瓜生の亀石
兵庫県の西のはずれを少し北へあがったところに瓜生《うりう》羅漢の谷はある。
車を下りて落葉の石ころ道を瀬に沿って登り、急な石段をいくつか登ると洞窟があって、苔むした十九体の羅漢さんが坐っておられた。
うぐいすが啼き、瀬音がひびく中に、おそろしいまでの静寂がある。うっそうたる緑、一日に二時間しか陽が当たらないというこの谷に、羅漢さんはどこからどうやって来られたのか。洞窟の中は更に暗い。
あごに手を当てている人、耳に当てている人、肩をもちあげ組んだ両手を膝でつっ張った人のおどけ顔、本を持っている人、琵琶を弾いている人、パーマネント、坊主頭、おかっぱ頭、中央のお方は仏の手の組み方だ。その両脇のお方も後光を負うておられる。
いずれにしてもみんな私を待っていてくださって「さあ聴こうじゃないか、何でも話してごらん」のお姿なのであった。
大正三年に作られた柵には大きな南京錠が掛けてあって、お側近くで泣き伏すわけにはいかないが、だからこそああやって耳に手を当てておられるのであろう。
それにしてもどこから来られたか。
西洋人、中国の人、南方の人、見れば見るほど雑多なお顔である。
なぜにここを終《つい》の棲家とされたのか。
羅漢は答えず「聴こう聴こう」の声ばかり。なぐさめ役には笛もつ人も居て、琵琶のうしろにひかえて居られる。ここに猿《ましら》と住むなれば、やがての日私も妙なる楽《がく》を聴けるようになるかもしれない。
それにしても静かな。
ふと横に目をやると、瀬に架かる小橋のほとり、何やら大きな石がある。近づいてみると下敷の石は大亀で、乗るは人の形の石である。亀は首をもたげて瀬音の方を向いている。
「浦島太郎」。私は声に出して、はるか南の、目には見えぬ海を見た。
亀は竜宮城から浦島太郎を乗せて陸へ送って来たのだ。客人を無事送り届けるように乙姫に言いつけられている亀は、太郎の求めるままに川を遡ってこの谷までやって来た。浦島が玉手箱をあけたのはここにちがいない。絶望した彼は再び大亀の背中に乗って、もう一度竜宮城へ連れて行ってくれと言う。
亀は困った。この狭い岩だらけの瀬を、やっとの思いで遡って来たのだ。自分だけなら手足も首も引っこめてゴロゴロと海辺まで転がっても行けよう。しかし、ぐったりと老いた浦島を乗せては無理だ。考えているうちに亀も浦島太郎も石になってしまったのだ。
浦島は自業自得。けれども亀は気の毒だ。首を伸ばし切った亀石の望郷に私は涙した。人の心の願望もまたこの石の如しと。
兵庫県の西のはずれを少し北へあがったところに瓜生《うりう》羅漢の谷はある。
車を下りて落葉の石ころ道を瀬に沿って登り、急な石段をいくつか登ると洞窟があって、苔むした十九体の羅漢さんが坐っておられた。
うぐいすが啼き、瀬音がひびく中に、おそろしいまでの静寂がある。うっそうたる緑、一日に二時間しか陽が当たらないというこの谷に、羅漢さんはどこからどうやって来られたのか。洞窟の中は更に暗い。
あごに手を当てている人、耳に当てている人、肩をもちあげ組んだ両手を膝でつっ張った人のおどけ顔、本を持っている人、琵琶を弾いている人、パーマネント、坊主頭、おかっぱ頭、中央のお方は仏の手の組み方だ。その両脇のお方も後光を負うておられる。
いずれにしてもみんな私を待っていてくださって「さあ聴こうじゃないか、何でも話してごらん」のお姿なのであった。
大正三年に作られた柵には大きな南京錠が掛けてあって、お側近くで泣き伏すわけにはいかないが、だからこそああやって耳に手を当てておられるのであろう。
それにしてもどこから来られたか。
西洋人、中国の人、南方の人、見れば見るほど雑多なお顔である。
なぜにここを終《つい》の棲家とされたのか。
羅漢は答えず「聴こう聴こう」の声ばかり。なぐさめ役には笛もつ人も居て、琵琶のうしろにひかえて居られる。ここに猿《ましら》と住むなれば、やがての日私も妙なる楽《がく》を聴けるようになるかもしれない。
それにしても静かな。
ふと横に目をやると、瀬に架かる小橋のほとり、何やら大きな石がある。近づいてみると下敷の石は大亀で、乗るは人の形の石である。亀は首をもたげて瀬音の方を向いている。
「浦島太郎」。私は声に出して、はるか南の、目には見えぬ海を見た。
亀は竜宮城から浦島太郎を乗せて陸へ送って来たのだ。客人を無事送り届けるように乙姫に言いつけられている亀は、太郎の求めるままに川を遡ってこの谷までやって来た。浦島が玉手箱をあけたのはここにちがいない。絶望した彼は再び大亀の背中に乗って、もう一度竜宮城へ連れて行ってくれと言う。
亀は困った。この狭い岩だらけの瀬を、やっとの思いで遡って来たのだ。自分だけなら手足も首も引っこめてゴロゴロと海辺まで転がっても行けよう。しかし、ぐったりと老いた浦島を乗せては無理だ。考えているうちに亀も浦島太郎も石になってしまったのだ。
浦島は自業自得。けれども亀は気の毒だ。首を伸ばし切った亀石の望郷に私は涙した。人の心の願望もまたこの石の如しと。
まぼろしを掴む短い手足かな