愛と洗顔
額に小さな吹き出物が出来ていただけでもその日はずうっと陰鬱になってしまい、人と逢いたくありません。着ていく筈のコートが見当らず不承不承昨年のよれたコートを羽織る時、電車の中で顔もあげられない。どんなに性格を誉められるより、僕には綺麗《きれい》といわれることのほうが大切。お仕事に理解を示して貰うより、お洋服が似合うといわれたほうが嬉しく思えるのです。嗚呼だって、僕は綺麗なものが好きで汚いものが嫌いなだけなのですもの。文学も美術も思想も数式も生物も時間も、美しければ全て正解。内容なんて必要ないのです。内面の美しささえあれば外見なんて構わない、という正論の何と傲慢《ごうまん》なことよ。僕は自分の内面なんてとてもじゃないけどさらけだせない。こんなに混沌とした醜悪なものをどうして人に見せられましょうか。きっと相手は不快になるばかり。僕の表面だけ見てくれとおっしゃったのはウォーホル先生。そう、表層なら努力すれば取り繕える。こうありたいと思うものに近づける。切なる願望の結晶こそが表面なのです。
素敵なものに憧れる時、僕はそれに釣り合うくらいに美しくなりたいと思います。素敵な便箋は素敵な人に使われなくては可哀想。素敵になる努力を怠って素敵な便箋を買おうとするのは野暮なこと、それは便箋に対して礼節をわきまえぬことになります。一等お気に入りといえるものなんてなかなか見つかるものではありません。ですから幸運にもそれと出逢えたならば、精一杯の誠意を見せなければなりません。そうしなければきっとせっかくの便箋なのにつまらぬ封筒に入れてしまうことでしょう。自分では大切にしていると思っていても、それでは大切にしていることにはならないのです。
綺麗といわれることに命を砕いてナルシストと非難されるのは一向に構いません。外面に対し勤勉に努力する人の表層より自分の内面が遥かに美しいと思い込む厚顔無知な自惚れに比べれば、罪は浅いのですから。きっと美の中に存在する切なさとは、醜悪な現実をひた隠しにして自分の存在の理想を求めている羞恥心と不安です(嘘と同じ構成要素ですね)。美の存在意義を知らないものだけが愛を履き違える。健全な愛は健全な美に宿るのです。
さぁ、愛の為に今日も洗顔いたしましょう。