日语学习网
ずばり東京01
日期:2019-07-26 18:41  点击:258
     前 白─悪酔の日々─
 
 
「……小説が書けなくなったらムリすることないよ。ムリはいけないな。ルポを書きなさい。ノンフィクション。これだね。いろいろ友人に会えるから小説の素材やヒントがつかめるし、文章の勉強になる。書斎にこもって酒ばかり飲んでないで町へ出なさい。これは大事なことなんだド」
 昔、ある夜、クサヤの匂いと煙りのたちこめる新宿の飲み屋のカウンターで、武田泰淳氏にそういう助言を頂いたことがあった。泰淳氏は東京生れの東京育ちで、都会人の特質である繊細なはにかみ癖があり、いつも眼を伏せるか、逸《そ》らすかして、小声でボソボソと呟《つぶや》くのだったが、他人の意見などめったに耳に入ることのない年齢だった私の耳に、どういうものか、この忠告が浸透した。コタエたし、きいたのである。
 芥川賞をもらったのが昭和三十二年(一九五七年)のことで、いっぱし作家として公認、免許をとったわけだが、もともとプロの作家になろうという心の準備なり、覚悟なり、鍛練なりが積んであるわけではなかったから、たちまち壁にぶつかり、鬱症も手伝って、ひどいスランプに陥ちこんだ。流砂に下半身をくわえこまれたようなもので、毎日、朝からウイスキーを飲んで、不安と絶望をうっちゃっていた。一日にトリスなら二本、角瓶なら一本を服用していて、風呂に入るとお湯がアルコールの匂いをたてるくらいであった。もちろん机の原稿用紙は白いまま。
 こういう泥みたいな日々がつづくうちに、たしか昭和三十八年の夏だったと思うが、『週刊朝日』の編集部から誘いがかかり、『日本人の遊び場』というルポを書くことになり、二日酔いでフラフラの体をひきずって家を出た。ついで『ずばり東京』。これが一年余り。毎週毎週、デッサンの勉強にはげんだ。鬱、不安、絶望におぼれ、バナナの叩き売りのように森羅と万象をひっぱたくことに没頭し、ルポだから事実は事実として伝えなければならないが文体は思いつけるかぎりの変奏と飛躍の曲芸に心を托した。当時のトーキョーは一時代からつぎの時代への過渡期であったし、好奇心のかたまりであってつねにジッとしていられない日本人の特質が手伝って、あらゆる分野がてんやわんやの狂騒であった。破壊は一種の創造だというバクーニンの託宣は芸術家と叛乱家の玉条であるが、トーキョーもまたこの路線上で乱舞、また乱舞していた。それにひきずられて私は悪酔をかさねつつノミのように跳ねまわったのだった。その記録がこういう文庫版になって再刊されることになり、うれしいことはうれしいけれど、冷汗、熱汗、恥しさのあまり、ゲラを読みかえす気力がでてこない。編集部に白紙委任状をわたし、頭からフトンをかぶってしまう。
 当時の『週刊朝日』の編集長は足田輝一氏で、今は定年退職してナチュラリストとして淡麗の文業にいそしんでいらっしゃる。武蔵野の雑木林をさまよい歩いて明窓と浄机の日々を愉しんでいらっしゃる。私はといえば放浪が癖になってしまい、ヤングの表現ではエエ年《とし》ブッこいて、アマゾンのジャングルやアラスカの荒野を東に西にわたり歩いて、いまだに心、定まらない。はにかみ屋の武田泰淳氏はとっくに川の対岸に越しておしまいになり、クサヤの匂う飲み屋はいまでもあるけれど、私に親身の声で助言、忠告してくれる人はひとりもいない。

分享到:

顶部
11/25 13:12