寒風吹きまくる労災病院
労働福祉事業団というところで『労災補償 障害認定必携』という本をだしている。三百七十七ページもある本で、人体のあらゆる部分について、頭のさきから足のさきまで、どう傷ついたときはどう値をつけるかということが細大もらさず書いてある。
これは自動車屋のパーツのカタログみたいなものである。労働者が現場で仕事をしていて怪我をすると労災保険というものをもらう。半身不随や失語症や両足を失うとか両手を失うとかの重傷では年金をもらい、それほどでないときは一時金がでることになっている。それがパーツによってみんな値段がちがう。一級から十四級まであって、ちゃんと分類されて値段表になっている。それがこの本である。労働省の補償課員たちと各地の労働基準監督署の職員たちは毎日この本と首っぴきで不具者の値付けにふけっている。
この年金や一時金はそれぞれの職場の平均賃金の何日分を支払うという計算法で支給されるので、おなじ小指をおとしても給料のいい仕事場で働いていた人と、わるい仕事場で働いていた人とでは値がちがってくる。定価というものがないのだ。算定法は※[#「○に公」]だけれど値は※[#「○に公」]ではない。大企業の大工場で働いている人の小指と中小企業の町工場で働いている人の小指とでは、おなじパーツであっても値がちがってくる。また、使用人五人未満の零細企業では事業主が労災保険に加入する経済力を持っていないことが多い。そういうときには小指はさらに安くなるだろう。苦痛がおなじなのに値はこのように不平等である。どういうわけだ?
年齢と仕事場で千差万別の値がでてくるのだが、試みに全日本の平均賃金で換算して人体値段表をつくってみると、つぎのようになった。
(男子労働者の全国平均では日給が約九百エンである。物価倍増とわれらの自尊心の立場も考え、ちょっと高く千エンと踏んでみた)
◎年 金(一級〜三級)
目玉二コ 二十四万エン
失語症と顎《あご》ガクガク 〃
白痴 〃
半身不随 〃
両腕|肘《ひじ》から上 〃
両足|膝《ひざ》から上 〃
両手の指十本 十八万八千エン
失語症か顎ガクガク 〃
◎一時金(四級〜十四級)
両耳聞こえず 九十二万エン
顎ガクガク舌レロレロ 〃
腕一本肘から上 〃
足一本膝から上 〃
片腕ぶらぶら 七十九万エン
両足ぶらぶら 〃
両足の指十本 〃
片腕の関節二コ 六十七万エン
片足の関節二コ 〃
キンタマ二コ 五十六万エン
片手の親指と人さし指 〃
片足の指五本 四十五万エン
脾臓《ひぞう》又は腎臓《じんぞう》一コ 〃
鼻欠け 三十五万エン
女の顔のひどい傷 七級
男の顔のひどい傷 十二級
えげつない書きかたになったけれど官庁用語を私流にくだいてみたらこうなった。
この『障害認定必携』はほかに皮膚、内臓、人体全部について微に入り細をうがった評価法を紹介していて、じつに有益である。ここに書き出した表は氷山の一角にすぎない。著者は判定にあたってつねに冷静、沈着であらねばならぬことを説いている。片足の指五本は両足の指十本の正確な半額ではなくて少し高いことや、おなじ顔のひどい傷でも男と女とではたいへん等級がちがうことなど、科学主義が機械主義ではないのだということを示していて、心暖まる思いである。
さらにまた、たった一銭五厘の赤紙で命を売りまくっていた時代もつい昨日までわが国にはあったのだと思えば、両眼を失明して毎月二万エンもらえるありがたさ、まずは天下泰平、御代万歳である。手さぐり、足さぐり、この世がまっ暗になって月二万エンでどんな暮しができるかなどとは聞くまい。ついこのあいだ犬の訓練所で聞いたことだが、広い東京に盲導犬は一匹もいないのだという事実などはソッとしておこう。杖と�小さな親切�運動が私を導いてくれよう。心臓のひそやかなときめきに耳を傾けつつ私は涙して、三度三度の御飯のたびに、御民《みたみ》われミミズのごとくなれど生けるしるしあり、とくちずさむこととしよう。生れてきたのがまちがいであったなどとは口が裂けてもいえることじゃない。
大森に労災病院という災厄の館があり、どんとぶつかれば倒れそうなバラック二階建、廊下には寒風ひゅうひゅう吹きこみ、壁には雨が地図を描いている。朝な夕なの廊下は貧しい、損われた人びとで魚河岸のようなごったがえしである。院長は近藤駿四郎氏といって脳外科では日本屈指の名医、英・独・仏三カ国語をよくし、文学、哲学に造詣深く、風采《ふうさい》いたってあがらないが気骨満々、用語ざっくばらんべらんめえ、病院では峻烈正直《しゆんれつせいちよく》をきわめ、料理屋では明察寛容、京都へいってお墓を見てまわっていたらほのぼのしてきてついにおれも則天去私の心境をなつかしむようになったかと、洩らされる。しかし、その言葉の尻から、いまの日本の大新聞はまったく読むに耐えぬ、旗を失ったと烈《はげ》しく率直な糾弾の言葉も浴びせられ、わが友丸徳記者はメモをとりつつシュンとなってうなだれた。
この雨洩れ館には近藤先生の言葉によると京浜工業地帯のその日暮しの人びとが集ってくる。ときには先生の名声を慕って大会社の社長や重役が這いこんでくることもある。しかし、つねにやってくるのはアリのように生きている人びとである。先生の専門の脳外科についていえば、屋根からおちた大工だとか、飲み屋から出しなに自動車にはねられた大工だとか、トラックの助手席にのっていて事故で頭の砕けた運転手だとか、十八歳のときからテンカンになって村八分にされていた娘さんだとか、帰り道に自動車にハネられて口のきけなくなった銀座のバーテンダーなどである。中小企業の工員でもある。たいていの怪我人は最寄《もよ》りの町医者にかつぎこまれるが、治らなくてどうにもこじれてしまったのがここへ運ばれてくる。いわば近藤先生は隙間風にふるえつつ、十年間、東京という怪物都市の偶然が排泄する悲惨の廃物を再生することで格闘をつづけてきたのだった。
この世でお金を手に入れるためには、いつも、なにかを失うか、売るかしなければならない。売買の原則の上につくられた社会なのだから当然である。売るほうが値をちょっとでも高くつけようとすると、買うほうはそれをたたく。見わたすかぎり荒涼としているがそういう世界である。ましてや、眼だの、腕だの、足だのと、一度失ったら二度とかえってこない、たった一回しか売れないものとあってみれば、誰だって高く買ってもらうことに必死の知恵と工夫をこらすであろう。�障害等級�を評定するのは病院では医者なので患者たちのなかには思い思いの工夫と努力を編みだすものがある。
ある大工は屋根からおちて背骨を打った。病院へつれてこられたときは半身不随になっていた。彼は来る日も来る日もジッとベッドに寝たきりで微動もせずに三年をすごした。ところが、ある日、昼寝をしているとき、�火事だッ�という声を聞いて、やにわに彼はベッドからとび起き、みごとな疾駆《しつく》をしてみせた。火事が消えたあと彼は詐欺罪に問われ、あらためて刑務所へ入れられたという。
(私はこのような不寛容と正しさを疑う。一種の愚昧《ぐまい》ではないかと思う。英雄を遇する道ではない。考えてもみてごらんよ。三年間、微動もせずにベッドに寝ているなんて、できたことではない。すでに彼は自らを十分に罰しているとはお思いにならないか?……)
おしても、たたいても、つついてもピンと硬直してのびたきりの指を、医者が査定表にサインを終ったとたんに、それだけが自尊心の唯一のよりどころであった患者は喜色満面、�イヒヒヒヒ……�と笑ってピクピク曲げたり伸ばしたりしてみせる。医者は苦笑して�バカァ……�といい、ちょっと頭をこづいてやる。
沖仲仕の仲間に、�あん畜生から絶対金をとってみせる�と豪語して病院にかよう男があった。近藤先生の病院であった例である。男はにせきちがいになり、三十センチとは近寄れないような、すさまじいボロをまとって病院に日参した。噂が耳に入ったので、先生は腹心の患者にいいふくめてあとをつけさせた。男は病院をでてバスにのると、勤務が終ったと思って安心し、やおら胸のポケットから銀行の預金通帳をとりだして自慢した。通帳を覗くと、百万エンなにがしという数字が眼に入ったという。
明治以来、日本の男は徴兵忌避のために必死の工夫をかさねてきた。詩人の金子光晴は息子さんを書斎にとじこめて松葉でいぶしたり、冬の深夜に素ッ裸でリュックかついで駅まで走らせたりした。胃潰瘍になるまでショウユを飲みつづけた人もある。私の友人の父はフナの刺身にこってカラシ味噌をつけ三度、三度、一週間食べつづけ、みごとお猿さんのように�第二通用門�が真ッ赤にはじけて入営をまぬがれた。チェコでは石油を手に注射したり、足首の関節をはずしたり、犬のように吠えてみせたりしたものだと『兵士シュベイクの冒険』に書いてある。フランスでは、ラクロワという作家が『出世をしない秘訣』という本のなかで、錫《すず》紙の玉をのみこんだり、亜鉛華軟膏を胸にぬったり、まぶたにコショウをぬったりする方法を有効だと推奨している。
いっぽうは逃げるため、いっぽうは失ったものを高く売りつけるため、目的はちがっても追いつめられた人間が発揮する必死の知恵であることに変りはない。誰か全世界のこういうことを集めて一冊の本をつくらないか。さしあたり題は『生きるよろこびの苦しみ』とでもして……
本人が惨苦を味わうのへ、つぎはまわりの人間獣たちが保険金めあてにうごきはじめる。天涯孤独のはずの青年が死んだとたん親兄弟がどこからかあらわれたり、女房にわたるべきはずの金を親兄弟がとりあげてしまったり、そうかと思うと、子供や父母を捨てて女房が金を持って新しい男と逃げたり、男が死んだとたんに�内妻�が数人も一度にあらわれて権利を主張しあったり、というようなことがしじゅう起るのだという。
これは北九州の炭鉱地帯によく見られることであるが、炭鉱が炸裂して�労災後家�ができると、うまいこといってはとりついてずるずると男がくっつく。男は飲んだり遊んだりして一人の後家を食べつくすと、さっさと彼女を捨ててつぎの後家をさがす。事故が発生して誰かが死んだというと、きっと現場にかけつけて後家をさがす。まるでハイエナみたいなやつらだが、ほんとにいるというのだ。
こういう話を聞いていると、魯迅の小説を思いだす。主人公が狂って�人間が人間を食う!�と叫ぶのだ。たしかその小説では、主人公は、非道な権力と金力に向ってその叫びをたたきつけるのだという話になっていたと思う。けれど、ここではどうだろう。アリのような人間がアリのような人間を食っているではないか。いずれも無力な貧しい男が女を食い、女が男を食い、親が子を食い、兄が弟を食っているではないか。
病室を見てまわった。荒涼とした、よごれた、貧しい箱のなかで四人、五人と植物状態におちこんだ人びとがのろのろと野菜の煮付けを食べたり、天井を眺めたりしていた。みんな頭を手術のために坊主刈りにされ、野球のボールの縫いめのような、すさまじい開頭手術の跡をつけていた。先生が入っていくと、しびれた舌をうごかして呻き呻き、みんな、よくなった、よくなったといってニコニコ笑った。交通戦争で頭を砕かれたのだという人が多かった。トラックの助手席にのっていて頭を砕かれた青年が一人、ベッドに寝ていたが、さわれといわれたのでさわってみると、彼の頭には骨がなくて、まるでタコの頭のようにぶわぶわしていた。皮膚のすぐしたで脳がどきん、どきんとうごいている。針一本さしただけでたちまち流れだしてしまいそうだ。砕けた骨をどう縫合のしようもないのでとってしまったらこうなったという。戦争中に中学生の私は無数の死体を見て人間のもろさということばかり教えられ、覚悟はできているはずなのだが、やっぱりたちすくんでしまった。死とか、こうしたことは、一時大量に浴びせられてマヒすることはあっても、いつも新しくよみがえってくるものなのだと思う。その夜は酒場を四軒飲み歩いたが、家に帰ってみるとやっぱり手のひらに脳の脈動がしみついていた。
近藤先生はいった。
「……病院で見てると人生は弱肉強食、適者生存だけだぜ。むきだしの生存競争なんだ。それ以外になにもないわな。それを百も承知の上で旗をたてるんだわ。チェホフもクローニンもモームもそうした。モームは旗がない、旗がないというが、そうやってじつは別の旗をたててるんだぜ。おれはバカといわれチョンといわれても自分なりの旗をたててるんだ」
「土にしっかとつきささっていますか。倒れませんか?」
「つきささっているようだ」
先生は言葉少なに、しかし確信をこめてそういいきった。久しくそのようにはっきりした言葉を私は人から聞いたことがなかったのでしばらく顔があがらなかった。先生は�則天去私�だとか、鑑真《がんじん》の木像を味わいに展覧会に何日もかよったなどとおっしゃるのだが、熱い騎士の一人なのである。そしてどこにも旗を見つけられないでいる私はうなだれて茫然《ぼうぜん》としているばかりである。そして、また、あのタコのような頭になった青年はこれからさきどうなるのだろうと考えて茫然とするばかりでもあった。