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蛇神4-4-2
日期:2019-03-26 22:31  点击:269
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「奥さんの前では言いにくかったんですが……」
 伊達かほりが帰ったあと、かほりのグラスを無言で片付けていたマスターがようやく重い口を開いた。
「やはりどう考えても、あの村で伊達さんに何かあったとしか思えませんね。もしかしたら、事故のようなことが……」
「事故?」
 蛍子は半分ほど残ったカクテルから目をあげた。
「これはあくまでも私の想像にすぎませんが」
 マスターは沈んだ表情でそう前置きしてから、パイプに火をつけながら言った。
「あの日、九月三日の夕方、蛇ノ口でライターをなくしたことに気づいた伊達さんは、ライターを探しに行くために、住職の奥さんに懐中電灯を借りようとした。ここまでは実際にあったことだという気がします。だが、このあとが、住職夫人の話とは違うのではないか。おそらく、住職夫人は行くのを止めたのでしょうが、伊達さんはそれを振り切って、蛇ノ口に出かけて行ったのではないか……」
 マスターにそう言われても、蛍子は驚かなかった。蛍子自身、それを疑っていた。付き合っていた頃から、伊達浩一には、自分がこうと決めたことは、他人の忠告など無視して突き進むようなところがあった。
 げんに、白玉温泉館で、伝さんに「口を酸っぱくして」止められながらも、伊達は、その忠告を振り切って、蛇ノ口を訪れている。
「……そして、そこで、何かが起きた。たとえば、こんなことが考えられます。既に日が暮れて闇《やみ》に覆われた蛇ノ口で、懐中電灯の明かりだけを頼りに夢中でライターを探しているうちに、伊達さんは、つい沼に近づきすぎてしまったのではないか……」
「…………」
「つまり、あの夜、伊達さんは寺には戻ってこなかった。遅くなっても客が戻ってこなければ、当然、住職の奥さんは、蛇ノ口で何かあったのではないかと察する。そして、誰かを蛇ノ口まで見に行かせた。すると、伊達さんの姿はどこにもなく、沼の縁に人が落ちたような痕跡《こんせき》が残っていたとしたら……。そこで何が起きたかすぐに察したものの、住職をはじめとする日の本村の連中は、なぜか、そのことを公にしたくはなかった。それで、村長や日の本神社の神官まで巻き込んで、翌朝、伊達さんが彼らの車に同乗して村を出たかのように装った。伊達さんの失踪を村とは関係ないものに見せかけるために……」
「でも、ただの事故だったとしたら、なぜ、日の本村の人たちはそのことを隠そうとしたのでしょうか?」
 蛍子はすぐにそう反論した。マスターの推理は、自分も考えなかったわけではないが、ここで詰まってしまう。なぜ、ただの事故にすぎなかったものを、村ぐるみで隠そうとしたのか。
 それとも、ただの事故ではなかったのか……。
「日の本村が観光地か何かで、その観光名所で事故が起こったとでもいうなら、まだ分かります。事故の報道をされることで、客足が途絶えることを恐れたとも考えられます。でも、あそこは観光地ではないし、まして、蛇ノ口は観光名所ではありません。それどころか、七年に一度の神事を行うご神域として、外部の者にはあまり知られたくない場所だったようです。そこで事故が起きたからといって……」
 蛍子がそう言いかけると、
「それですよ」
 マスターは遮るように言った。
「それ……?」
「蛇ノ口というところが、単なる沼ではなく、ご神域だったということが、あの村の人々にとっては何よりも重要だったのかもしれません。そんな人に知られたくない神聖な場所で、観光客が過って事故にあった。もし、これを公にすれば、マスコミが大々的に報道するかもしれない。その報道によって、人々の注意が蛇ノ口に集まることを村の人々———といっても、あの村を牛耳《ぎゆうじ》っている一部の連中かもしれませんが———は恐れたのではないでしょうか。だから、そうなる前に、事故そのものをなかったことにしてしまおうとした……」
 蛍子はマスターの話を暗澹《あんたん》とした思いで聞きながら、蛇ノ口を訪れたとき、周囲に立ち巡らされた「立ち入り禁止」の札の文字が、妙に新しかったことを思い出していた。
 あれは、単に雨風で文字がかすれたために書き直したのではなかったのかもしれない。ごく最近、立て札を新しく書き直さざるを得ないようなことがあそこで密《ひそ》かに起きていたとしたら……。
 そして、村長宅で、太田が最後に念を押すように言っていた言葉。
「万が一、あそこで事故でもあったらこちらが困る。特に今年は七年に一度の大祭を控えていますからね。あなたもあそこには絶対に近づかないでください。お願いしますよ」
 太田は半ば脅すような口調でそう言った。
 その大祭を来月に控えているのだ。
 もし、あの沼で事故があったことが公になれば、神事そのものが中止になる恐れがある。あそこは底無し沼とはいえ、実際には底がないわけではなく、ひどく深いのでそう呼ばれているにすぎない。それを知れば、当然、被害者の家族は遺体の引き揚げを要求するだろう。
 単に重要な神事が中止になるだけではなく、沼底を浚《さら》われると困るようなことがあったのではないか。たとえば……。
「いや、やはりこんなことは常識では考えられませんね」
 マスターはそこまで話すと、突然、頭を振って、それまでの自分の推理を自分で否定した。
「いくらご神域といっても、人ひとりの命には代えられないはずです。もし、そこで事故があったとしたら、それを村ぐるみで隠すなんてことはどう考えても、普通ではありえません。私の妄想にすぎませんね……」
 マスターはそう言って自嘲《じちよう》するように弱々しく笑った。
「いえ、妄想とは———」
 蛍子はそう言いかけ口をつぐんだ。
 マスターの推理が妄想だとは思えなかった。確かに、常識では考えられないことかもしれないが、あの村ならば、大神と呼ばれる蛇体の太陽神を「真の天照大神」と崇《あが》め、千年以上にもわたって祀《まつ》ってきたというあの村ならば、しかも、その行為が日本という国を守ることなのだと本気で信じているような狂信的な人々がいるあの村ならば、その常識では考えられないことが起こっても不思議ではないような気がした。
 蛍子も、あの村に行く前は、ここで伊達から聞いた話を荒唐無稽《こうとうむけい》と聞き流していたのだ。でも、実際にあの村に行き、自分の目で確かめてきてからは、もはや荒唐無稽と笑えないものがあった。
 とはいうものの、自分の推理を自分で否定しようとするマスターの気持ちもよく分かった。この推理を認めるということは、同時に、伊達の死を認めることでもあるからだ。伊達浩一の遺体が今もあの暗い沼底に沈んでいると考えるのはやりきれない。
 老いたマスターにとって、真実を知るということが重要なのではない。息子のようにも思っていた伊達浩一が今もどこかで生きている。そう思うことの方が重要なのだ。
 それは蛍子も同じだった。できれば、怠慢な警察がそう思い込んでいるように、伊達の失踪《しつそう》が伊達自身の意志によるもので、どこかに身を潜めているだけだと思いたかった。
 その可能性はほとんどないとは知りながらも……。

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