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言葉をください47
日期:2020-05-15 13:21  点击:302
愛のコリーダ

昭和五十七年六月八日、ロッキード裁判の一部の判決と『愛のコリーダ』という本の判決が同時に出た。
『愛のコリーダ』の同名の映画の写真とシナリオを大島が本にしたものである。このほうは一審判決通り「特に猥褻《わいせつ》を強要したものとは思えない」という理由で無罪となった。
事柄はちがうけれど、どちらも人間の欲望を追求し探求した果ての判決であることに私は興味を持った。片や金、片や性。
政治の中へ入りこんだ私利私欲の汚なさに較べるとき、『愛のコリーダ』における性の極致はむしろ清々しささえ感じさせた。あの映画を観た多くの人は、人間の愛のすさまじさと哀れさに共鳴したであろうと思う。私は阿部定に材を取ったストーリーの底知れぬさびしさに胸を打たれた。「吉つあん」と呼ぶ女の声が今も耳にある。それしかない世界での一人対一人の孤独。決して二人が一体とはなり得ない真理を大島は追いつめていったのだと思う。
それがどうして猥褻なのであろう。判決は白であったが「猥褻を是とするところまで掘り下げられなかった不満が残る」といった意味の大島発言は、人間の悠久の性に対する(それはまた生でもある)ねがいとして、頷けるものであった。
つきつめてゆくと愛かなてんと虫
鴨と石一体《ひとつ》なりしを鴨動く
大いなる許し真昼の百合ひらく
死ぬ話汗の背中を合わせては
微熱夕凪交わらんとす億の蟇《がま》
ひとつ跨ぐと月の菩薩がほほえまれ
 私の川柳はエロスを求めての彷徨である。エロスは愛。プラトンは、最高の純粋な愛はイデア(永遠不変の実在)の世界に対するあこがれだと言った。
私は、川柳という表現形式の中で、透明になりたいなりたいと希《ねが》いつづけてきた。プラトン哲学を知るよしもないが、その透明がもしアガペー(神の愛)であるとするなら、どこかに一致点を見出すことは出来る。
けれども私の川柳はおそらく終生透明を許さないだろう。『愛のコリーダ』の字幕の向こうで陽炎《かげろう》の如く燃えつづけていたあのルツボへ墜ちていく私が見える。
その美しさ。
ロッキード裁判におそれおののき、あるいはふてぶてしく歩く灰色人間を見たおなじ目に、ルツボは何と美しく在ったことか。今日は五十七年六月八日である。
どっと汗神を怖れぬ鍵が合う

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