日语学习网
蛇神4-1-4
日期:2019-03-26 22:17  点击:314
     4
 
 シャワーだけ浴びて、パジャマに着替えてから、部屋に戻ってくると、蛍子はノートパソコンを取り出した。ここ数日メールチェックを怠っていたことを思い出したのである。
 電源を入れ、回線をつないでからメールチェックしてみると、何通かのダイレクトメールに混じって、沢地逸子からメールが来ていた。某私立大学文学部の助教授で、英米文学の翻訳家である沢地とは、イギリスの女性作家の小説の翻訳を依頼して以来の縁で、この夏に、沢地が自分のホームページに連載しているコラムの単行本化の企画が決まり、蛍子がその担当をまかされていたのである。
 しかし、そのコラムの載ったホームぺージは、掲示板への奇妙な投稿ではじまった、あの猟奇殺人事件がらみでしばらく閉鎖していた。
 ただ、ホームページは閉鎖しても、「太母神」をテーマにしたコラムの方は暇を見て書き続けていると沢地からは聞いていた。そして、いずれ、事件のほとぼりがさめて、ホームページを再開するときがきたら、まとめてアップするつもりであると。
 沢地逸子のメールを開いてみると、「ホームページを再開することにした。今度は荒らし対策もバッチリやったから大丈夫」という旨の内容が記されており、末尾に、新しいホームページのアドレスらしきものが貼《は》り付けられていた。
 犯人の自殺で幕をおろしたあの事件から、ようやく一カ月がたとうとしていた。マスコミの関心もさっさと別の事件に移ったようで、テレビのワイドショーや週刊誌等でも殆《ほとん》ど取り扱われなくなっていた。それで、事件のほとぼりがさめたと判断して、ホームページの再開に踏み切ったものらしかった。
 意外に早く復旧したなと思いながら、蛍子は、メールの末尾に貼り付けられていたアドレスをクリックした。メールチェックだけしたら寝るつもりだったが、新しくなった沢地のサイトをちょっと覗《のぞ》いておこうと思ったのだ。ひょっとしたら、コラムにも新しい項目が加えられているかもしれない。そうも思った。
 アクセスしてみると、蛍子の勘は当たっていた。
「太母神の神殿」というタイトルも、コラム、日記、著作リスト、プロフィール、掲示板の五項目で成り立っている全体の構成も以前と変わってはいないようだったが、コラムのコーナーに、新しい項が増えたことを示す「new」というマークがついていた。
 時計を見ると、もう午前一時をすぎていた。少し迷ったが、それほど長いようでもなかったので、蛍子はそれを読んでみることにした。
 
     ※
 
 諏訪《すわ》信仰について
 
 信濃国《しなののくに》の一宮《いちのみや》である諏訪大社《すわたいしや》といえば、日本全国に一万を超すという諏訪神社の総本山であり、古来より出雲《いずも》大社や伊勢《いせ》神宮と並ぶ大社である。
 その社は、男神《おのかみ》タケミナカタノミコトを祀《まつ》る上社《かみしや》と、后神《きさきがみ》ヤサカトメノミコトを祀る下社《しもしや》に分かれ、さらに、上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮とに分かれて、しめて、四つの社が諏訪湖をぐるりと囲むようにして鎮座している。
 俗に「お諏訪さま」と呼ばれる諏訪神といえば、上社の祭神であるタケミナカタを指す。
 この神は、古事記によれば、元は出雲の出身で、大国主《オオクニヌシ》の子であるという。それがなぜ、諏訪神として祀られるようになったかというと、古事記にこんなエピソードがある。
 天照大神《アマテラスオオミカミ》の使いだというタケミカヅチが出雲にやってきて、オオクニヌシに国譲りを迫ったとき、オオクニヌシは、二人の息子に国譲りの件を相談した。すると、温和な性格の兄のコトシロヌシは、国譲りに賛成する旨の発言をするが、気性の荒い弟のタケミナカタは、国譲りに反対して、タケミカヅチに「力比べ」を挑む。しかし、力自慢だったにもかかわらず、タケミカヅチにあっさり敗北したタケミナカタは、出雲から逃げ出し、諏訪の地に辿りつく。このとき、追いかけてきたタケミカヅチに、「この地からは一歩も出ないから殺さないでくれ」と命乞《いのちご》いをして許してもらい、それからは、諏訪の神として暮らすようになったという、少々情けない逸話である。
 もっとも、この話は、日本書紀や出雲国風土記等には記されていないことから、出雲地方土着の伝承というより、大和朝廷にとって都合の良いように、後で「捏造《ねつぞう》」された可能性が高いといわれている。
 タケミナカタについては、もう一つ、逸話がある。それは伊勢国風土記に記されたエピソードで、ここでは、タケミナカタは出雲の出身ではなく、伊勢の出身ということになっている。しかも、当地では、名前も伊勢津彦と名乗っていた。が、やはり、神武東征の折り、彼《か》の地に侵入してきた神武の軍隊に敗北した伊勢津彦は、「東国に行く」と言い残し、大風をおこして、昼のごとく輝いたかと思うと、波に乗って東方に去ったという。この伊勢津彦も、別名を「櫛玉命《くしたまのみこと》」とか「出雲建《いずもたける》」などと言われ、オオクニヌシの子であるとされていることから、これが後に諏訪に至り、タケミナカタになったのだという説もある。
 どちらにせよ、「敗北神」として故郷を追われたタケミナカタではあったが、諏訪の地に来てからは人が変わったように強かった。
 彼の地の国津神《くにつかみ》であったモリヤ神と戦い、今度は大勝利をおさめるのである。このときの戦いの様子が、「諏訪大明神絵詞」などでは詳しく語られている。両者は、天竜川のそばで、「力くらべ」をして勝敗を決した。モリヤは鉄の輪を武器として使い、タケミナカタは藤の蔓《つる》を武器として使ったという。
 結局、タケミナカタが勝利し、諏訪大神として君臨することになるのだが、タケミナカタは、敗者であるモリヤを追い払うようなことはせず、そのまま、その地に住むことを許しただけでなく、神を祀る「神《かん》の長《おさ》」という重要な神職まで与えたという。
 それで、現在に至っても、諏訪信仰を支える神官の家系には、この諏訪大神タケミナカタの子孫とされる家系(神《みわ》氏のちの諏訪氏)と、モリヤ神の子孫とされる家系(守矢氏)とがあるらしい。
 それはさておき、タケミナカタもヤサカトメも、共に蛇神であるという言い伝えがある。この夫婦《めおと》神が一つの社に「同居」せずに、別々の社に「別居」して暮らしているのは、互いの気性が荒すぎて(蛇神は荒神《こうじん》とも言われ、気性が荒いとされている)一緒にいると喧嘩《けんか》が絶えないからだと、地元ではまことしやかに語られている。
 ちなみに、諏訪の七不思議と言われる自然現象の一つに、冬になると、諏訪湖の水面が凍り、その凍った水面の上に、一本の道のような氷の割れ目ができる現象があるが、それは「御神渡《おみわた》り」と呼ばれ、男神が別居中の女神に会いに行くための「恋の通い路」であると言われている。
 古事記や伊勢国風土記には、タケミナカタが蛇神であるという記録は見られないが、かろうじて、タケミナカタが蛇神ではないかと推測される事柄としては、国津神モリヤと戦ったとき、タケミナカタは、武器として藤の蔓を使ったという話がある。「藤の蔓」とは、その形状から、しばしば蛇を暗示する植物なのである。
 ところで、このタケミナカタ神話をフォークロア化したような有名な民話がある。あの甲賀三郎地下国巡りの話である。
 
 甲賀三郎の地下国巡り
 
 甲賀三郎の話といえば、神道集や御伽草子《おとぎぞうし》などをルーツとする異説が幾つもあるが、ここではその一つを簡単に紹介しよう。
 
 昔、近江《おうみ》の国の甲賀郡に一人の地頭がいた。この地頭には三人の息子がいたが、末っ子の三郎に総領を譲った(昔は末子相続であったらしい)。
 三郎は、その後、大和の地頭の娘、春日姫と結婚し、ある日、妻と二人の兄を伴って、伊吹山《いぶきやま》で狩りをしていたとき、春日姫が天狗《てんぐ》にさらわれてしまう。
 妻を求めて、諸国の山々を訪ね歩いた結果、信州|蓼科《たてしな》の地下国で妻に巡りあうが、妻は秘蔵の鏡「面影」を天狗の住処《すみか》に忘れてきたと訴え、三郎は、二人の兄に姫を託して、その鏡を取りに戻る。ところが、美しい弟の妻に懸想していた二人の兄に裏切られて、地上に出られる綱を切られてしまった三郎は、一人、地下国に取り残されてしまう。
 こうして、三郎の地上への出口を求めてさすらう長い旅がはじまる。73の人穴を通り、72の国を遍歴した結果|辿《たど》りついたユイマン国で、その国王の娘と結婚する。その国から、ようやく地上(信濃《しなの》の浅間山)に出られたのだが、長い地下生活のためか、三郎の身体は蛇になっていた。
 しかし、石菖《せきしよう》を植えた池の水に入り、呪文《じゆもん》を唱えることで脱皮して、三郎は人間の姿に戻ることができた。やがて、故郷に帰った三郎は春日姫と再会し、妻と共に、中国の南方にある平城国《へいじようこく》に赴き、そこで神道の法を授かり、帰国してからは、妻と共に諏訪大社に祀られ、諏訪大明神となった。
 
 とまあ、ざっとこんな話なのだが、三郎が地下国をさまようことになったきっかけは、ここでは狩りに同行していた妻が天狗にさらわれたのを取り戻すためとあるが、別のバージョンでは、二人の兄と山で狩りをしている最中に、山の神である大蛇に出会い、三郎はこれを殺してしまう。すると、蛇の祟《たた》りを恐れた二人の兄が、三郎をなきものにしようとして人穴に突き落としたとある。地下国をへめぐって、ユイマン国に辿りつき、そこから地上に出て、地上に出たときには蛇体になっていたという点は同様である。
 その後、蛇の姿のまま、故郷に戻った三郎は、妻子が供養のために作った観音堂(あるいは釈迦堂《しやかどう》)の縁の下に籠《こ》もって、呪文を唱えると、人間の姿に戻ったという。
 何やら、日本神話のオオクニヌシの話を連想させるようなところもあって、この甲賀三郎の話は実に興味深いが、それは、後でおいおい考察するとして、諏訪信仰のことに話を戻そう。
 
 諏訪大社の祭り
 
 諏訪大社には実に祭りや神事が多い。聞くところによると、上社では年間111度、下社では84度もの祭事が行われるという。その数多い祭事の中でも、とりわけ有名なのは、日本三大奇祭の一つとしても知られる御柱祭《おんばしらさい》だろう。
 御柱祭とは、諏訪大社四宮のそれぞれ四隅に建てられた御柱16本を七年ごとに建て替える神事で、五丈五尺(約16メートル弱)の樅《もみ》の木16本を山から切り出してくる作業過程では、時には怪我人《けがにん》や死人まで出るという荒祭りとして、日本だけでなく海外にまで知れわたっているようだが、この16本の御柱の意味はいまだに謎《なぞ》に包まれている。
 一説には神霊が寄り付く柱であると言い、一説には、神地境界を示すものであるともいう。
 しかし、謎めいた荒祭りといえば、この御柱祭以上に謎めいた神事が諏訪にはある。それは、御頭祭《おんとうさい》と呼ばれる神事である。これは、上社前宮で年に一度、旧正月三日(現在では四月十五日)の酉《とり》の日に行われる、いわば春祭りである。
 ちなみに、この上社前宮というのは、今でこそ四社のうちで一番規模が小さく、観光客もここまでは足を運ばないような地味な社であるが、諏訪大神第一の鎮座地といわれ、昔は本宮よりも栄えていたという。諏訪信仰を語る上で、けっしてないがしろには出来ない社である。
 この神事が謎めいているのは、古来、神事の一切を取り仕切ってきた神長《かんなが》こと守矢氏が、神事にまつわる事を、「秘すべし、秘すべし」といって、文書にはせず、それを子孫に伝えるときも、一子口伝《いつしくでん》といって、北窓一つの昼なお暗い祈祷殿《きとうでん》に籠《こ》もって、親から子へ、一対一の口移しで伝授するという、徹底した秘密主義を貫いて外部に漏らさなかったためである。
 それでも、鎌倉中期頃から、神長の日記などにより、ようやく文字として残るようになり、やがて、明治八年、子に恵まれなかった神長が大祖先以来の口伝を初めて記録した。これが「守矢系譜」なるものであるという。
 それによると、この神事の中心をなすのは、「お公《こう》様」と呼ばれる大祝《おおほうり》で、大人ではなく幼童であったそうな。古くは、諏訪大神の子孫とされる神氏(後の諏訪氏)の血を引く十歳前後の男児が選ばれていたが(当初は六童子、中世においては二童子、近世では一童子になった)、後には、下級神官の子供や乞食《こじき》の子を拾い上げて、この役に据えることもあったという。
「お公様」に選ばれた男児は、上社前宮にあった神殿《ごうどの》と呼ばれる屋敷にこもり、30日間、潔斎したあと、生き贄《にえ》の鹿肉を食し、神長の手で、ミシャグチ神なる神霊をこの男児におろす作法が行われる。このとき、「お公様」は、神事に参加した人々の髪の毛を巻き付けた榊《さかき》を束にした「御杖《みづえ》」をもち、「佐奈伎《さなき》の鈴」と呼ばれる鉄の鈴を首にかけ、神長が祝詞《のりと》をあげて、八柏手《はちかしわで》うつという。
 こうして、ミシャグチ神なる神霊と一体化して「現人神《あらひとがみ》」となった「お公様」は藤の蔓《つる》で身体を縛られ、馬に乗せられ、前宮の西南の庭を、興奮した参詣人《さんけいにん》らに打擲《ちようちやく》されながら引き回された。そして、祭りが終わったあと、馬の背には既に「お公様」の姿はなかったという……。
 それはまさに、神事の名のもとに、大の大人がよってたかって、まだ幼い子供を虐待死させるような荒祭りであったようだ。神長たる守矢氏が、「秘すべし」といったのも当然のような気がする。やがて、この神事のことは、仏教政策を推し進めていた時の幕府の知るところとなり、厳しい取り締まりを受けるようになったようだが、その監視の目をかいくぐって、少なくとも天文年間頃まで極秘で続けられた旨が武田氏の残した記録にあるという。
 このような、いわば「神殺し」ともいうべき奇怪で血腥《ちなまぐさ》い神事がどのような理由のもとに行われ続けたかは(研究者の中には、これを陰陽五行の思想で説明する人もいるが)明らかではなく、御柱の意味同様、いまだに神秘のベールに包まれているようだ。ただ、ここで、一つ気になるのは、「お公様」と呼ばれる幼童におろされるミシャグチなる神霊のことである。
 一説によると、上社で行われる年に111度もの神事の殆《ほとん》どが、実は、このミシャグチ神を祀《まつ》る神事であり、この神こそが、タケミナカタが諏訪入りする以前、はるか縄文の大昔からこの地で信仰され続けてきた真の「諏訪神」であるともいう。また、諏訪大社四宮を囲むあの16本の御柱も、このミシャグチ神をおろすための柱であるとも言われている。
 一体、ミシャグチ神とはいかなる神だろうか?
 
 ミシャグチについて
 
 一般には、ミシャグチ神とは、タケミナカタやヤサカトメのような人格神ではなく、人間に憑依《ひようい》して託宣などをする自然神あるいは山の神であると考えられてきたようだ。そして、その本性は、「蛇」しかも「赤蛇」であるという。
 ミシャグチが蛇神であることは、「御室《みむろ》神事」という、この神を祀る神事の一つを見ても分かる。極寒中は、諏訪大社前宮に穴倉を作り、この「御室」にミシャグチ神を移し、翌春の御頭祭までの神事をこの御室の中で執り行ったという。これは、まさに冬の間は、地面に深く穴を掘って冬眠する蛇の習性を模した神事のように見える。
 しかも、長い冬が終わり、春になって行われる「御頭祭」には、古くは75頭もの皮を剥《は》いだ鹿の生き贄が捧《ささ》げられたというのも、まるで冬眠から覚めた大蛇に、目覚めの獲物を与える儀式のようにも見える。
 また、目覚めといえば、この大々的な贄儀式に先立って、正月元旦には、諏訪大社上社において、「蛙狩《かわずがり》神事」なるものが執り行われるという。これは、上社前の御手洗《みたらし》川の氷を割って、赤ヒキガエルを取り、これを小弓で射てから丸焼きにして、「生き贄はじめ」として神に供えるというものである。
 こうした古くから伝わる神事を見ても、ミシャグチ神が蛇神であることは、ほぼ間違いないだろう。
 また、ミシャグチの当て字には、御作神、御尺神、御蛇口、御杓子、御石神、御射軍神、御社宮司などがあるというのだが、どれが正しいというより、これらの当て字のひとつひとつがこの謎の神の複雑な神格を物語っているようにみえる。
 たとえば、作神とは、年ごとに訪れてくる農耕の神のことで、これは、蛇神であるとも言われている。脱皮を繰り返して永遠に生きるように見える蛇の習性が、育っては刈られ、刈られては種を残してまた育つという穀物のそれと同一視されたからであり、また、蛇は、穀物を保存した倉をネズミなどの害から守ってくれると考えられていたためである。
 実際、昔は、穀倉をネズミの害から守るために、倉のそばに瓶《へい》などに入れた蛇を配置しておくこともあったそうな。
 ちなみに、神社などの社は、この穀倉が原型となってできたものだといわれている。神社に付き物のしめ縄や御幣が、実は蛇を模したもの(しめ縄は雌雄の蛇の交尾する様を、御幣は蛇の鱗《うろこ》を模したものとか)であるというのも、こうした穀倉を蛇に守らせていた習慣が後に形式化され神格化された結果であるのかもしれない。
 しかし、ミシャグチ信仰の起源はさらに古く、諏訪の地に稲作が広まる前から既に定着していたようでもある。つまり、人々がまだ稲作を知らず、狩猟や漁労などをして暮らしていた頃から、この神は信仰されていた。となると、単なる作神ではないようである。
 そこで気になるのが当て字の一つである「石神」と言う言葉。この「石神」とは、一説によれば、狩猟や漁労で得た動物や木の実を食物として加工するために使った石皿と石棒を神格化したものだという。さらに、こうした石棒と石皿をワンセットにして、男性器と女性器に見立て、これに豊饒《ほうじよう》や繁栄を祈る性神の意味もあったようだ。神社などによくある陰陽石のルーツでもあろうか。ミシャグチには、こうした狩猟時代の「石神」としての神格も古層にはあるようだ。
 しかし、それ以上に気になるのは、「杓子《しやくし》」という当て字である。杓子とはヒシャクのことだろうが、「御《み》杓子様」とヒシャクを神格化しているのである。これは一体どういうことだろうか。
 すぐに思いつくのは、この「杓子」とは、「酒」を汲《く》むための特別なヒシャクではなかったかということだ。現代でも祝い事のときなどはよく酒がふるまわれるが、古代においては、酒は日常的に飲むものではなく、非日常的な「晴れの日」にだけに神に捧げ、神と共に飲むものだった。こうしたことから、神酒《みき》を入れる瓶や、神酒を汲むときに使う柄杓《ひしやく》などの道具類も、神にまつわるものとして神聖視されたのである。
 蛇は穀神であると同時に水神でもある。そして、水神は、おおかたが酒の神でもある。ゆえに、神酒を汲むヒシャクを神格化して、「ミシャクジ様」と呼ぶのは十分考えられるのだが……。
 だが、「柄杓」と聞いて、もう一つ思い浮かぶことがある。それは、「柄杓」の形をした星のことである。つまり、七つ星がヒシャクのように並んだ北斗七星である。
 古来、大陸の遊牧民の間では、方角や時間を測ることができる星として、北極星や北斗七星を崇《あが》める習慣があった。古代中国にも、北極星や北斗七星を神格化した北辰《ほくしん》信仰なるものが古くからある。
 諏訪地方に最初に住み着いたのは、こうした北辰信仰をもつ大陸系の民族だったのではないだろうか? 実際、タケミナカタが諏訪入りする前から、彼《か》の地を支配していたとされるモリヤ氏の大祖先は、インドの東からコーカサスを越えてやってきたとも伝えられている。さらに、同じ信州の山である戸隠《とがくし》山の「戸隠」の語源は、「斗隠し」すなわち「斗が隠《やす》らぐ山」の意があるという。「斗」とは、むろん北斗七星のこと。
 ミシャグチ神とは、すなわち、北斗七星をさしているのではないか。
 また、ミシャグチを北斗星を神格化したものと考えた場合、ここでも、蛇とのかかわりが考えられる。北斗七星の姿は、柄杓に譬《たと》えられるが、蛇にも似ていないだろうか。北極星は古来、「子《ね》の星」と呼ばれてきた。「子」とは、鼠のことである。ちなみに、「子午線」とは、この「子の星」と「午《うま》の星」を結んだ線という意味である。その「鼠」である北極星の周りをまるで追いかけるように巡っている北斗七星の姿は、「鼠を追いかける蛇」のようにも見えなくもない。また、当て字の一つに「尺神」とあるのは、ミシャグチが、方角や時間を「測る」ことができる「計測」の星神としての神格を表すとともに、「尺」とは「長い」の意があることから、そこには、「長い虫」である「蛇」の意味もこめられているように思える。
 つまるところ、ミシャグチを表す当て字のそれぞれが、縄文期から近代に至るまでの、この謎《なぞ》の神の神格の変遷を如実に物語っているのではないか。
 狩猟や漁労を生活の中心にしていた縄文期には、尺神ないしは石神として、稲作を中心とした弥生《やよい》期には、作神として、そして、中世の戦乱期には、その荒々しい血を好む性格から軍神として。こうした長い時間をかけての神格の変化というか重層化が、この土着の神を謎めいた正体不明の神のように思わせてきたのかもしれない。
 前に書いた甲賀三郎の伝説のバージョンの一つに、三郎が狩りのときに山の神である大蛇を殺したとあるが、実はこの大蛇こそがミシャグチ神だったともいわれている。
 大蛇神を殺した祟《たた》りで、自らが蛇体化した三郎の話は、縄文系の古き蛇神であったミシャグチを倒して、その蛇の神格を取り入れ、新しき蛇神となったタケミナカタの神話ともうまく符合しているようでもある。
 ところで、ミシャグチの本性が「蛇」だとすると、年の始めに、その蛇の霊をおろした男児を馬に乗せて打ち殺すという不可解な神事の謎も少しは解けるような気がするのだが……。
 一年の始まりにおいて、「蛇を殺す」という儀式は、「古い蛇を殺すことで新しい蛇を蘇《よみがえ》らせる」、いわば「脱皮の儀式」であるように見えるからだ。
 前にも書いたが、出雲神話のハイライトともいうべき、あのスサノオノミコトがヤマタノオロチなる大蛇を剣でずたずたに切り殺したという伝説も、もともとは、「悪蛇を退治する」というより、「蛇を一度殺すことで蛇を蘇らせる」儀式だったはずである。
「悪蛇を退治」という概念は、「蛇を悪とみる」キリスト教や仏教の教えが世界を支配するようになってから広まったもののように思われる。
 それ以前の、蛇を作神ないしは穀神と見る信仰の背景には、「脱皮」によって不変に生き続けるように見える蛇の姿を、実っては刈られ、刈られても種を残してまた実るを繰り返す穀物の生態と同一視する思想があった。
 穀物の新たな実りを得るためには、一度その穀物を刈る(殺す)必要があるように、新しい蛇を生み出すためには、古い蛇を一度殺さなければならないと考えられたのである。
 
 ヤサカトメノミコトについて
 
 男神タケミナカタに関しては、古事記などにもそのエピソードが残されているが、下社の祭神である后神ヤサカトメノミコトに関してはどうだろうか。
 ヤサカトメノミコトとはどのような女神か。一説には、ヤサカトメも伊勢の出身(父親の名を八坂彦といい、伊勢の豪族だった)で、タケミナカタとは伊勢の地で結ばれ、諏訪には夫婦|揃《そろ》って乗り込んできたといわれている。
 あるいは、ヤサカトメの方はもとから諏訪の地に祀《まつ》られていた土着の女神で、タケミナカタが諏訪入りしてから夫婦になったという説もある。
 私としては、後者を信じたい。というのは、ヤサカトメのヤサカとは、漢字にすれば、「八坂」と書く。これは「八つの坂」という意味よりも、古代の「八」には、「多数」の意があることから、「坂の多い」という意味であるように取れる。
 ちなみに、古代においては、信濃は、「科野《しなぬ》」と呼ばれていたそうだ。この国名の由来は、科坂《しなさか》が多い国という意味であるそうな。
 こうした国名の由来から見ても、八坂という名をもつ女神には、伊勢の地よりも、坂の多い信濃の国の方がその出生地として似つかわしいような気がするのだが。
 さらに、ヤサカトメノミコトという名にこだわってみると……。
 現在では「八坂刀売命」と書く事が多いが、古くは、「八坂斗女命」とも書いたようである。「斗女」とは、すなわち「北斗の娘」ないしは「北斗の妻」という意味があるように思える。つまり、「八坂斗女命」という名前には、「坂の多い国の、北斗の娘(あるいは妻)」という意が込められているのではないか。
 一説によると、このヤサカトメノミコトの父親の八坂彦は、天白神の末裔《まつえい》であるといわれている。天白神とは、天の白羽神などの別名をもつ北斗七星のことである。ヤサカトメは北斗七星たる天白神の子孫であるがゆえに、その祖先神を祭る巫女《みこ》であった可能性が高いということである。
 つまり、ヤサカトメノミコトとは、男神タケミナカタの后神というよりは、北斗七星の神格をもつミシャグチ神の巫女であったのではないだろうか。
 諏訪信仰の神髄に触れるには、ミシャグチ神を便宜上人格化したにすぎないように見える主祭神タケミナカタよりも、その后神といわれる、この女神の方を考察した方がよいのではないだろうか。
 ところで、諏訪地方には、古くから、「別火」と呼ばれる独特の風習があったといわれている。
 それは、生理期間中の女性は、家族と生活の火を別にして、「おたや」と呼ばれる離れ家に一人|籠《こ》もらなければならなかったというのである。また、その後、時代が下って、「おたや」に籠もることはなくなっても、生理中の女性は、家族よりも一段低い土間で生活させられる風習は、明治末頃まで続いたという。
 このような、女性|蔑視《べつし》ともいえる奇妙な風習の背景には、中世以降、八ヶ岳一帯に広がり定着した山岳仏教の影響があるように思われる。仏教では、キリスト教同様、宗派によって違いはあるが、女性の経血や産褥《さんじよく》の血を「穢《けが》れ」として殊更に忌み嫌ったからである。
 それにしても、生命の誕生と密接に結び付いているはずの「経血」や「産褥の血」を「穢れ」として忌み嫌うとは、思えば、奇怪な宗教が世界を支配しているものである……。
 まあ、それはともかく、しかし、仏教の影響だけによるものだろうか。いくら女性の経血を穢れとして忌むとしても、まるで伝染病患者のように「隔離」するとは、あまりにもヒステリックで苛酷《かこく》すぎるような気がする。
 それに、諏訪神は、前にも書いたように、荒々しい狩猟神の一面をもつ神で、「血を好む」神といわれている。それゆえに、普通の神事では忌むべき血の滴るような動物の生き贄《にえ》も、この神には平然と捧《ささ》げられるのである。言い換えれば、他の神々よりも、「血の穢れ」には寛大な、というか、むしろそれを喜ぶ神のはずである。その神のお膝下《ひざもと》で、このようなヒステリックなまでの「血の穢れを忌む」風習があったというのは、どうも、今ひとつ納得がいかない。
 しかも、さらに奇妙なことに、この「別火」の風習は、生理中の女性に限ったことではなく、ある条件下にいる男性にも課せられたのである。それは、諏訪神を祀る神事に携わる男子である。神事奉仕にあたる男性は、家族と離れて、一定期間、御頭屋《おんとうや》と呼ばれる村里の道場に集まり、「別火」と呼ばれる籠もり生活をしなければならなかった。
 ここでふと思うのは、生理中の女性に課せられたという「別火」の風習も、その元をただせば、神に仕える巫女に課せられた「籠もり」ではなかったのかということである。
 諏訪信仰の神事がすべて男性の神官の手で執り行われるようになる前には、これらの神事、とりわけ、土着の神ミシャグチ神を祭る神事に携わっていたのは、女性だったのではないか。
 父性原理を掲げるキリスト教や仏教が世界を席巻《せつけん》し定着する前の原始宗教では、神事を司《つかさど》るのは主に女性であり、しかも、生命を生み出す元となる「経血」を貴ぶゆえに、あえて巫女たちは生理期間中に神事を司ることが多かったというのは前にも書いた通りである。
 つまり、「別火」の起源は、けっして仏教的な穢れ思想などから生まれたのではなく、それどころか、自然神に仕える巫女を神と同一視する、いわば太古の母神信仰ともいうべきものから生まれた風習ではなかったか。
 また、この「別火」という言葉も、もともとは、単に「生活に使う火を別にする」という意味ではなく、巫女たちが一カ所に籠もって、「聖なる火」を守り祀る神事を行ったことから、こう呼ばれるようになったのではないだろうか。
 古来、東西を問わず、「聖なる火」を守り祀るのは、巫女たちの役目だったからである。
 日本神話において、最初に「火」を生み出したのは、太母神イザナミノミコトであった。また、あのコノハナサクヤヒメの「火中出産」の逸話も、実は、このヒメが、「炉の神」すなわち「火神」を祀る巫女だったのではないかという説もある。
 この話を簡単に紹介するとこうである。
 コノハナサクヤヒメは国津神の娘だったが、天降りしてきた天孫ニニギノミコト(天照大神の孫)と結ばれ、すぐに懐妊する。
 ところが、一晩で懐妊するのはおかしいと夫神に疑われたヒメは、身の潔白をはらすために、「戸無しの八尋殿《やひろどの》」を作って泥で塗り固め、その中に入って火をつけ、「もし、おなかの子が天津神の子でなければ、わたしの身は無事ではすまないでしょう」と言い、火中で出産しようとする。
 やがて、ヒメは、火照命《ほでりのみこと》、火須勢理命《ほすせりのみこと》、火遠理命《ほをりのみこと》という、三人の男子を無事に生み落として、我が身の潔白を証明するのである。
 この逸話は、南方の島々や中国西南民族の間で見られる「産室で火をたく」風俗の反映であるとか、あるいは、産褥の血の穢れを祓《はら》うために、お産の後に産室を焼き払う習慣を描いたものだとかいう説が有力のようだが、コノハナサクヤヒメが入ったという泥で塗り込められた「戸無しの八尋殿」とは、その密室性から考えて、産室ではなく、金属精製業者や窯業者が使う「炉」のことではなかったかという説もある。
 また、ヒメが産んだという「火」の名前のつく三人の子供も、ふいご(古くはたたらと呼ばれた)で風を送り火を煽《あお》る過程で、「火がつき、火が盛んに燃え、やがて火が小さくなって消える」という火勢の変化の様を擬人化したものではないかという。
 そして、古代中国などでは、こうした「炉の神」に人身御供《ひとみごくう》が捧げられた伝承などもあることから、この「火中出産」の話は、「炉神」に投じられた生き贄の話ではないかというのである。
 生き贄かどうかは分からないが、このヒメが「炉の火」を守る巫女であったということは十分考えられよう。ギリシャ神話においても、「竈《かまど》ないしは暖炉の神」とされているのは、ヘカティアという女神である。これなども、「火」を守ってきた巫女が神格化されたものと思われる。そして、巫女であるがゆえに、時には、「炉神」に我が身を投じることもあったかもしれない。
 つまりは、太古の昔より、「火」とかかわり、「火」を祀ってきたのは女たちだったということである。
 天皇家の皇子たちのことを「日継ぎの御子《みこ》」などと呼ぶが、これなども、もともとは、「火継ぎの巫女」から転化したものではないかと思われる。
 それが、時代をへて、母系(権)制から父系(権)制へと社会構造が変わり、神事を司る役が女性から男性の手に移り、人々の意識や価値観も大きく変化していく中で、仏教の教えの影響なども受けて、あのような女性蔑視ともいえる風習へと堕落していったのではないか。
 その証拠といってはなんだが、諏訪地方一帯の縄文期の遺跡から発掘された土偶は、圧倒的に女性と思われる姿のものが多く、また、国宝にも認定された、あの、頭に蛇模様の帽子とも冠ともつかぬものを被《かぶ》った「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶もこの地方から出土したものである。あれは、蛇神であるミシャグチ神に仕える巫女王の姿を模したものではないだろうか。
 そして、こうした蛇神を祀り、やがて蛇神と一体化した蛇女王のイメージが、諏訪大社下社の女神、ヤサカトメノミコトという形をもつに至ったのではないか。
 ヤサカトメノミコトという女神もまた、ギリシャ神話のヘラやアルテミス、あるいは、インド神話のカーリー、あるいは、日本神話のイザナミノミコトのように、タケミナカタなどという男神の后神にされる前から諏訪の地に根付いていた古代の太母神であったのかもしれない。
 ところで、ここに一つ面白い伝説がある。といっても、それは、諏訪の地のものではなく、静岡県浜北市にある岩水寺という寺に伝わる伝説であるが。
 それによると、この寺には、ある一体の霊験あらたかな子安《こやす》地蔵尊が祀られているそうなのだが、その地蔵尊を作ったのが、あの平安初期に活躍した征夷《せいい》大将軍、坂上田村麻呂の子の俊光であるという。俊光は亡母を弔うために、その面影を刻んだ地蔵尊を作ったというが、実は、この亡母というのが人間ではなかった。蛇、それも巨大な赤蛇だったというのである。
 この地に住み着いた赤蛇が美女に化けて、田村麻呂と接し、もうけた一子が俊光であったというわけで、その後、夫に自分の正体を知られた玉袖なる名の赤蛇は、岩水寺近くの赤池と呼ばれる池に姿を消したのだという。
 この手の蛇嫁(あるいは蛇婿)譚《たん》の類《たぐ》いは全国に見られるので、これだけではどうということもないのだが、面白いのは、この赤蛇が消えた赤池なる池には洞穴があって、その洞穴は遠く諏訪湖までつながっていたという点である。しかも、赤蛇でもある子安地蔵尊は、この洞穴を通って、はるばる諏訪の地まで出張して行き、安産祈願をしてきた女性の願いを聞き届けたというエピソードまであるらしい。
 真の諏訪神ともいうべき、ミシャグチ神の正体が「赤蛇」であるという話と一脈通じるものはないだろうか。
 また、諏訪と遠州の池とが底でつながっているという話は、実は、諏訪の地でも伝えられている。それは、上社前宮の「お手倉送り」という神事にまつわる話なのだが、これは、前宮で使われた御幣を葛井《くずい》神社に送り、これを、真夜中、神社裏の底無し池に放り込むと、翌日、遠州の国の池に浮かび上がるというのである。
 この「遠州の国の池」が、あの岩水寺の赤池のことかどうかは分からないが、どうやら、諏訪と遠州とは、池や湖を通してつながっていると考えられていたようである。もっとも、これは天竜川の水源が諏訪湖であるということからきているのかもしれないが。
 岩水寺の子安地蔵尊の話は、坂上田村麻呂の伝説をふまえていることから、少なくとも平安期以降に作られた話だろうが、このような伝説が作られる背景には、赤蛇にまつわる母神信仰のようなものが古くから彼《か》の地に根付いていたからではないだろうか。
「赤蛇」の「赤」にも、太古の母神信仰のシンボルともいうべき「火」と「血」の「赤」を感じる。
 あるいは、浜北市を含むこの地方一帯でも、縄文期と思われる遺跡が発見されていることから考えて、彼の地に根付くというよりも、ひょっとしたら、遥《はる》か昔、諏訪に住んでいた縄文人がこの地に移住してきたことを物語っているのかもしれない。

分享到:

顶部
11/30 10:48