。親父のかわいいコピーちゃんだよ」
「仲悪いの?」
「誰と?」
「お兄さんと」
タケルは天井を向いて大笑いした。
「仲は悪くないよ。喧嘩《けんか》ひとつしたことないし。というか、喧嘩するには、最低限、口きく必要があるだろ。兄貴とは、中学ん頃から口きいたことない。同じ屋根の下にいても、互いに互いを無視してるって感じ。すれちがっても目も合わせない。仲いいだろ?」
「男の兄弟なんてそんなもの? わたしは弟が可愛いくて可愛いくてたまらない。弟のためなら何でもできるような気がする。いざとなったら、自分の命だって差し出せる……」
「へえ? そんなもん? 兄貴だったら、弟のために命どころか舌出すのも御免だって言うだろうな。男と女じゃ違うのかな」
「うちが特別なのかもね。わたしが生まれ育った地方には昔から、おなり信仰と言って、女が自分の兄弟を霊力で守るという風習があるから。これ見て」
彼女はふと思い出したというように、ジーンズのポケットに手を突っ込むと、何か取り出した。真新しい守り袋だった。
「この中にわたしの髪の毛が入ってるの。女の力は髪に篭もると言われてて、髪の毛をお守りに入れて、兄弟に持たせる習慣があるの。前に渡したお守りが古くなったから、今度弟に会ったとき、渡してあげようと思って……」
「優しいんだな」
タケルはそう呟《つぶや》き、じっと彼女の方を見ていたが、
「あーあ。どうせなら、俺《おれ》も姉貴が欲しかったな。とびきり奇麗な、とびきり優しい姉貴が。きっと仲良くしたと思うよ」と残念そうに言った。
「……タケルって、どんな字書くの?」
「武士の武と書いてタケル。名前の付け方からして、どうでもいいって感じしない? 兄貴の方は、爺さんと親父の名前を一字ずつ貰《もら》って、信貴《のぶたか》ってご大層な名前なのにさ。まさに、新庄家のご長男として、一族の栄光と期待を一身に背負ってるって名前だわな」
「シンジョウケって……まさか」
彼女ははっとしたように言った。この少年の顔、誰かに似ている。どこかで見たような気がしていた。週刊誌、テレビ……。
「あなたのお父さんって」
そう言いかけると、少年の方が先回りして言った。
「新庄貴明。大蔵大臣の」