佃島⇔明石町 渡守り一代
話者 本田 惣八
年齢 六十四歳
職業 佃《つくだ》島渡船場の船長(中央区明石町と佃島を結ぶ隅田川の渡船)
場所 渡船場近くのすし屋
「……昭和四年からやってるんです。もう三十五年目です。二十九のときからやってるんです。それまでは東海汽船という会社で四百トンくらいの船にのってたんですが、すすめる人があってこちらへきたんです。それ以来ずっとになっちゃった。女房をもらったところがそのころ病気をしてね。この仕事なら一航海で五日、六日と家をあけたりせずにすむしと考えたりした。いいだろうというのでやりだしたら、それがこんなふうになった。なんとなく一生の仕事になってしまったんです。
「いまは朝六時から夜十時までを二直制でやってるんです。十五分ごとに一航海だから一時間に四回、一日に六十四回往復していることになるか。いま工事をしている佃新橋が八月頃に完成したら渡船はいらなくなるので、自分も陸《おか》にあがります。
「それからなにをするって? さあね。年も年だし、子供も大きくなったんだから、これだけ働いたんだし、もう遊ばせてもらってもいいんじゃないかと思ってるんだがね(顔なじみらしいすし屋のおっさんが、金利で食うんだ、金利でと、笑いながら声をかけると、船長は笑う)。冗談いっちゃいけない。金利なんて。お前さんみたいに漁師をやめてたんまり補償金をもらったわけじゃないよ。この先生たちはそりゃにぎってるんだから。こちとらは話が違わあな(すし屋のおっさんは笑ったまま答えない。せっせとすしをにぎりつづける)。
「この渡船場は、もとは佃島の地元の人たちが共同でやってたんです。伝馬《てんま》でね。漁師が交代で順番制で漕いでいた。それが大正十五年に都に買いあげられてからいまみたいなスチーム(蒸気船)になって、無料になったんです。それまではいちいち乗船賃を払ってたんです。トモのところに箱がおいてあって、チップをくれるのがいたりすると一人が声をかけるんだ。船頭ッ、もらったよッ、礼いってくんなというんだね。すると船頭が、ありがとうござんしたというんだ。地元の連中が遊びにでかけて夜遅く帰ってくると、向う河岸から大声で呼んだもんです。それも、ただオーイ、オーイといったんじゃあだめだが、トキヤーイというと船頭が起きて舟を漕ぎだしてくれた。トキヤーイというんです。そういうと、ああこれは地元の人間だとわかって、舟を漕ぎだしてくれたんです。
「その頃はいまみたいに十五分ごとに舟をだすというんじゃなくて客がたまればだすというぐあいだったから、舟を待つあいだ渡船場で漁師たちは魚河岸へいったつもりだといってコレを(手つきをしてみせるので……)そう、そうコイコイをやったり、チョボをやったりして遊んだもんです。昔はそういうのがここではさかんだったね。よくシャモを飼って賭けをやったですよ。戦前は二十軒ぐらいもあったかな。そう、闘鶏です。おかみさん連中にしかられてすっかり廃《すた》ってしまったようだが、いまでも一軒飼ってるようだな。あの家は何とかいったな。都内じゃあ遊べないから、千葉、埼玉、茨城のほうへいって遊ぶんでしょう。一回千エンとか三千エンとか聞いたようだな。そう、そう、タクシーにのってシャモを運んでいくんです。これはバカにならない遊びだ。あの家は何とかいった。四十何年もシャモを道楽に飼いつづけてるんだ。商売は魚の行商だが、シャモを道楽にしてるんだ。おれのとこは女房が理解してくれるんだといって、いばってたようだぞ。
「佃島は摂津から家康が漁師を運んできて開いた土地で、三十何人かの大阪の漁師がはじめたという土地なんで、いまだにここ独特の言葉があるんだ。佃言葉というのは独特のもんだ。大阪弁なんだね(早口にペラペラとやるので二回、三回、ゆっくりと繰返してもらう)。ナニ、アンドルマ、ミロマカー、アンナコトシテケツカル、ミネマカー。言葉の尻に�カー�というのをつける。アンドルマというのは、あいつで、ミロマカーというのは、見ろやいというようなことです。ミネマというのは、やっぱり見ろやいってことだな。あいつあんなことしてるぞ、見ろ、見ろっていってるんだな。それをそういうんだ。ケツカルというのは大阪弁だよ。いまでもそういってるもんな。東京のドまんなかにこんな古い大阪弁がのこってるんだからおもしろいもんだよな。いや、いや。子供はだめだ。子供はもう使わない。年よりだけだ。ここの年よりは妙な癖があって、銭湯へ泳ぎにいくと冬の寒い晩でも着物着ないで、着物かかえて、フンドシ一本で家へ帰っていくな(すし屋のおっさんは、そうだ、そうだとうなずく)。冬の晩の九時、十時という時間にだ。フンドシ一本になって歩いてる。
「佃煮、佃煮っていうけれど、あれは漁師がはじめたもんなんでね。しょっちゅう潮風にあたって舌がバカになってるからああいう辛《から》い煮〆めでなきゃピンとこないんだ。いまの佃煮はやたらに甘いけれど、昔はもっと辛かった。ミリンや砂糖を使わないで生醤油《きじようゆ》で小魚を煮たもんだった。それがいまは照りをよくするためとかいって、なんでもかんでも甘くしちゃう。それに、あれだ。佃煮、佃煮といっても、いまは水が荒れて魚のサの字もないんだから、みんな八郎潟や浜名湖や霞ヶ浦あたりでとれた小魚なんだ。それを地元に技術をもっていって工場たてて煮たやつ、出来あいのやつを持ってきて、ここで売ってるんだよ。いくらか手直しをしている家もあるようだけどね。こう水が荒れてはしようがないね。白魚を宮中に献上にいくのが習慣だったけど、あるとき天皇が、東京で白魚がとれるのかってスッパぬいたもんだから行事をやめにしたというじゃないか。
「そりゃあここらの水はおちぶれたね。戦前は冬など底まで透いて見えたよ。カキがびっしりくっついていたりした。こんなセイゴが(といって指を二十センチほどひらいてみせる)いまの渡船場のところにウヨウヨ泳いでて、それを釣るやつらがいっぱいなもんで、しょっちゅう、じゃまだ、じゃまだ、船がつけられねえってどなったもんだ。白魚、フナ、ウナギ、ドジョウ、なんだってとれたけどね。ここらじゃあ�ボサ�といって杉の枝を水に沈めといてウナギをしゃくったね。それに、また、竹筒を沈めといて夜なかに這いこむウナギを朝になってしゃくいとったりもしたよ。これは�ポーポー�といったな。そう、そう、竹筒ッポをちぢめて、�ポーポー�といったんだね。とにかく水がきれいだった。夜になると渡船場の板や柱を食う鉄砲虫の音がムシムシ、ムシムシって聞えたもんだが、いまじゃそいつらも消えてしまったからな。冬は水が腐らないからまだいいけれど、梅雨時や夏にきてごらんなさい。水が墨汁みたいになって、メタンガスがポクッポクッ、パチッ、パチッ、ゴボッ、ゴボッと泡たててそりゃもうひどいもんです。川いちめんに夕立がふったみたいになりますよ。
「渡船場で自殺するというのが一時|流行《はや》ったことがあるんです。昭和十年頃かね。私も助けたことがある。朝の十一時頃に、川の中程まで船をだしたときに、落チターッという声がしてね、ふッと見たら、娘さんがとびこんだんだよね。赤い着物を着てたもんだから川にパッと大きな真ッ赤な花が咲いたみたいに見えた。それが顔をあげて船が寄ってくるのを見てるんだ。船が寄っていくといそいで顔を水のなかにつっこむ。そうやってふわふわ浮いてるんです。これは世田谷あたりの娘さんで、あとで新聞を見たら、失恋だというんです。カギでひっかけて助けあげたんですが、ずっとあとになってまた新聞を見たら、いいぐあいに結婚して子供をつくってうまくいってると書いてありましたよ。
「……ええ、人命救助で二回、永年勤続で二回、表彰状をもらいましたが。
「とにかくそのころは渡船場が評判になって、よく自殺にやってきたんです。電車にのったり、バスにのったりして長い振袖のなかにこう、石とか、重たいものとかつめて、体が沈むように工夫してから、はるばるやってくるんです。やっぱりそれも流行で、三原山が評判になったらパタッと止《や》んだ。妙なもんだね。パタッとそれっきりになった。
「三原山のつぎはどこへいくんだろうと見ていたら熱海が流行りだしたね。いまはガスやら劇薬やらが流行っているようだ。こう水が汚くなったら自殺する気にもなれないよ。ここではなァ。自殺する気にもなれないよな。
「……いや、きません。
「助けた人でもお礼にきた人はいません。
「ええ。一人も……
「はずかしいよ、そりゃあね。やっぱり。テレくさいよ。そういうことは……
「戦争中は南方戦線に召集されてやっぱり船に乗ってたんです。第三船舶輸送司令部というんだ。ジャカルタでオランダが逃げしなに沈めた船を引揚げて、その船に船長として乗った(インドネシアの人情、風物、果物のことなどがしきりに話題となり、すし屋のおっさんも衛生兵でインドネシアにいたことがわかり、かつ筆者も昨年の夏にバリ島へいったことがあるので、大いに話がはずんだが割愛することとする。記憶力旺盛で向学心のさかんな船長は�テレマカシ�≪ありがとう≫、�スーダラ�≪友だち≫、�パッサル�≪市場≫、�イカン�≪魚≫、�マカン・スダカ�≪メシすんだか≫などのインドネシア語をくりかえし、日本語とよく似ているではないかといって興がった。ついでにインドネシア人と日本人とは顔がそっくりだということを思いだして、私たちはハッキリと南方の血が入っているという意見を述べた。同感なり。眼鏡はずしてバリ島の渚をパンツ一枚で歩いていたら私はインドネシア人にインドネシア語で道をたずねられたことがある。ついでにいうとエルサレムの裏町でユダヤ人からヘブライ語で話しかけられたこともある。いったい日本人には幾種類の血が入ってるのであろうか)。
「それからつぎはベトナムヘいった。英仏連合軍の食糧を船で輸送したんだ。メコン河を上ったり下ったりして、プノンペンからサイゴンまで往復したんだ。あのあたりでは日本が負けたらすぐさま独立戦争がはじまって、現地人のゲリラがフランスとたたかいだしたんだ。日本兵で現地人のパルチザンに入っていったのがずいぶんいると聞いたよ。なにしろメコン河の岸で鉄砲さ打《ぶ》ってるゲリラをとらえてみたら、陣地の構造が日本軍そっくりだったり、持ってる鉄砲に菊の紋が入ってたりするんだからな(すし屋のおっさんがのりだしてきて、インドネシアでもまったくおなじであったと話しはじめる)。
「現地人のゲリラはいまでもそうらしいけれど、すごく元気があって、強くて、組織がしっかりしてるらしいんだな。フランス軍はたじたじとなったようだ。ところが、あるときプノンペンで町の喫茶店に入ったら、どうも日本人くさいのが一人しょんぼりとすみっこにすわってるのがいたので、寄っていって日本人かと聞いてみたら、そうだというんだ。日本へ帰らないのかと聞いたら、帰ろうにも帰れないというんだな。どうしてだと聞いたら、深入りしすぎてもう離してくれないというんだ。ただの喫茶店みたいに見えるけれど、あれでどこかのすみっこから見張られてたのかも知れんな。その男は現地人の女と結婚して現地人になってしまうつもりだとかいってた。そのあたりだけでも六十人くらいの日本兵がゲリラに入ってるとかいうことだったよ。そうか、元気でなといっておれはそのまま別れてきたんだけどな。ずいぶんたくさんの日本兵があのあたりで現地人に帰化したんじゃないかな(すし屋のおっさんは相づちをうって、そうだ、それはきっとたしかなことだという)。
「佃新橋ができてもタクシーがたくさんやってくるだけで、町はあまり変らないんじゃないかと思いますね。ここはほかの町とちがうんだからね。
「ここの出で世田谷や練馬やらに散っていった人でも祭礼になると帰ってくるんです。二十年も会わなかったのがひょっこりあらわれて渡しにのってくることがあるものね。ヤァ、ヤァどうしてるって話しあうんだけどね。こちらはずっと渡守りをやってるから町の人の顔はみんなおぼえてるんだ。こちらが忘れていても向うがおぼえていたりするし、佃じゃうっかり人の悪口はいえないというのもそういうことなんだ。みんな親戚縁者の関係があるんで、うっかり悪口がいえないんだね。外から入ってきた人でも暮しが気安いもんだから土地に根をおろしてしまうしするから、みんな知りあいになってしまうね。
「ここの祭りはおもしろいんだよ。百五十貫くらいもあるミコシをかついで川のなかへ入っていってね。昔はチリメンのハンテン着て入ったんだが、川からあがるときにはすっかりちぢんでつんつるてんになったもんだ。仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》で入ったりしたのもいる。いまは木綿の着流しだけどね。もう、そりゃあ、たいへんなさわぎになるんだ。�若い衆《しゆ》�というのがあって、子供、中子供、新若い衆、世話人などと階級をつくっていて、それがミコシをかつぐ。これは土地っ子だけで、よそ者は入れないんだ。今年は渡船場もなくなるしするから、佃新橋ができたときはこちらからと向うッ河岸の鉄砲洲からと、両方から渡り初めをやろうかって話が進んでるらしいんだね。
「もう最後だ。
「佃も変りますよ」
(船長がそうつぶやくと、すし屋のおっさんもだまってうなずいて、アルミの薬缶《やかん》から茶を茶碗にそそぐ。船長は腰をあげ、ていねいに挨拶して、家へ帰っていった)。