砒素のように
その瞬間、世界は完全に回転を止めてしまったのです。只、しんしんと降り積もる雪のような哀しみだけが美しく眼に焼きつくばかりで、僕は立っていることさえままならず、自分の身体を強く抱き締めながら、ずっとずっと嘔吐し続けるのです。ねぇ、君、僕は今、自分だけを哀れんで泣いていたって構わないでしょうか。君が困惑することを知りながら、それでもひたすらに情けなく君の同情にすがっていてもいいでしょうか。だって、もう君は明日、僕の前から姿を消し去ってしまうというのですから。
身体の半分を失くしてしまったような哀しみは、淋しさというなす術を持たぬ感情でした。いっそ、それがストリキニーネのような苦痛をもたらしてくれるのならば、僕は世界を呪いながら、昨日までの甘美な記憶の螺旋《らせん》模様を忘れ去ってしまえるのかもしれません。淋しさはしかし、砒素のようにゆうるりと僕の身体を蝕《むしば》んでいきます。
気がふれる。気がふれる。僕は淋しさのあまり、やがて静かに気がふれる。
僕はもう観覧車には乗りません。観覧車はいつか、君と二人で行った春の日の、遊園地の大観覧車を想い出させますから。僕はもう海水浴には行きません。それは去年の寒い夏、水着も持たずただひたすらに歩いた、Y町の遠浅の浜辺の景色を想い出すだけですから。あの日君は、海月《くらげ》が好きだと云いましたね。僕は君が海月を好きなことも、毎朝欠かさず豆乳を飲んでいることも、七歳の時に飼っていた犬を亡くして三日三晩泣き明かしたことも、タコを食べるとジンマシンがでることも知っています。
僕を慰めて下さい。沢山慰めて下さい。僕に悪いと思うのなら、僕を抱き締め、不眠不休でずっと慰め続けて下さい。僕は今、この淋しささえ失いたくないのです。君がいなくなってしまうのなら、僕にはこの淋しさだけが君との最後の絡がりであるように思われるからです。行かないで下さい。僕は病気です。もう少し一緒にいて下さい。お金をあげます。お願いですから、このまま一人にしないで下さい。
気がふれる。気がふれる。僕は静かに気がふれる。