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蛇神3-10-3
日期:2019-03-25 23:08  点击:422
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 雲一つない紺碧《こんぺき》の空の下に、深いエメラルド色の海が広がっていた。
 アマミク神にまつわる霊地の一つであり、旧暦正月と八月には、「浜川拝み」と称する参拝客で賑わうヤハラヅカサの海岸も、今は人影はまばらだった。そんな海岸に照屋火呂は一人で佇《たたず》んで海を見ていた。
「……やっぱり、ここだった」
 蛍子は、姪《めい》に近づいて声をかけた。
「あ……叔母《おば》さん」
 火呂は振り向いて、かすかに笑顔を見せた。
「小さい頃、ここでよくサッチンと遊んだなあって思って……」
 火呂は眩《まぶ》しそうな目で海を見ながら言った。
 蛍子も姪と並んで、片手を額にあてて庇《ひさし》のようにしながら、海を見つめた。
 無邪気に歓声をあげて、海岸を駆け回る二人の幼い少女の姿が、まるで蜃気楼《しんきろう》のように、蛍子の記憶の中からたちのぼって、すぐに消えた。
 その一人はもうどこにもいない。
「これから豪と一緒に東京に帰るけれど……あなたは?」
 しばらく黙って海を見つめていたが、ふと我にかえったように、蛍子は言った。
「わたしはもう少しこっちにいる。もうちょっとおばさんのそばについていてあげたいし、今、帰っても、マスコミとかがまだ張り込んでいそうだから」
 火呂はそう答えた。
「そうね。そのほうがいいかもね……」
 昨日、ようやく、一希と祥代の合同葬儀が行われ、その席でかいま見た、知名淑子のうなだれ憔悴《しようすい》しきった顔を蛍子は思い出しながら言った。
 二人の子供をほぼ同時になくし、しかも、姉の方は、こともあろうに、世間を震撼《しんかん》させていた猟奇殺人の犯人だったと知った母の……。
 小さい頃から娘同然に可愛いがっていた火呂がそばにいれば、祥代の母も少しは慰められるだろう。
「……わたし、一体何をしていたのかな」
 海を見つめたまま、火呂はぽつんと言った。
「……え?」
「サッチンのこと。無二の親友だなんていって、一体、どこが親友だったんだろうね」
 自嘲《じちよう》するように火呂は笑った。
「サッチンだって、わたしに話したいことや相談したいことが一杯あったはずなのに……。いつも、自分のことばかり。こっちの悩みばかり一方的に話して、聞き役ばかりさせて。サッチンのことは何も聞いてあげなかった。大学をとっくにやめていたことも知らなかった……」
 蛍子は何も言えなかった。身近にいながら、祥代のことを何も知らなかったという点については、自分も全く同罪だと思った。
 頭が良くてしっかりした娘。いまどきの若い女性には珍しく、理想と目標をもって、着実にそれに向かって歩いている娘。
 そんな目でしか祥代を見ていなかった。
 あのような凶悪犯罪がまともな精神で行われたとはとうてい思えない。祥代の精神はどこか目には見えないところで病んでいたのだろうか。少なくとも、一緒に食事をしたり、話したりしたときには、そんな「異常」の匂《にお》いを彼女から嗅《か》ぎ取ることはできなかった。ただ、いつも、少し疲れているように見えただけだった。それも、学業とアルバイトの両立で忙しい毎日を送っているせいだとばかり思っていた……。
 祥代が生きていれば、精神鑑定でもして、彼女の心の中で何が起きていたのか探ることもできただろうが、あのような形で、自らを消滅させてしまった今となっては、真相は闇《やみ》の中に葬られてしまった。
 動機については、重傷を負いながらも奇跡的に回復したという被害者の少年の話と、祥代の部屋から出てきた、大学ノートに書かれた日記のようなものから、憶測するしかなかった。
 その内容からすると、一年浪人してまで入った医大を、祥代はどういう理由からか、誰にも告げずに、半年足らずで自主退学していた。祥代の両親もその事実を全く知らなかったという。
 退学の理由ははっきりとは書かれておらず、日記には、「今日退学届け出す」としか書かれていなかった。大学をやめたあとは、すぐに風俗店で働きはじめたらしく、「一千万たまった。あと五千万。フーゾクだけでは無理かも。ウリもしようか」などと書かれていたことから推察して、おそらく、いずれ海外で心臓移植を受ける予定になっていた弟のために、その費用を全額自分で調達するつもりだったのではないかと思われた。実際、祥代の預金通帳には、一千万以上もの大金が手付かずで眠っていたという。
 しかし、この風俗店でのアルバイトは、お金にはなっても、その代償として、彼女のプライドや夢や理想をずたずたに切り裂いていったことが、日記には、叫ぶように吐露されていた。
『今日、客の一人に説教された。キミ、こんなことしてたら、将来、幸せな結婚はできないよ、だって。幸せな結婚って何? あんたはしてるの? しててもこういうところに来るの? それとも、男は別なの? 教えてよ、クソバカ』
『聖母マリアも売春婦だった。だから、キリストには父親がいない。知ってた? バカ男ども。さあ、祈りなさい。マリアサマに祈りなさい。売春婦に祈りなさい』
『お医者さんごっこの最中に、わたし、ほんとうは女医の卵よって言ったら、客が死ぬほど笑った』
『太った主婦になるよりも、痩《や》せた売春婦になりたい。HAHAHA』
『崇高な目的のためならば、何でも許される』
『慈悲と破壊は対立しない。過剰な慈悲が破壊を生むだけ……』
『カラダを売って何が悪い? 目玉だって肝臓だって、お金のためなら売れるものは何でも売ればいい。あらゆるものに値段がついている。魂にだって……』
 日記には、さらにこんなことも書かれていた。
『今日、とうとう、左胸の上に刺青《いれずみ》を入れた。火呂の胸にあるのと同じ、蛇のうろこ模様。わたしも聖なる蛇になった。アマミクの僕《しもべ》として永遠の忠誠を誓うために』
 火呂の話では、子供の頃から、祥代は火呂の胸の痣《あざ》に異様なほど関心をもっていたという。祥代の家で一緒にお風呂《ふろ》に入ったときなど、飽きずにしげしげと眺めたり、指でそっと触れたりして、「わたしもこんな痣が欲しいなあ」などと口走ることもあったらしい。
 日記の日付から見て、おそらく、祥代は、最初の事件を起こす四カ月ほど前に、彫師のもとを訪れて、あのような刺青を入れたようだった。
 祥代の日記には、さらに、こんなことが書いてあった。
『火呂が羨《うらや》ましい。火呂はきっとまだバージンだ。いまだに純白のままの火呂が羨ましい。子供の頃のままの穢《けが》れを知らない火呂が羨ましい。わたしだけが穢れていく。身も心も、どす黒い闇の中に堕ちていく。だから、こっそり、火呂のことを憎んでいる。ウリをするとき、火呂の名前を使って、火呂の振りをするのはそのためだ。真っ白なままの火呂をそっと穢して、わたしのいるところまで堕とすため……』
「じゃ、わたし、そろそろ行くから……」
 蛍子はそう言うと、まだ海を見つめている姪を海岸に残して歩きはじめた。
 ふいに歌声が聞こえてきた。
 振り返ると、火呂が歌っていた。
 それは、船出する兄弟の船の舳先《へさき》に、おなりの魂が白鳥の姿になって止まっているという、沖縄に古くから伝わる民謡だった。
 祥代が被害者の心臓を捧《ささ》げたという紺碧の海に、女神アマミクが最初に降臨したというヤハラヅカサの海岸に、火呂の澄み切った伸びやかな歌声が吸い込まれていく……。
 蛍子は思わず足をとめ、姪の声に聴きいった。
 久しぶりに聴く声だった。
 火呂の声が清浄な火となって、あらゆる穢れを焼き祓《はら》っていく。
 祥代の穢れも、蛍子自身の中に密かに潜む穢れも……。
 ふと、虚空《こくう》に幻の船を見た気がした。
 知名一希の幼い魂を乗せた船が、その舳先に一羽の白鳥を従えて、真っ青な空の果てをどこまでも漂っていく幻を……。
 今こそ、祥代は、聖なる蛇になったのかもしれない、と蛍子は思った。
 純白に輝く翼ある蛇に。

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