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家に着くと、神郁馬は、蛍子を、客間らしき広い和室に通し、「ちょっと着替えてきます」と言って姿を消した。
しばらくして、薄手のセーターにジーンズというラフな格好に着替えた郁馬が、二つのコーヒーカップを載せた盆を携えて戻ってきた。
神官の衣装を脱いでしまうと、どこにでもいそうな普通の若者という感じだった。
「……しかし、日登美様の消息を探っていた伊達さんが今度は行方不明になってしまうなんて。まさにミイラ取りがミイラになったとでもいうか」
郁馬は、蛍子の方にコーヒーを差し出しながら、話の続きをするように言った。その表情を見る限りでは、この感じの良い青年が、伊達の失踪《しつそう》に何かかかわっているとはとても思えなかった。
「伊達さんとは」
蛍子は出されたコーヒーに軽く口をつけてから尋ねた。
「他にどんな話をされたのですか?」
「あとは……」
郁馬は思い出すように、宙に目を据えていたが、
「そうそう。大神祭のことを」
と思い出したように言った。
「大神祭?」
「この村で毎年十一月の初めに催される祭りのことです。なんでも、伊達さんはたまたま、大神祭のことを書いた本を読んで興味をもっていたそうで……」
「それは、もしかしたら、真鍋伊知郎という人が書いた『奇祭百景』という本ではありませんか」
蛍子は言った。
「そうです。ご存じでしたか? 聞くところによると、高校の先生が趣味で書いて自費出版した部数も僅《わず》かな本だそうですが」
そんな地味な本のことをなぜ知ってるんだとでもいうように、郁馬は一瞬、目を細めるようにして蛍子の方を見た。
「前に伊達さんからその本の話をちらっと聞かされたものですから。日本のあまり知られていない奇祭のことばかりを扱った本だと。確か、その本によると、日の本村というのは、古代の豪族だった物部《もののべ》氏が作った村だとか……?」
「ええ。家伝によれば、神家の祖先は、物部|守屋《もりや》の一子、弟君《おとぎみ》であるといわれています」
郁馬は言った。
「物部守屋というと、仏教をめぐって蘇我《そが》氏と争ったという……?」
「あの物部守屋です」
郁馬は深く頷《うなず》くと、大和の豪族だった物部守屋の遺児が信州に至って日の本村を作るまでのいきさつをこう語った。
六世紀、仏教をめぐっての蘇我氏との権力闘争に敗れ、大和を追われた物部氏の残党の中には、雄君と弟君という守屋の二人の遺児もいた。それぞれ忠実な家臣に守られ、兄の雄君の方は美濃《みの》に、弟の方は信州の諏訪に逃れたという。
「……諏訪に逃げ延びた弟君は、当時諏訪地方を支配していたモリヤ氏の保護を受けて成長し、後に神長武麻呂《かんながたけまろ》と名乗り、諏訪大社上社の代々の神官の祖となったと、諏訪では伝えられているようですが、実はこれは違うんです」
「違うとは?」
「替え玉だったんですよ」
「替え玉……」
「諏訪に残ったのは、本物の弟君ではなかったんです」
郁馬の話では、弟君は、しばらくはモリヤ氏の保護のもとに、諏訪で暮らしていたが、蘇我氏の探索の手が諏訪にまで延びてきたことを知った家臣の一人が一計を案じ、万が一のときのために、年格好の似た自分の子供を弟君の替え玉にしたてたのだという。
そして、これを「弟君」と偽って諏訪に残し、本物の弟君の方は、ほんの数人の家臣と共に、諏訪の地を出て、戸隠山をも越え、今の日の本村のあたりまで落ち延びたというのである。
「……本物の弟君が逃げ延びたこのあたりには、既に、やはり、その昔、大和から逃げ延びてきた少数の物部系の氏族が住み着いていたんです。それが神氏です。神氏は、諏訪大社上社の祭神タケミナカタの子孫といわれていることから、一般には出雲系と思われているようですが、もともとは、大和《やまと》の出身で、三輪山《みわやま》の大物主がイクタマヨリヒメという人間の女性と交わって生まれたオオタタネコという者の子孫なんです。
しかし、神武天皇が大和入りしたとき、神武にくみすることを拒否して大和を飛び出した物部系の氏族の中に神氏もいました。これらの外物部ともいわれる氏族の多くは東北や東海方面に逃れたのですが、一部は信州にも逃れていたんです。
弟君は、遥《はる》か昔に分かれた、この同族ともいうべき神氏と合流したのです。そして、蘇我の追っ手がこの地まで来た場合を考え、物部守屋ゆかりの者であることを隠すために姓も物部から神に変え、やがて成人すると神氏の娘を娶《めと》り、神氏と共に、この日の本村を作ったというわけなんです」
郁馬は、神家の家伝書に記されているという日の本村の由来について誇らしげに語った。
蛍子は、郁馬の話を神妙な面持ちで聞きながらも、内心では、とても頭から鵜呑《うの》みにできる話ではないなと思っていた。
旧家にありがちな、この手の家伝書とか家系図の類《たぐ》いには、由緒正しき名族であることを誇張するために、後から捏造《ねつぞう》されたものも少なくないと聞いていたからである。
物部守屋に「弟君」なる男児がいたのかさえも史実的には定かではないだろうし、わが子を主君の替え玉にしてまで幼い主君を守ろうとした忠臣の話などは、奈良時代の話というより、こうした「忠義」が美徳とされもてはやされた鎌倉時代以降の武士の価値観に則《のつと》っているようにも見える。
神家に伝わる家伝書というのも、古いとはいっても、鎌倉時代以降に作られたものではないかと内心では疑っていた。
むろん、そんなことは、家伝書に記されたことを信じて疑わないといった様子の郁馬の前ではおくびにも出さなかったが。
「……実は、日の本村の『日の本』という名前には、『日本』という意味が込《こ》められているんです」
蛍子が感心したように聞き入っていることに気をよくしたのか、神郁馬の舌はさらに滑らかになった。
「そもそも、この『日本』という国名は、物部伝承によれば、物部氏の祖神ニギハヤヒノミコトが、天磐船《あまのいわふね》に乗り、天降りしたとき、『虚空《そら》に浮かびて遥かに日の下を見るに、国あり。因りて、日本《ひのもと》と名づく』と言ったことから付けられたものだと言われています。
ニギハヤヒの末裔《まつえい》にあたる弟君が、大和を追われて、この地にはじめて足を踏み入れたとき、神祖のこの言葉を思い出したのでしょう。蘇我氏に追われて逃げてきた山奥の土地とはいえ、すべてはここから始まる新天地でもあるという意味を込めて、『日の本』と名付けたといわれています。
そして、この祖神を祀《まつ》るために、山の麓《ふもと》に社を建て、自らが神主となりました。これが日の本神社の始まりです。
もっとも、その前から、この地に住み着いていた神氏によって、山を御神体として、この神は祀られてはいたのですが。というのも、神武の大和入りの際に、大和を捨てた神氏が信州を新天地に選んだのも、信州が山国だったからなんです。引っ越し先として、祖神の御神体を移す山をまず探したのです。それも、ただの山ではなく、美しい円錐形《えんすいけい》のピラミッドのような山をです。ちょうど奈良の三輪山のような。
そして、ようやく、条件にかなった山の麓まで辿《たど》りつき、この山を当初は『蛇身山《かがみやま》』と名付け、祖神の遺骨を納める霊山と決めて、ようやく安住の地を得たというわけです」
「祖神の遺骨?」
蛍子は聞き返した。
「御神体といっても、名ばかりの実体のないものではありません。ニギハヤヒノミコトの御遺骨です」
郁馬は当然のように言った。
「もともとは、奈良の三輪山の頂上に納められていたのですが、神氏が大和を出るときに、こっそり、その遺骨を掘り出し、こちらに移したのです」
神の遺骨……。そんなものがこの世にあるのかと思いつつ、蛍子はそんなことを大まじめに語る若者の顔をやや困惑ぎみに見返していた。
「すると、ここで祀られている大神というのは、その……?」
「ニギハヤヒノミコトです。元は三輪山の神であり、日本の真の天照大神でもあります」
「天照大神……」
「そうです。それが、御神体が大神神社から伊勢神宮に移されたときに、蛇神であることを隠され、男神であったのに、女神であるとされてしまったのです。これは、物部氏が滅びたあと、蘇我氏を打ち破り大和の主権を握った中臣《なかとみ》氏こと後の藤原氏の陰謀によるものです。藤原氏としては、物部氏の祖神をそのまま日本の最高神にしたくはなかったのでしょう。
しかし、真の御神体ともいうべき天照大神の『遺骨』はこちらにあるのですから、伊勢神宮などは実体のないものを物々しく祀っているにすぎないのです。空っぽの金庫を中にお宝が入っていると信じこんで大切にしているようなものです。そんな伊勢神宮を有り難がって、今もなお、多くの人が参拝に足を運ぶというのは、考えてみれば滑稽《こつけい》な話ですね。
まさか、誰も、天照大神の『遺骨』がこんな山奥に隠されているとは夢にも思わないでしょう。でも、これでいいのです。本当に大切なものはこうした形でひっそりと人知れず守るべきなのです。真偽の区別もつかない愚衆などには、まがいものをあてがっておけばいいんですよ……」
郁馬はそう言って、やや傲慢《ごうまん》にも見える微笑をその整った口元に浮かべた。
周知のことでも語るように淡々と話す郁馬の冷静さに、逆に、何か「狂信的」ともいえるものを感じ取って、蛍子は、最初は人懐っこい好青年に見えたこの若者に、少しずつ薄気味悪いものを感じはじめていた。
「そうだ。もし、大神のお姿をご覧になりたければ」
郁馬はふと思いついたというように言った。
「日の本寺の住職に頼めば掛け軸を見せてくれますよ」
「掛け軸……ですか?」
郁馬の話によると、日の本寺というのは、本来は、日の本神社の神宮寺として建てられたものらしかった。
神宮寺というのは、平安期、日本古来の神々は仏の化身であるという神仏混淆《しんぶつこんこう》の思想から、神社に付属して造られた寺院のことで、明治初年の神仏分離令によって、多くは廃絶されたのだが、中には神社から独立したものもあり、日の本寺もそのような寺の一つだという。代々の住職も、神家の分家筋に当たる者が世襲で引き継いでいるのだということだった。
「実は、大神のお姿を刻んだ青銅の像があの寺には保存されているのですが、これは秘仏とされ、神家の血筋の者しか見ることはできないのです。でも、この像を模写した掛け軸がありまして、こちらの方なら外部の方にもお見せしていますから。そういえば、伊達さんにもこの話をしたような記憶があります」
郁馬は思い出したように言った。