品性に就いて
深夜にテレビを観ていると、小劇場の公演をやっていました。暫く演劇というものを観ていなかった僕にとって、舞台効果などはなかなかに触発されるものがあったのですが、役者や脚本の甲乙を差し引いてみても、どうにも面白くないのです。観るに忍びないといったほうが妥当なのかもしれません。一体何が忍びないのか。ベッドの中でブラウン管に向かってつらつらと考えるに、はたと思い至りました。問題は「品性」なのです。
演劇はメタファーを多用する芸術です。美術にしろ文学にしろメタファーは重要なアイテムの一つなのですが(メタファーを伴わない作品は個人的に余り興味を持てません)、シェークスピアの絢爛《けんらん》豪華な修辞句から現代のアングラ演劇まで、演劇はその特質上、存在の合わせ鏡のようにメタファーを使用します。時空と意味が捩れ、散らばる星屑がやがて一個の観念に集結するダイナミズムは、なんと美しいことでしょう。が、しかしメタファーとは神の領域なのです。神の姿に似せて人間が創作されたように、スピカの輝きを名もない一介の少女に与えるならば、その時詩人は創造主にならなければなりません。そして創造主たる不遜な行為が詩人に赦されるのだとしたら、それは彼の人間性などという卑小なことが問題なのではなく、品性が問題になる訳です。
品性のない作家のメタファーは醜悪の極みです。メタファーとは宇宙を再構築する行為です。少女がスピカに身を変えれば、その反動で金星は蛇にならないとも限りません。アンドロメダの彼方から角砂糖の結晶にまで及ぶメタファー、即ち宇宙概念は、知性や感性などで成し遂げられる筈もありません。例えば小劇場の旗手と謳われた野田秀樹の作品には、常に品性がありました。彼の技法や主題をいくら真似てみても根本の品性を模擬出来なければ、幾千の言葉を連ねたところでブリキの月が闇を照らすことはないでしょう。唐十郎には風のような品性がありました。薄汚いテントの中で涎《よだれ》を垂らしながら駄洒落を連発する乞食。王子が乞食を演じるからこそ物語は成り立ちます。これが品性のないエセ王子だったらどうでしょう。物語とはいえ、人の涎を誰が好き好んで観るでしょうか。原子構造が同じであればこそ、石墨はダイヤモンドへとメタモルフォーゼ出来るのです。
正しい乙女に必要なものも、この品性です。品性があればこそ、乙女は意地悪でも我儘でも、盗人でも赤貧でも赦されるのです。アインシュタインは「数式はエレガントでなければ」と云いました。エレガントとは品性、そして数式とは宇宙構造のメタファーだったのです。