1
平成十年、十月八日。木曜日の夜九時すぎだった。
喜屋武蛍子《きやんけいこ》は、幾分ブルーな気分を奮いたたせるようにして、その雑居ビル内にある小さなバーの扉を引いた。
店の名前は、「DAY AND NIGHT」
看板の明かりは消えていたが、営業中であることは分かっていた。看板の明かりを消しているのは、あまり商売っ気のない、ここのマスターが飛び込み客の相手をする気のないときによくやる手口で、気心の知れた常連さんだけどうぞという「合図」でもあった。
海底を思わせるマリンブルーの照明が仄《ほの》かに灯《とも》る、カウンターしかない狭い店内には、案の定、客の姿はなかった。
白髪頭の老マスターが、カウンター内に設けた小さな椅子《いす》に腰掛け、時折ポツポツと針の飛ぶ音のする、古いアナログのレコードを聴きながら、独り、パイプをくゆらせているだけだった。
低音量でかかっているのは、映画『カサブランカ』のテーマ曲としても名高いバラッド「時のすぎゆくまま」である。
蛍子の姿を認めると、ぼんやりと物思いに耽《ふけ》っていたように見えたマスターは、口からパイプをはずし、はっとした顔で立ち上がった。
腰の高いスツールに座り、軽いカクテルを注文したあとで、ああ、そういえばと蛍子は思い出していた。五年ぶりでこの店に来たときも、この曲がかかっていたっけ。あれは八月の半ば頃だっただろうか……。
そのとき、ちょうど今蛍子が座っているスツールに、伊達浩一の背中があった。
伊達は蛍子の別れた恋人だった。ある人の身元調査を依頼するために、小さな探偵事務所を構えていた元恋人と五年ぶりで再会したのだった。
その伊達が忽然《こつぜん》と姿を消して、一カ月以上になる……。
「伊達さんから何か連絡ありました?」
慣れた手つきでシェーカーを振っているマスターに蛍子は尋ねた。
「いや、何も。そちらは……?」
マスターは浮かぬ顔で言った。蛍子も硬い表情で首を横に振った。
「一体……どこへ行ってしまったんでしょうねえ」
マスターは、淡いピンク色のカクテルをグラスに注ぎながら、肺腑《はいふ》から絞り出すようなため息とともに呟《つぶや》いた。
「私も心当たりのある所は全部当たってみたんですがね。駄目です。全く何の手掛かりもつかめません」
そう言って、ピンク色のカクテルをすっと蛍子の方に差し出した。
伊達から聞いた話では、彼の亡父の旧友であるここのマスターとは子供の頃からの付き合いだということだった。とすれば、老マスターにとっては、彼は単なる常連客というよりも、息子にも似た存在だったに違いない。
伊達の安否を気遣う老マスターの顔には、営業用とは思えない沈鬱《ちんうつ》な色があった。
「確か……奥さんの話では、九月四日の足取りまでは分かっているということでしたね?」
やや間があって、マスターが確認するように尋ねた。
「ええ、そうらしいんです……」
蛍子は頷いた。
伊達の妻、かほりの話では、伊達が、「仕事で信州に行ってくる」と言い残して家を出たのが、九月二日の朝だったという。そのとき、伊達は、「二、三日、滞在してくる」と言っていたというのだが、一週間が過ぎても帰って来なかった。連絡も入らない。業を煮やして夫の携帯にかけてみても、「電源が切られている云々《うんぬん》」のメッセージが流れるばかりで、一向につながらない。
心配になったかほりは、夫が経営する探偵社に連絡を取った。スタッフの話から、伊達が古い友人の依頼で何か一人で調べていた事が分かった。その友人というのが女で、どうやら元恋人らしいと気づいたかほりは、神田の出版社に勤める蛍子の元に夫の行方を問い合わせてきたのである。
伊達の行き先が「信州」であると聞いた蛍子は、すぐにそれが「日の本村」ではないかと直感した。前夜会ったとき、伊達が、長野県にあるその村を訪ねるつもりだと言っていたからだった。この店で伊達かほりと会い、そのことを告げると、かほりは幾分安心したような顔になり、「日の本村の旅館を調べて連絡してみる」と言い、その場は別れたのだが……。
それから一週間ほどして、蛍子の元に伊達かほりから連絡が入った。あのあと、警察に捜索願いを出したこと、そして、捜査の結果、確かに、九月二日の午後、「伊達浩一」と名乗る男性が日の本村を訪れていたことが確認できたのだという。ただし、伊達が泊まったのは、村に一軒しかないという旅館ではなく、宿泊施設も兼ねている「日の本寺」という寺であったらしい。
そして、関係者の話から、伊達が、九月四日の朝、寺を出たこと、しかも、途中、たまたま村長の車に出会って、同乗させてもらい、長野駅の手前で車を降りたということが分かった。
つまり、日の本村の住職や村長などの証言から、九月四日の午後までの足取りは確認できたということだった。ところが、長野駅の前で村長の車から降りたあとの伊達の行方がまるでぷつんと断ち切られたように途絶えていた。
「村長さんたちの話では、主人はこのまま東京に帰ると言っていたそうです。だから、車から降りたあとは、まっすぐ東京行きの新幹線に乗ったはずなんですが……」
伊達かほりは今にも泣き出しそうな声で電話口でそう言った。
今のところ、蛍子に分かっているのはこれだけだった。あれから伊達かほりからは何の連絡もない。何か分かったら連絡すると言っていたから、連絡がないということは何の進展もないということなのだろう。むろん、蛍子の携帯に伊達本人から連絡が入ることもなかった。
日の本村を出たあと、伊達は、自らの意志で失踪《しつそう》したのか、それとも、東京に帰る途中、何らかの事故か事件に巻き込まれたのか、それすらも分からないまま、時だけがむなしく過ぎようとしていた。
「日の本村を出たあと、彼に何があったのか……」
蛍子は呟くように言った。
「ただ、一つ言えることは、家庭や仕事のことで何かあったとしても、浩ちゃん———いや、伊達さんが家族を捨てて、自分の意志で姿をくらますような人間ではないということです」
老マスターが自分自身に言い聞かせるようにきっぱりと言いきった。
「そうですね。わたしも彼はそんな無責任な男ではないと思います」
蛍子も同意した。
伊達かほりの話では、夫が家庭に不満をもっているようには見えなかったということだし、たとえ、妻が気づかなかっただけだとしても、聞くところによれば、伊達の二人の子供は上がようやく二歳になったばかりで、下はまだ一歳にもならない乳飲み子だという。そんな幼い子供を捨てて、自分の意志で失踪したとは思えなかった。
それに、もし、家庭に何か不満があって失踪したのだとしても、それならば、妻に連絡はしなくても、探偵社のスタッフには連絡を入れるだろう。伊達はいわば所長ともいうべき存在なのだから。それなのに、探偵社の方にもあれ以来何の連絡もなく、スタッフも困惑しているようだという。
「だから、考えられるのは、やっぱり、東京に帰る途中で何か予期せぬ出来事が彼の上にふりかかったとしか———」
蛍子がそう言いかけたとき、店の扉が開くような音がした。蛍子を見ていたマスターの視線が扉の方に移った。
客かと思って振り向くと、開きかけた扉の陰から、おそるおそるというように顔を覗《のぞ》かせていたのは、噂《うわさ》をすれば影とでもいうべきか、伊達かほりだった。