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蛍子が神家を出たときは、あたりはすっかり闇《やみ》にとざされていた。夕食の時間までには帰るようにと住職に言われていたことを思い出し、足早に、暗い参道を日の本寺に向かって歩いた。
寺に戻ると、山菜の天麩羅《てんぷら》を中心にした精進料理の膳《ぜん》が既に食堂のテーブルに並べられていた。肉類は一切使わず、見た目は、いかにも寺の料理らしい質素なものではあったが、箸《はし》をつけてみると、醤油《しようゆ》や味噌《みそ》からすべて自家製だという味の方は高級料亭のそれに負けないものがあった。
聞けば、料理はすべて住職夫妻の手によるもので、とりわけ、ここの住職は蕎麦《そば》打ちの名人でもあるという。
大した観光名所もないのに、細々ながらも客足が途絶えないのは、どうやら、住職の打つ蕎麦の噂《うわさ》が口コミで伝わっているかららしい。戸隠あたりまで来た観光客が、そこで日の本村の蕎麦の噂を聞き、少し足を延ばしてやって来ることも珍しくないということだった。
夕食を済ませた後、温泉を引いた内風呂《うちぶろ》で汗を流し、浴衣《ゆかた》に着替えて部屋に戻ってきたときには、時刻は午後九時近くになっていた。
むろん普通の旅館のようにテレビなど置いてないので、手持ち無沙汰《ぶさた》といえば手持ち無沙汰だったが、このような静かな夜の過ごし方もたまには良いなと思いながら、くつろいでいると、部屋の外に足音がして、襖《ふすま》ごしに住職の声がした。
「家内が手遊《てすさ》びにこんなものを作りましてな。都会の方のお口には合わないかもしれんが、お茶うけにでもと……」
住職はそんなことを言いながら、蕎麦団子の皿を手に入ってきた。蛍子は礼を言って、さっそく一口食べてみた。口の中に素朴な懐かしい味がじんわりと広がった。
「……で、いかがでしたかな。何か分かりましたかの?」
普段着らしい藍《あい》色の作務衣《さむえ》に着替えた住職はさっそく尋ねた。蕎麦団子というのは口実で、どうやらそのことが気になって訪れたようだった。
神郁馬に会って話はしたが、伊達のことではこれといって収穫はなかったと報告すると、
「お留守の間に、太田村長の方にも電話をしときましたから、明日にでもうちの方に訪ねてみたらよろしかろう。ただ、電話の話では、村長もあれから特に思い出したことはないちゅうとりましたから、こちらも大した収穫はないかもしれんがの」
住職はそう言った。
「あの、それで、郁馬さんから伺ったのですが」
蛍子は、例の大神の神像を模写したという掛け軸の話を切り出してみた。
「おお、それなら……」
住職は今思い出したというように、はたと片|膝《ひざ》を打った。
「確かに、伊達さんにもお見せしました。是非拝見したいとおっしゃるので……」
「わたしにも見せて戴《いただ》けないでしょうか」
そういうと、住職は機嫌よく頷《うなず》き、「今もってくる」と言い残して部屋を出て行ったが、しばらくして、紐《ひも》で結ばれた細長い桐の箱を恭しく両手で掲げるようにして戻ってきた。
そして、蛍子の前で、箱を結んだ紐を解き、蓋《ふた》を開けて、中から巻物風のものを取り出した。
大神の像が造られたのは、平安後期あたりだというが、この像は代々秘仏とされ、神家ゆかりの者しか見ることが許されなかったので、後に、「大神のお姿が一目見たい」という村人たちの要請を受けて、絵心があった当時の住職が自ら絵筆を執《と》り、神像を収めたお堂に何日も籠《こ》もって写し取ったのがこの掛け軸であるという。
そんなことを説明しながら、住職は巻いてあった掛け軸をそろそろと解いて、それを畳の上に広げた。
何げなく視線を落とした蛍子は息を呑《の》んだ。
全身がやや青みがかった異形の像がそこには描かれていた。鋭い牙《きば》の生えた口を噛《か》み締め、憤怒《ふんぬ》の形相を浮かべた顔には、皿のような目が一つしか描かれておらず、無数のロウソクの炎がゆらめきのぼるように見える頭髪は、よく見るとすべて小さな蛇だった。
両|拳《こぶし》を臍《へそ》のあたりで上下に組んだ上半身は逞《たくま》しい武人を思わせる人間の姿をしていたが、下半身は三重にとぐろを巻いた蛇の姿をしている。そして、そのとぐろには、青白く光る鱗《うろこ》が一枚一枚|執拗《しつよう》なまでに丹念に描きこまれていた。
これが大神……。
恐ろしい形相をして、蛇の下半身をもつ不気味な姿は神というより、邪悪な妖魔《ようま》か何かのように見える。
蛍子は魅入られたように、その姿を凝視した。気味悪く恐ろしいのだが、こわいものみたさとでもいうか、なぜか、目をそらすことができなかった。
住職の話では、全身が青みがかっているのは、青銅に刻まれた像だからで、造られた当初は全身に「火」を表す朱が塗られていたらしい。そう言われてみれば、ところどころ、剥《は》げ落ちたような朱色が残っていた。
また、目が一つしかないのは、「目一つの神」すなわち「日神」であることを表しているのだという。
ふと、この大神の姿が、昔どこかの寺で見た「不動明王」の絵姿にどことなく似ていることに気が付いて、そのことを言うと、住職は、ウンウンと頷いて、「天照大神は仏教では大日如来と同一視されることが多いのだが、このあたりは、中世の頃から山岳密教の栄えた土地柄ということもあって、密教の影響を受けている。密教では、最高仏である大日如来よりも、大日如来の使者ないしは化身といわれる不動明王の方が重要視されている。もともと、日神には火神の性格が内在されているわけだから、平安後期に造られたという大神の像に、火神である不動明王の姿の影響があっても不思議はない」というようなことを言い、やや沈黙があった後、「しかし、不動明王が憤怒の形相をしているのは、大日如来の化身として、仏法を守らぬ悪人どもを監視しこらしめるためだが、大神の像がこのような怒りの相をしておられるのは、遠い昔に、神剣を盗まれ、万物の上に君臨する最高神としての地位を奪われたからじゃ」などと言い出した。
蛍子は思わず住職の顔を見た。
畳の上に広げられた掛け軸をじっと見たまま、そう呟《つぶや》くように漏らした老人の声には、昔の伝説を語るというより、つい最近我が身に起こったことを話すような生々しい怒りの響きが感じられた。
「その……神剣を盗まれたというのは?」
蛍子はおずおずと尋ねた。
「最高神としての地位を奪われた」というのは、神郁馬の話などからなんとなく推測できたのだが、「神剣を盗まれた」という言葉の意味が理解できない。
「大神のお手をご覧なさい。何かを捧《ささ》げもっていたように見えませぬか?」
住職は絵の方を指さしながら言った。
そう言われて見れば、像の両手の拳は臍のあたりで上下に組まれ、何かを捧げもっていたようにも見える。
「そういえば……」
蛍子がそう言うと、住職は重々しい口調でこう答えた。
「大神は御手に神剣を捧げもっておられたのです。その昔、天叢雲《あめのむらくも》の剣《つるぎ》と呼ばれた神剣をな……」