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自宅マンションに辿《たど》りついたときは、既に零時をすぎていた。蛍子は足元をふらつかせながら、パンツスーツのポケットから鍵《かぎ》を取り出して、それでドアを開けた。
「ただいま……」
玄関で声をかけたが返事はない。高校生の甥《おい》と同居しているのだが、ガラスドア越しに見えるリビングの明かりが消えているところをみると、まだ帰ってきてはいないらしい。玄関の明かりをつけると、三和土《たたき》には、甥の豪がいつもはいているスニーカーがなかった。
そういえば、朝方、出掛ける前に、学校帰り、姉の火呂《ひろ》の新居に寄ると言っていたから、まだ姉のマンションにいるのかもしれないと蛍子は思った。
二十歳になる姉の火呂も、七月の半ば頃までここで同居していたのだが、幼なじみの親友と暮らすといって出て行った。しかし、あの事件が起きて(「翼ある蛇」参照)、関係者ということでマスコミの取材がうるさくなったことと、ルームメイトと折半にするはずだった2LDKのマンションの家賃を一人では払えないということで、借りたばかりのマンションを引き払って、ここに戻ってきていたのである。
しかし、やはり一人暮らしの夢が捨て切れなかったらしく、先日、ワンルームの手頃な物件が見つかったということで引っ越したばかりだった。
蛍子は、甥がいないことにむしろほっとした思いで、明かりもつけずにリビングのソファに倒れ込むように横になった。久しぶりに酒に酔ったようだった。いや、酒ではない。軽いカクテルを三、四杯飲んだくらいではこんな酔い方はしない。あの老マスターの言葉に酔ったというべきだった。
「あの日、彼は一時間も前に来て、あなたが来るまで、繰り返し聴いていたんです。この曲ばかりをね……」
マスターはそう言った。その言葉が、伊達浩一が繰り返し聴いていたというバラッドの曲調と共に頭にこびりついて離れなかった。マスターが呼んでくれたタクシーの中でも、あの曲が無限ループをするように、頭の中でずっと鳴り続けていた。
どうして、わたしたちは別れたのだろう……。
闇《やみ》の中に身を横たえ、蛍子は思った。
それは、五年前、伊達と別れたあと、時折、烈《はげ》しい後悔の念と共に、蛍子を苛《さいな》みつづけてきた疑問でもあった。
思えば、別れる理由など何もなかった。お互いが嫌いになったわけでも飽きたわけでもない。どちらかに他に好きな相手ができたわけでもなかった。
それなのに、別れてしまったのは、伊達と蛍子が似たもの同士だったせいかもしれない。どこか性格が似ている。だから、最初の出会いからひかれ合い、性別を越えて理解し合えたのだが、同時に、似た者同士のカップルというのは、あることに対して、同じような反応をしてしまうという最大の欠点がある。
たとえば、それは、下手なワルツのようなものだ。相手が足を一歩前に出したら、自分は一歩引かなければならない。相手が引いたら、すかさず前に出る。そうやってこそ、ワルツは続く。
でも、伊達と蛍子はそうではなかった。一方が足を前に出すと、もう一方も負けじと前に出す。引くということをしない。そのくせ、相手が引くと、今度は自分も同じように引く。意地の張り合いというかエゴのぶつけあいというか、全く同じ反応をしてしまうのである。しかも、自分が相手に合わせるのではなく、相手が自分に合わせることを求めている。これではワルツは続かない。互いに見つめ合ったまま立ち往生するしかない。ワルツを続けたければ、コンビを解消するしかないではないか。
だから、二人はコンビを解消し、伊達は、数年後、新しいパートナーを見つけてワルツを続け、蛍子の方は、いまだにその相手を探している……。
もし、あのとき、と蛍子は闇の中で思った。
自分が少々強引な伊達のプロポーズを受け入れていたら、二人の間でたどたどしいワルツは今も続いていただろうか。
続いていたかもしれないし、やはり駄目だったかもしれない。
もし、あのまま、伊達の要求通りに彼と結婚して、仕事をやめて家庭に入っていたとしたら。そして、すぐに子供でも出来ていたとしたら。家庭に引きこもって夫と子供の世話をするだけの日常に、自分はいつまで耐えられただろうか。
頭の中で自分が選ばなかったもう一つの人生をシミュレーションしてみた。夫と子供だけを見つめる生活に、自分は満足できただろうか。それを「女の幸福」などと思えただろうか。いや、わたしは満足できなかっただろう。きっと、選ばなかった方の人生をやはりこうして一人思い描いて、後悔の念に苛まれたような気がする。
どちらに転んでも、自分は後悔した。烈しく後悔したはずだ。なぜなら、食べてしまったお菓子はいっとき甘いだけであり、食べなかったお菓子は永遠に甘美であり続けるのだから……。
どちらに転んでも後悔するならば、それならばいっそ、もう後悔するのはやめようと蛍子は思った。
少なくとも、こちらの後悔は、自分の愚かさを嗤《わら》うだけで済むが、もし、伊達と共に生きることを選んで後悔したとしたら、そんな人生を選ばせた彼に、すべての責任を転嫁して、彼をも恨んでしまっていたかもしれない。実際、自分で選んだ人生にもかかわらず、他人に責任転嫁して愚痴や文句ばかり言っている人達は、蛍子の周りにも掃いて捨てるほどいる。そういうのは嫌だ。そうならなかっただけでも、こちらの方がまだましだった……と。
なんだか、イソップの話に出てくる哀れなキツネの「あのブドウはすっぱいんだ。だから、食べなかったんだよ」という負け惜しみにも近いような気もしたが……。
そのとき、玄関の方でガチャとドアの開くような音がした。豪が帰ってきたらしい。
蛍子は、目尻《めじり》を伝っていた涙を慌てて手の甲で拭《ぬぐ》うと、ソファから起き上がった。酔いはいつのまにか醒《さ》めていた。
わたしはこんなときでも、泣きじゃくることさえできない。あの店で、子供のように身も世もなく泣きじゃくっていた伊達の妻がつくづく羨《うらや》ましかった。
でも……。
その彼女も、きっとうちに帰れば、幼い子供たちの前では涙ひとつ見せない気丈な母の役を演じているのだろう。ちょうど今、自分が、甥にこんな姿を見せまいと慌てて起き上がったように。
「あれ。なんだ、帰ってたの」
リビングに入ってきて、戸口近くの照明スイッチを押した豪は、ソファに叔母《おば》の姿を発見すると、驚いたように言った。
「外から見たら明かりついてなかったからさ、まだ帰ってないかと思った」
「へへ。ちょっと酔っ払ってうたた寝してたのよ」
蛍子は赤くなった目の言い訳をするように、手でこすりながら言った。
「叔母さんもさあ、いいかげんに結婚したら? なんかさ、いい歳した独身女が一人で酔っ払ってソファで寝こけてる図って、あんまりみっともいいもんじゃないぜ」
豪は、冷蔵庫からペットボトルを取り出しながら、さっそく憎まれ口をたたいた。
「今ならまだイカズ後家ですむけど、あっと言う間にイケズ後家になっちまうぞ」
膝《ひざ》を使って冷蔵庫の扉を閉めながらさらに言う。
「大きなお世話よ」
蛍子はむかっとして言い返した。
「それより、あんた、脚で冷蔵庫の戸を閉めるの、何度言ったらやめるのよ? ペットボトルの水は口つけて飲むなって何度言ったら分かるのよ。あんたのばい菌だらけの唾《つば》のついた水をわたしにも飲めって言うの?」
「どうやら逆鱗《げきりん》に触れたようで」
豪は首をすくめてそう呟《つぶや》くと、そのまま口に運びかけていたペットボトルの水を渋々グラスに移して飲んだ。
「火呂のところに寄ってたの?」
そう聞くと、豪はうんざりしたような顔で頷《うなず》いた。
「行くんじゃなかった。待ってましたとばかりにこき使いやがって。あれ運べだの、これ動かせだの。ようやく運んだ糞《くそ》重いタンスの位置が気に入らないって言って、こっちに動かせっていうから、エッチラオッチラ移動させたら、やっぱり前の方がよかった、元に戻せってこうだぜ。俺《おれ》は奴隷か?」
「どうせ体力しか自慢できるものはないんだから、そういうときに役立たなくて、いつ役に立つのよ」
さっきのお返しとばかりに意地悪く言うと、
「叔母さんと姉ちゃんって、やっぱ、血つながってんじゃない? 姉ちゃんも全く同じことぬかしやがった。おまけにこき使われて汗かいたから、シャワー借りようとしたら、水道代と光熱費がもったいないから、とっとと帰ってうちの風呂《ふろ》に入れだと。人をこき使えるだけ使ったあとで、シャワーすら使わせてくれないんだからな。あんなの姉貴でも何でもないや。ただのドケチのサド女だ」
豪はぷんぷんしながら言った。
「ちょっと遅いけれど、お風呂でも沸かす?」
蛍子が時計を見ながら言うと、豪は首を振った。
「面倒くさいからいいや。俺、もう寝る。くたくただもん」
豪はそう言うと、心底疲れたという顔でリビングを出て行った。