意志で消す虹
電車に乗ると進行方向窓側というのが私の好きな席である。その日も電車はよく空いていてどこへでも腰掛けられた筈であった。それなのに私は何気なく進行の反対側へ坐ったのである。偶然とは思えないその偶然が私に素晴らしい贈り物をしてくれた。
「あッ、虹、虹。お姉さん虹ほらほら!」
姉はゆっくりと首をまわして、「ホント。あんた、みっともないから坐りなさい」と言ったきり、二度とふり向こうとしなかった。虹は街のビルにかくれたり又あらわれたりしながらその七彩をくっきりと見せてくれた。
「お姉さん、虹は紫色からはじまるのやね」
「そうよ、それがどうしたの」
「電車の中から虹を見られるなんて、幸運もいいとこね、ね」
「こんな日和にはよく出るものよ」
姉は目をつむっている。手形のことでも考えているのだろうか。私は仕方なく虹をじっと見ていた。虹は夢、虹は憧れ。そういえば秋のある日、私は日本海から誕《う》まれた雄大な虹を見た。遠くの人が見ればノロノロと走っている特急白鳥から虹が立っているように見えたかもしれない。それほどに近い海から私を汽車ぐるみ呑み込んでの大虹だった。その時は一人旅なので存分に感動の涙を流したが、今、買物帰りに見るこの虹に泣いては姉に叱られよう。
そのうちに虹は私の心に入って来た。私は心の中に人を住まわせていた。
「いいとしをしたおばさん」というのは世間の眼であって、八十歳で虹に感動する人も居ると思う。その人やこの人と私は握手をしたい。さて、電車も下車駅に近づき、私は虹を、いや私の夢を早く消さねばならなかった。改札口を出るときにやっと一句が叶った。
電車に乗ると進行方向窓側というのが私の好きな席である。その日も電車はよく空いていてどこへでも腰掛けられた筈であった。それなのに私は何気なく進行の反対側へ坐ったのである。偶然とは思えないその偶然が私に素晴らしい贈り物をしてくれた。
「あッ、虹、虹。お姉さん虹ほらほら!」
姉はゆっくりと首をまわして、「ホント。あんた、みっともないから坐りなさい」と言ったきり、二度とふり向こうとしなかった。虹は街のビルにかくれたり又あらわれたりしながらその七彩をくっきりと見せてくれた。
「お姉さん、虹は紫色からはじまるのやね」
「そうよ、それがどうしたの」
「電車の中から虹を見られるなんて、幸運もいいとこね、ね」
「こんな日和にはよく出るものよ」
姉は目をつむっている。手形のことでも考えているのだろうか。私は仕方なく虹をじっと見ていた。虹は夢、虹は憧れ。そういえば秋のある日、私は日本海から誕《う》まれた雄大な虹を見た。遠くの人が見ればノロノロと走っている特急白鳥から虹が立っているように見えたかもしれない。それほどに近い海から私を汽車ぐるみ呑み込んでの大虹だった。その時は一人旅なので存分に感動の涙を流したが、今、買物帰りに見るこの虹に泣いては姉に叱られよう。
そのうちに虹は私の心に入って来た。私は心の中に人を住まわせていた。
「いいとしをしたおばさん」というのは世間の眼であって、八十歳で虹に感動する人も居ると思う。その人やこの人と私は握手をしたい。さて、電車も下車駅に近づき、私は虹を、いや私の夢を早く消さねばならなかった。改札口を出るときにやっと一句が叶った。
わが意志で消す虹なれば長く見る
虹は天然現象なのだから出るも消えるもあちらさま次第である。けれどもいったん私の心に入ってきた虹は私の手で消さねばならない。
だからこそ、私は長いあいだその虹を見て見納めるのだ。
人と人との別れにしても歯切れのよい別れはみごとだ。しかし、未練に苦しむことはそれ以上に深く美しいのだと私は思う。それも自分から去って行く過程の中での惑いと未練ほど人間らしい苦しみはないのではあるまいか。それが人を美しく見せる。「恋やつれ」という言葉と「恋わずらい」はちがう。わずらいは求める姿、やつれは放つ姿。
メカの現代に浮世絵でもあるまいと笑う人は笑うがいい。その根において人間は太古から不動である。手段や姿は変わっても人恋いの美は、そして苦は、不動である。
だからこそ、私は長いあいだその虹を見て見納めるのだ。
人と人との別れにしても歯切れのよい別れはみごとだ。しかし、未練に苦しむことはそれ以上に深く美しいのだと私は思う。それも自分から去って行く過程の中での惑いと未練ほど人間らしい苦しみはないのではあるまいか。それが人を美しく見せる。「恋やつれ」という言葉と「恋わずらい」はちがう。わずらいは求める姿、やつれは放つ姿。
メカの現代に浮世絵でもあるまいと笑う人は笑うがいい。その根において人間は太古から不動である。手段や姿は変わっても人恋いの美は、そして苦は、不動である。
未練地獄にワンと啼けとやワンと啼く