ご飯はフォークの背にのせて
洋食なら、ご飯はフォークの背にのせます。これを「その作法は昔、日本にフォークやらナイフやらが伝わってきた頃、ライスはどうやって食べればいいかと西洋人に訊ね、嘘を教えられたことに由来するから間違いだ」などと手垢のついた知識をひけらかし馬鹿にする方々がおられますが、馬鹿という人が馬鹿、洋食のご飯はフォークの背にのせていただけばよいのです。勿論、フォークの背にのせずとも一向に構いやしないのですが、この作法を間違いだと決定するのは余りに思慮不足というもの。だって処変われば何とやら、それは日本における洋食のマナーなのですもの。それがたとえ間違った根拠から派生したものであれ、立派に伝統として成立しているのです。
伝統やマナー、風習、コモンセンスなんて元来、そんなものです。フォークの背にご飯をのせることを嗤《わら》うのなら、例えばベストの一番下のボタンを止めずにおくことも嗤わねばなりません。この風習も遡れば意味がなく、その昔イギリスでお洒落リーダーさんだった某卿が余りに太ってしまいベストの最後のボタンが止めたくとも止まらず仕方なくそのままにしているのを周りの者が見て、「新しい着こなしらしい」と勘違いしたことに端を発するのだといいます(他の説もありますが、やはり止め忘れたまま……など同工異曲なエピソードのものばかり)。でも、そんな歴史を知っていようがいまいが、現在ベストのボタンを全部止める人なんていやしません。もしこの歴史を知って最後のボタンを止める人がいても、決して誉められたりはいたしませんでしょう。
瑣末《さまつ》的な知識で得意ぶるほど不粋《ぶすい》なことはありません。スープは音をたてずに飲まなくていい、西洋人の殆どはそんなマナーを尊重しないなんて意見も穿《うが》っているかにみえて間が抜けている。スノッブを気取るならもう少し奥行が欲しいものです。上流階級ではやはり音をたてるのは下品とされますし、そんな上流の作法を見倣《みなら》って悪い訳がありません。マナーは遊戯。不自由さを楽しむ精神こそが文化を爛熟《らんじゆく》させます。その優雅さを知らなければスノビズムは悲しいくらいに下品で浅はかです。
僕達は頭の上に本をのせ、おしとやかに歩く練習をいたしませう。実利的でないからこそ、マナーは優雅へと絡がるのです。