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入ってきたのは、父のすぐ下の弟にあたる叔父の神聖二《みわせいじ》だった。
父の生まれ故郷でもある長野県の日の本村というところで、千年以上も続くという古社の宮司をしている男である。
「元気そうじゃないか。どこが怪我人《けがにん》かって顔してるぞ」
叔父は入ってくるなり、笑顔ですぐにそう言って、「半月ほど前に上京したついでに見舞いに来たのだが、そのときは眠っていたので、顔だけ見て帰った」と話してくれた。
「ぜんぜん元気だよ。傷も完全に治ったし。もう退院してもいいのに、母さんと医者がぐるになって退院させてくれないんだ」
武は少し甘えるように訴えた。
この叔父には子供の頃から妙になついていた。親戚《しんせき》中で、この叔父だけが、長男である兄ではなく、自分の方に関心をもって何かと目をかけてくれたせいかもしれない。
新庄家というのは、祖父の代から東京に住居を構えるようになったが、もとをただせば、東北あたりの武家の出だと聞いたことがある。そのせいか、封建的な武家の家風を現代にまでひきずっているようなところがあった。
たとえば、跡取りである長男を他のきょうだいたちとは別格に扱う、いわば長男信仰ともいうべき傾向が一族間に根強くあった。
うちに集まる親戚は、殆《ほとん》どが祖父の兄弟がらみの新庄家方の人間ばかりで、年寄りも多いので、自然に、家族を含めた親戚連中の関心は長男である兄に集中して、「冷や飯ぐい」の次男坊などに目を向ける者は殆どいなかった。
だから、小さい頃から、武は、こうした親戚連中が一堂に集まる新年会とか法事とかが大嫌いだった。その日が近づくと憂鬱《ゆううつ》になる。出来の良い兄ばかりが親戚連中に取り囲まれ、ちやほやされて話題にされる。自分はいつもそれを指をくわえて物陰から見ているだけだった。
ただ、そんな親戚連中の中で、この父方の叔父だけが、何かと自分に目をかけてくれ、話し相手になってくれた。
中学くらいの頃から、父に話せないことでも、この叔父には心を開いて話すことができた。武にとっては、叔父というより、「第二の父」ともいうべき存在だった。
といっても、長野に住んでいる叔父と会うのは、年にほんの数回にすぎなかったのだが。
「どこを刺されたんだ? 何カ所も派手に刺されたと聞いたが」
叔父は持ってきた見舞い用の菓子箱か何かの入った袋を傍《かたわ》らのテーブルに置くと、近づいてきてそう聞いた。
「一番ひどかったのはここ」
武は、自慢するように、腹部の傷を指さした。
「あと、太ももと胸と、手のひら……」
次々と勲章でも見せるように得意げに叔父に傷痕《きずあと》を見せた。左胸の切り傷は、それほど深くなかったこともあって、傷痕もうっすらと残っているだけだった。
右の手のひらにつけられた傷も、動脈を傷つけていたら大変なことになっていたかもしれないが、幸いそれはそれており、今は、ただの薄い傷の線となって、まるで生命線が少し延ばされたような具合で手のひらに残っていた。
「傷の治りが異常に早いって医者が驚いてたよ。俺《おれ》、昔からそうなんだよね。ちょっとした傷なんて一日で治っちゃう。特異体質らしい」
武はそう言って、ようやく思い出したように、ベッドの上に投げ出したままにしてあった下着の方に手を伸ばした。
「それは、神家《みわけ》の体質だよ」
甥《おい》の身体につけられた傷痕を興味深げに観察していた叔父が、さほど驚いた様子もない口調で言った。
「神家の体質……?」
「傷の治りが早いのは、再生力が強いということだ。おまえのお父さんも子供の頃からそうだったし、私もそうだよ。おまえはどうやら神家の血の方を濃く受けついだようだ」
叔父はそんなことを言った。
まあ、それはそうかもしれない、と武は思った。容姿にしても、父にそっくりで、新庄家の特徴はあまり出ていない。母親似の兄とは、そこも違う。兄が母方の親戚たちにちやほやされ、自分が父方の叔父に可愛《かわい》がられるというのは、そんな「血筋」にも原因があるのかもしれなかった。
「それで、武」
叔父は傍《かたわ》らの椅子《いす》を引き寄せて座ると、甥の顔を改まった様子で凝視した。
「おまえ、これからどうするつもりだ?」
「どうするって……?」
「将来のことだよ。大学に行く気はあるのか。受験勉強はちゃんとしてるのか?」
「……」
叔父の目を避けるように俯《うつむ》いて、武は押し黙った。
「その様子では、ろくにやってないみたいだな」
叔父はやれやれという顔つきで言った。
「予備校にも殆ど通ってないっていうじゃないか。このままだと二浪ってことになりかねないぞ。それでもいいのか」
「叔父さんも……」
武はちらと叔父の方を見ながら皮肉っぽく言った。
「とりあえず大学へ行っとけ派?」
「学歴を必要としない世界でやっていく自信があるなら、かえって時間のむだになるから、無理に行けとは言わないが。何か他にやりたいことがあるのか」
「別に……」
「そういえば、おまえ、高校に入って、ボクシングはじめたって聞いたが、そっちはどうだ? プロになるとか……」
「それは考えてないよ」
「ただのお遊びか」
「だって、たとえプロになれたとしても、ボクシングのようなハングリー精神を何よりも必要とする世界では、お坊ちゃん育ちではどうせ大成しない。親父《おやじ》にそう言ったのは叔父さんなんだろ? そう言われてみれば、俺もそんな気はしてたし。成功しないとわかりきっている世界に飛び込んでも……」
「それでもいいからやる、という気概がないなら、最初からやめておいた方が無難だな」
「……」
「一体、何がやりたいんだ? 大学にも行きたくない。見たところ、汗水流して働く気もなさそうだし。将来の夢とか、やりたい職業とか、何かないのか」
「何もない。金積まれてもやりたくない職業なら一つだけあるけど」
「なんだ?」
「政治家」
「……」
叔父は苦笑した。
「情けないなぁと言いたいところだが、いまどきの若者なんてこんなものだろうな」
叔父はため息まじりでそう呟《つぶや》き、「だったら、とりあえず」と言いかけた。
「大学へ行けってか?」
武は先回りして聞いた。
「受験勉強なんて面白くないかもしれないが、あんなものは点取りゲームの一種だと思えばいいじゃないか。ゲームなんだよ、ゲーム。パソコンゲームやテレビゲームにしても、高得点を取ってクリアすれば気持ちいいだろう? それと同じだよ。ルールおぼえて、高得点を取るためのテクニックをちょっとおぼえて、それを使って、取れるだけの点を取ればいい。それだけのことじゃないか。ゲームと割り切って、クリアしようという気にはならないか」
「まあね……」
武は肩をすくめた。時たま、気が向いて勉強するときは、まさにそういうゲーム感覚だった。
「とにかく、大学に行く気があるなら、少しは勉強しろよ。そんなしょうもない週刊誌や漫画ばかり読んでる暇があったら、参考書の一つでも開いたらどうだ」
叔父《おじ》は、ベッド脇《わき》のテーブルの上に積み重ねられた何冊かの週刊誌の方にちらと視線を走らせたあとで、諭すように言った。
「うん……」
武は素直に頷《うなず》いた。
同じようなことは、母や父からも耳に胼胝《たこ》ができるほど聞かされてきたが、殆ど馬の耳に念仏状態だった。それがなぜか、この叔父に言われると、素直に耳を傾ける気になるから不思議だった。
この叔父には、下手に逆らえないような威圧感のようなものがある。ただ、威圧感といっても、父が見せる威圧感とは全く異なっていた。父のは、無理やり剛腕で首根っこを押さえ付けるような、いわば「剛」の威圧感だったが、叔父の方は、気が付くと、知らぬまにトリモチにひっつかれたように、やんわりと相手の懐に取り込まれてしまっているといった、「柔」の威圧感ともいうべきものだった。
「剛」の力には、こちらも力で反発することができるが、この「柔」の力で押さえ込まれると、抵抗のしようがなかった。
この方がこわいといえばこわい。「剛」の方は、こちらに相手以上の力が備わっていれば、撥《は》ね返すことも可能だが、「柔」の方は、こちらの力すらも逆に利用されてしまうからだ。
それに、叔父に言われるまでもなく、武の中で、ここ数週間の間に心境の変化のようなものが生じていた。
自分でもこのままでいいとは思っていなかった。今までは、頭では分かっていて、内心ひそかに焦りつつも、どうしても、それを行動に移す気力のようなものが湧いてこなかった。何をやっても本気になれない。遊び半分というか、どこかで最初から投げていた。
それが、あの事件のあと、命にもかかわるような酷《ひど》い怪我《けが》を負ったというのに、傷が癒えるにつれて、自分の中に何か新しい力のようなものが宿ったような感じがしていた。
何かやりたい。何でもいいから何かやりたいという気持ちが身体の奥から、清新な泉のごとく湧き出てくるようだ。
それは、単に肉体的な活動だけではなく、精神的な活動、たとえば、これまで全くやる気が起きなかった受験勉強も、そろそろ本気で取りくんでみようかという気にもなっていた。
「……前はこんなことなかったのに。不思議なんだよ。まるで一度死んで、生まれ変わったみたいな気分なんだ」
武は自分の最近の体調の変化について、叔父にそう説明した。
それを黙ってじっと聞いていた叔父はふと奇妙なことを呟いた。
「蛇は切られることで再生するからな……」
「蛇?」
「あの事件はひょっとしたら」
叔父は何やら考えこみながら言った。
「おまえにとって不運ではなく、幸運なことだったのかもしれないな。ひとつ間違えれば命取りになっていたかもしれないが。切り刻まれたことで、おまえは脱皮したのかもしれない……」
脱皮? 蛇?
叔父は何かの比喩《ひゆ》として言っているのかもしれないが、なんとなくその単語が武を刺激した。
蛇といえば……。
その瞬間、あっと思った。思い出したのだ。
背中に突然できた、あの奇妙な薄気味悪い痣《あざ》……。まるで蛇の鱗《うろこ》を思わせるような形状の痣をどこで見たのか。
今まさに目の前にいる、この叔父の背中だ。叔父の背中に、自分の背中に浮かび上がったのと全く同じ模様の奇怪な痣があったことを武は思い出していた。
あれは、まだ小学校にあがったばかりの、六、七歳の頃だっただろうか。夏休みを利用して、父の生家である長野の日の本村に家族で遊びに行ったことがあった。
一週間ほど滞在したのだが、その間に、この叔父と一緒にお風呂《ふろ》に入ったことがあった。そのとき、女のように白い滑らかな叔父の背中に、奇妙な薄紫色の痣を見たのだ。
そのとき聞いた話では、叔父の背中の痣は生まれつきのもので、この村で古くから祭られている「蛇神」の末裔《まつえい》であることの証《あか》しだということだった。この蛇紋を持って生まれた男子は生まれながらにして、その「蛇神」を祀る古社の宮司になるように定められているのだともいう。
そんな話を湯船の中で叔父から聞かされたことを薄ボンヤリと覚えていた。
「そうだ。叔父さん。これ見てよ」
武は、身体をひねって、裸の背中を叔父の方に向けた。
「入院してから、背中に変な痣みたいのが出てきたんだ。さっき、母さんに言われてはじめて気が付いたんだけど……」
背中を見せてそう言いながら、叔父の反応を待ったが、何も反応がなかった。
「母さんは、薬の副作用か皮膚病の一種じゃないかっていうんだけど、叔父さんの背中にもこんな形の痣があったよね。あれに似てない……?」
叔父の反応はまだない。
聞いてるのかよ、と思いながら、武は叔父の方に振り向いた。
叔父の顔色が明らかに変わっていた。