春は桜
東京なれば九段下、靖国神社から皇居のお堀沿いに桜田門へと歩く千鳥ケ淵の並木道。初めてこの道を歩いたのは帝都に久々、大雪が積もった深夜のこと、かつては銀幕のスター達が逢瀬に使ったともいわれる、まるで古い外国の小説に出てくるよな、年老いた見事なホテルマンの迎えてくれる、名門フェヤーモントホテルまでの道程。内堀が被る雪のベエルは何者にも穢《けが》されることなく息をのむ白一色の丘陵を作りあげ、それを眺めつつ眠れる並木の間を往く時の、ロマンチックな胸の高鳴りを嗚呼、君にも是非お聴かせしたいのです。この並木道は枝垂《しだ》れ桜。春がくれば気も狂わんばかりの景色が展開されるのでしょう。きっと春の日には、一緒にこの並木の下を歩きましょう。きっと、きっと、歩きましょう。
京都なら、哲学の道。銀閣寺から若王子橋へと続く約二キロ、疎水沿いの並木道。桜は染井吉野。桜の頃ともなれば物見遊山の人々が朝から夕刻までそぞろ歩きますから、まだ咲きかけがいとよろし。コートなしでは少し寒く、陽が照れば汗ばむくらいの季節、何も語らずに只延々と、人影もまだまばらの華奢な道を、ちょっぴり早足に歩くのです。桜とは、満開になれどその誇らし気な姿に無窮の淋しさを覚えるもの。だから、手を絡がずに君と歩くのです。好きになればなる程、愛しく思えば思う程、胸の奥に拡がる切なき孤独を噛みしめながら。
何処まで続く桜のアーチ。誰が疎水の脇に幾千本の桜を植えようなどといいだしたのでしょう。これ程残酷な叙情にしゃがみ込まずにおれるには、余りに僕は若過ぎます。〈春ハ嫌イダ。春ハ嫌イダ。桜ハ咲クシ、蝶ハ舞ウ。〉歩き疲れた頃にはもうすぐ終点、若王子橋の手前には「若王子」という名の不思議なティールームがあります。煉瓦《れんが》使いの三角屋根の時計台、てっぺんには白い風見鶏。意匠を凝らした庭園は、凝らし過ぎてローマやら中国やらフランスやらイギリスやら解りゃしない。室内にはマリア像、赤い薔薇がごっそりと活けられた大きな花瓶、エトセトラ、エトセトラ。ロココとバロックが婚約したゲイ・テイストなエーテルに包まれながら、いただくお茶の何とかぐわしいことでしょう。
「桜の下には何があるの?」「君の屍体」「埋めてくれるの?」「悦んで」。ほんの少しだけ君のことを忘れて、僕はうっとり眼を閉じます。