愛はだし惜しみして使う
友人からはよく、「君は心が狭い」といわれます。まさにその通り。母の愛は海よりも深く、僕の心は猫の額より狭しなのです。例えばCDや本にしても、心の狭い僕は殆ど衝動買いというものをしません。「これはイイかな」という程度の心の揺らぎではお金と時間が勿体なく、ついつい慎重に「絶対イイに決まってる」ものしか買わないのが常。故に新作、新刊の類に縁遠いのは道理、巡りあうのは古典や同系統の作家ばかし。いきおいますます視野は狭く、凝り固まっていくのです。
つまりは僕の性格は「ケチ」なのだと思います。いろんなことに対し、無防備に自分の心を開くことが勿体なくて仕方ないのです。僕はいつだって王様きどりです。王様は偉いのですから、むやみに市井のものを手放しで気に入っては秩序が乱れます。博愛主義なんてもってのほか。宇宙にはそれぞれ愛するべき順番があって、その中心にいる王様が「苦しゅうない」「捨ておけ」と森羅万象を整頓していくのですから。固く閉ざされた高慢な心の扉。しかし、その頑なな鉄条網を超えて王様の耳に届く歌声があるのなら、王様はその歌うたいの虜になるでしょう。茨の柵をもかえりみず侵入してきた者の栄誉を讃え、王様は敬愛の接吻と共に従属を誓います。好きになるということは、その対象を特別なものとして認識し、他のものと区別するということです。特別なものというのは「特別」な訳ですから、沢山あってはなりませんし、簡易にその称号を与えられてもいけません。心を狭くし、ケチであることは、特別なものを明確に選別する為の方法なのかもしれません(実に嫌みな方法ですけどね)。
広い視野を持て、と先人はいいます。が、それはそんなに大切なことなのでしょうか。狭い視野では人生が謳歌出来ない、らしいのですが、限定された生活もそれなりに楽しいものです。ミクロはマクロに絡がります。僕は宇宙の果てで繰り広げられる壮大な未来の誕生より、小さな瑪瑙《めのう》の中で育まれた結晶世界の出口のないアラベスクのほうが、よっぽど美しく思えるのです。漫画なら大島弓子、書物なら澁澤龍彦、音楽ならバッハ、花ならかすみ草、宇宙人ならミスター・スポック。それさえあれば事足ります。時折、他のものに目移りしてしまいそうにもなりますが、そこはストイシズムで我慢のコ。マゾヒスティックな快感も、限定された生活には不可欠な要素です。
偏愛こそが愛の奥義。吝嗇《りんしよく》の精神でせっせと貯蓄した愛を、これぞと決めた対象に洪水の如く降り注ぐ。相手の迷惑なんて考えず、自分勝手に突き進む戦車のような愛。心の狭い人間は相手の気持ちなんておもんぱかってはいられませんから、相手が立ち上がれなくなるまで攻撃を緩めてはなりません。それが……愛ってものなのです。きっと。